2

マンズのトーク

 俺にもひとりだけ師匠みたいな人がいたんだよ。マグーって呼ばれてた。本名は知らない。歳は六十も半ば過ぎてたと思うんだが、今から話す中身を考えると、本当はもっと若かったのかもな。わからん。ガス、あんたもそうだけど。この業界には年齢不詳ってのがゴロゴロいるからな、まあマグーもそんななかのひとりだったってわけさ。

 マグーからは本当にいろいろ教わった。銃を始めとする武器の基本構造、改良するときのポイント。特に軽量化する際に削ってはいけない部分と削れる部分。この見極めには厳しかった。殺し屋の持ち道具は暗殺メインの場合が多い。派手に見せしめの為に殺る場合には配下の奴を使った方が連携も取れるし、なにしろ金がかからないからな。

 殺し屋ってのは〈足が付かない〉が基本だ。だから街中に居ても目立たない奴がほとんどだ。だから道具も刺す撃つが静かだったり、隠し持てるものが好まれる。特に標的がデカいときほど、そう云う注文が入る。問題なのは奴らから全体像を明かされることがないってことだ。そいつがどんな状況下で使うかは、必要最低限の情報しか貰えない。勿論、ターゲットについては知らんし、相手が停まっているのか、動いているのか。銃の場合には距離は、人混みなのか、密室なのか、初弾で終わりなのか、それとも数発は撃てるのか、その場合には何発まで欲しいのか、弾自体も体内に残したままで良いのか、溶けた方が良いのか、障害物の貫通の有無は。暗器の場合には何かに偽装カモフラージユするのか、持ち帰るのか棄てるのか、最初から最後まで身につけているか、それとも鞄で運ぶのか、そういうのを先取りして考えるんだ。で、そう云ったことを考えてから、こっちはプランを練って相手がOKしたら製作に掛かる。で、大事なのは常に客の予想を少しだけ上回るってことなんだ。『二歩先ではダメだ。半歩で』ってマグーはよく云ってた。二歩では相手が自分から主導権を盗られたような気になる。だけど、相手の云った通りを渡しても次がない。だから、ちょっとだけこっちで相手の要求に踏み込んでやる。そうすると相手は自分の考えが正しかったことを再確認し、そしてそれを助長した武器を手にしたことで殺しの自信が湧くんだ。そうすれば必ず次の依頼もやってくる。そうすれば客にとってなくてはならない重要な相手になれる。つまり、自分の命の保証がされるってことなのさ。そういう相手が何人もいたからこそマグーは長い間、事故もなくやってこれたんだ。

 奴がどうにもならなかった、たったひとつの事故――そいつを今から話すよ。

 マグーにはビンタっていう女がいた。昔、淫売かポルノ女優をやってたっていう噂だったけれど、真面まともには信じられないくらいフツーの女だった。特徴と云えば頭がゆるいってことと、その癖、自分じゃ頭が良いつもりっていう、その意味じゃとても気の毒で哀れな女だったのさ。掃除、洗濯、料理も下手。好きなのは買い物に外食。本も読まなければ映画も観ない。ただ一日中、ネットで噂話を読んでるか、買い物をしているような女だった。

 俺はなんでそんな女が良いのか不思議でならなくて一度、マグーに聞いたことがある。

『あんたほど金があるなら他に幾らでもマシな女が取っ捕まえられるだろうに……どうして、ビンタなんだ?』ってな。そしたらマグーは哀しそうな顔をして『あいつはおふくろに顔がそっくりなんだ』って云ったよ。マグーはおふくろさんが大好きだったんだな。いつも世の中の何もかもが気に入らないって顔をしているあの男にも好きなものがあるとしたら、仕事とおふくろさんだったわけだ。云っちゃあ悪いが、気の毒だったね。だってそうだろ? おふくろが好きでおふくろにそっくりな女がでてきたら、もうそこで詰んだのも同然だ。相手に鼻っ面、ひっ捕まえられて振り回される。死ぬまで人参ぶら下げられた馬みたいに生きていくしかない。でも、なんか、それをマグーは選択したんだ。仕方ねえ、俺は別に何も云わなかった。

 ところが事件が起きた。ビンタが蒸発ふけちまったんだ。或る日、突然、マグーのいくつかある銀行口座のひとつから有り金引きずり出してな、ドロンパァよ。始めの頃こそ『あんな女、誰も相手になんかしやしない。いつかは戻ってくるさ』なんてうそぶいてやがったけど、春が過ぎ、夏になり、秋が終わろうとした頃、マグーは仕事をみんな俺に丸投げして捜しに出かけた。おかげで俺は驚くほどマグーの技術を盗むことが出来た。奴は洗いざらい俺に伝えたんだ。だってそうでもしなきゃ、俺ひとりに任せられないしな。三ヶ月ぐらい、奴は工房に姿を見せなかった。なので、もしかしたらビンタかその相手に返り討ちにでも遭ったんじゃないかって思い出してた頃、真夜中に電話が鳴ったんだ。マグーだった。今から来いって云う。工房じゃない。ここから離れた別の街の場所だった。厭も応もなく俺は駆け付けたよ。そしたら、そこも廃墟みたいなビルの一室でさ。取り急ぎこんな感じの工房になってた。俺が行くと腹がビーチボールみたいに膨らんだビンタと駆け落ちした相手っていうのが頑丈そうな肘掛け椅子に縛り付けられていた。肘掛けに前腕を革ベルトで固定されたそいつの顔を見てたまたね。ゼッペキっていう近くのガソリンスタンドの兄ちゃんこだったんだ。ビンタより、いっこにこ年上の田舎のヤンキーモロだしの男で、リーゼントの後頭部がかんなを掛けたように真っ平らだったんで、俺達は奴を絶壁ぜつぺきって呼んでたんだ。

 ゼッペキはもう血まみれだった。怒り狂ったマグーに何もかもやられちまっていたんだろう。特に酷いのは股座またぐらで俺は最初『なんでそんなとこに薔薇が置いてあるんだろう』と思ったんだが、よく見ると引きずり出されて糸屑にされたチンポコだった。皮が破かれたみたいになっている赤い魚肉ソーセージに剃刀と釘が埋まっていて、それらが天井の灯りでたまに光っていた。ゼッペキはもううめく気力もないようだった。ビンタのほうも、つけまやらチークやらコンシーラーやらが土砂崩れしていて三色アイスで洗ったような顔になっていた。

 俺が着いたときにはもうふたりとも散々、叫び倒した後みたいで声はしゃがれてぼそぼそだった。尤もゼッペキは話す気力もないみたいだったけどな。

『元気ですか?』マグーは代わって上機嫌だった。そりゃ、そうだろ。なにしろビンタは無傷で戻ったし、相方のゼッペキは既にオスは卒業ってなもんだったからな。縦皺が横皺になるぐらいニンマリして笑ってやがった。両手は肘から先が全部、ゼッペキの血で真っ赤だったけれども。

『元気ですか?』

 もう一度、マグーが云った。俺は『まあ、元気だよ。あんたも元気そうでなにより』って返すと奴はニヤニヤ頷きながら『元気、元気、元気があれば何でもできる』って、その埃っぽくて狭い処刑場をのそのそ歩いて、ビンタのおでこにチューをすると、ゼッペキの前に立った。突っ込まれていたタオルを抜くとゼッペキは太い溜息を吐いてから『殺せば良いじゃん』とだけ呟いた。俺もその方がイイだろうと思ったよ。だって三十手前かそこそこでチンポが廃棄食材ウエス同然なんだからな、そりゃ、先々の幸せを描こうったって描き方がないわけだよ。これが五十六十ならまだしも、あ、今はクスリがあるから七十八十か? どっちにしろまだしも、三十路でポコチンウェスウェスってのは、ちときついわな。

 そしたらマグーが俺を見てよ『どうやら、こいつらのは愛だって云うんだよ』ってゼッペキの頭を手にした金槌でツンツン叩きながら云うんだ。『愛なんだってよ』って。

 どういうことかというとビンタとゼッペキは一年も前からずっと〈駆け落つ〉算段ってのをしていて、それと並行して〈ふたりの純愛〉ってのも育んできたらしいんだな。それをマグーに半ば解チンされながら開陳していたんだ。

『マンズ、こいつらの愛は本物らしい。俺のとは別なんだと……どう思う』

『厭どうだろう……ビンタも同じなのかい』

『ああ。それが証拠にビンタの腹にはゼッペキの種がいる。ビンタは俺の子は要らんと云っていたんだ。なのにゼッペキの子ははらんだ。この差をどう解く?』

『厭……それは……』

『マンズ、黙って! それはねぇ、あんたが爺で臭いからよ!』ビンタが云った。『臭くて柔らかくて皺皺で色も変だからよ。ソージキ色だもん。厭だよ、そんな色の管から出た種でできた子なんて、出来損ないに決まってるじゃん』

『……なあ、ビンタ。今それはこの状況で云わない方がイイ。俺はそう思うよ』

『ビンタ、嘘ってのはそう云う時に、たまには使って良いんだよ。でないとこの世の中が冷たくなって旨味がふぇーどあうつしてしまう。おまえやマンズに陰口をされなくったって、俺は毎日毎日、自分がどんなに臭くて醜いかを洗面所の鏡から身に染みて教えられてるんだ。だから、せめておまえらは甘い嘘で俺をコーティングする義務があるんだよ。何故ならマンズは俺から技術と知恵を、おまえは生活と安全を受け取っているんだからな』

 俺はビンタの腹に手を載せてポンポンしているマグーに頷いた。その時点で、俺はマグーがふたりとも消すつもりなんだと思っていた。でも本当は違ってたんだな。マグーはそれでもビンタを愛していたようなんだ。愛なんて俺らが使うような言葉じゃないが、兎に角そうだっだんだなと今では思う。

 マグーは何か新しい道具を発明したようだった――真ん中に穴の開いたピザ屋の箱みたいなのがあって、その上でピアノの鍵盤をつま弾くように指をパラパラ動かしていたんだ。

『マンズ、俺がどうしておまえを此処に呼んだか教えてやるよ。実はゼッペキが味なことを云いやがったんだ。俺に正真正銘の愛ってやつを見せてくれるそうなんだ。で、そんなに御大層なものを俺ひとりで見物するのは勿体無いから、おまえを呼んだんだよ。ありがとうと云いな』

『ありがとう』

『俺は奴らが蒸発ふけた時から、捕まえたらどうするかを考えていたんだ。そしてこしらえたのがこいつさ』

 マグーは西すいをひとつ取り出した。季節外れなのに見事なやつで人間の頭ほどもあった。そして、そいつをあの指で叩いていた箱の穴にすっぽりめたんだ。西瓜には十センチほどのつるが残してあって、その下に白いインクで餓鬼の落書きのような目鼻が書いてあった。

 ビンタとゼッペキも、その奇妙な代物を見つめていた。

『なんだいそれは』

『前にリヴーが設計図と共に注文してきたものだ。あの時は信じられないほど薄く、考えられないほど硬い刃が必要だから無理だと断ったんだが……こいつらが蒸発て暫くするとリヴーの奴が送ってきた。御陰で、とんでもない化け物のような玩具おもちやができたぜ』

『玩具なのか、そいつ』

『リヴーはそう云ってるな』

 それから奴は箱を被った西瓜を砂を詰めた皿の上に載せた。それからたっぷりと間を置くと箱の下に触れたんだ。空気を切る音と水っぽい音がしたけれど一瞬、何が起きたのかマグー以外の誰にもわからなかった。しかし、何かが起きたことは確かだった。マグーは西瓜の蔓を掴むと箱から外したんだ。西瓜は切れていなかった。俺は失敗したんだと思った。マグーが皿にまた置き直したしな。が、マグーは西瓜の白い目玉の部分を軽く突いた。すると上半分がゆっくり動くと滑り落ちた。余りにも切り口が鮮やかなので互いの切断面が吸着し合ってしまっていたんだ。西瓜の自重を考えたって、蔓を掴んで引き上げてもビクともしないほどの切れ味なんて俺には想像も付かなかった。

 多分、西瓜も切られたことに気づいてないだろうな。

『この中には刃幅二センチ、厚さ二ミリの極薄の剃刀が仕込んである。それを撥条ばねの力で打ち出し、一気に回転させる。ギロチンの手品なんかである首に填める枷みたいなもんだ。このサイズの箱に全てを汲むのが至難の業だったぜ』

『でも……そんな薄い刃でよく一気に切断できるものだ。聞いたことがないぜ』

『現在、入手できる世界最高の刃のひとつだろうな。俺も生きている間に、こんなものにお目に掛かれるとは思いもしなかった。噂では聞いたことがあるが、まず実現不可能だろうと誰もが思ってたからな。マイクロカーバイドmc63スチール超えの超一級品だ。全くリヴーには毎回、度肝を抜かれるぜ。奴がいったいどんなルートを持ってやがるのかわからないが、これだけのものはスリランカやオーストリアでも滅多に手に入るものじゃねえ……サファイヤよ』

『サファイヤ? 宝石の?』

『ああ。ここに仕込んだ剃刀は、あのサファイヤでできてるんだ。刃先の一番薄い部分は髪の毛の五千分の一、なのに切れ味は外科用メスの十倍だ』

 俺は砂の皿の上で傾いている西瓜に目を遣ったよ。その切り口は、まるで硝子を填めたように滑らかで見事で、血のような果汁が砂を染めていたっけな。それからマグーはゼッペキの後ろに回って椅子の背をくりくり伸ばしたんだ。どうもそれは俺が思っていた普通の椅子じゃなかったみたいで改良された椅子だったんだ。マグーはゼッペキの頭を椅子の背に〈今となっては背と云うよりも座高を測る椅子の支柱に近い〉ぴったりと押しつけるとゼッペキにあの箱を被せ、そいつが顎の下、肩と平行になるように調整した。その間、ゼッペキはまるで卒業証書か賞状を貰う前みたいに背を真っ直ぐに伸ばし、神妙な顔を正面に向けていた。

『さあ、できたぞ』

『どうするんだ』

『ゼッペキが愛の力を俺に示してくれるんだそうだ。俺はふたりを殺すつもりだが、もしゼッペキの愛の力が本物だと証明できたら。それもただ雌犬ビンタを愛してるなんていう薄っぺらなものじゃなく、人間は愛の力を信じればとんでもないことが可能だってことを俺に見せ、それによって俺が打ちのめされるようなものじゃないとな』

『云ってることがよくわからないね』

『いいんだよ。それで。オマエが来る前に俺たちの中では話が付いているんだ。とにかくゼッペキの愛の力で俺がボインってやられたら。俺は雌犬ビンタとその子袋の中のたわけた餓鬼づれだけは助けてやるんだ。寛大だろ? 寛大ッだって云いな』

『寛大だよ』

 それからマグーはビンタごと椅子を引きずるようにしてゼッペキの前に運んだ。そしてふたりの間にテーブルを置くと、隅にあった冷蔵庫から背の高いどっしりしたグラスを持って来た。グラスのなかには白い液体、その上に生クリームが掛けてあって赤い桜桃さくらんぼが載っていた。それをテーブルに置いた。

『ミルクシェークだな』

『ミルクシェークだ。俺は物事を集中して考えたい時には必ずミルクシェークを呑む。それも飛び切り長いストローを使って、ずずずずずーッと呑むのさ。そしてそれを完遂すると俺は自分の脳のシナプスの一本一本にミルクシェークが染み渡るのを感じる。そうすれば俺の勝ちとなる。今回もそうだった。こいつらが立ち回りそうな処を片っ端から当たるような莫迦ばかな真似は止めて、ミルクシェークを呑んだ。二三百杯は呑んだな。長いストローで。それこそミルクシェークだけで風呂に入れるほど呑んだんだ』

『ただ単に不動産屋に網を掛けただけじゃないか』

『おや? すっかり無駄口を叩く気力もないと思ったが……どんな気持ちだ? 自分のデチ棒の有様を見て』

『俺はどうなったって良い。でもビンタだけは助けてやってくれ。ビンタとお腹の子には罪は無いだろ!』

『な? ゼッペキってのは、この通りなんだ。ペラッペラだろ? 軽くて薄い男なんだ』

『確かに。火が点きそうな薄っぺらい物言いだ』

 マグーは白い飲み物の入ったグラスにストローを差し込んだ。小さなテーブル越しに座らされたビンタは何も云わずにっとふたりを見ていた。それからマグーはゼッペキに〈おまえの云う愛の力が本物で、本当にビンタを救いたいというのなら、このミルクシェークを呑んでみろ〉と云った。

『呑めば、ビンタは助けてくれるんだな』

『ああ。しっかり呑んで見せればな。但し、おまえが吸い始めるのはギロチン後だ』

 シュッというゼッペキとビンタのふたりが同時に息を呑む音が聞こえた。

『ギロチン後……』

『おまえの首に今はまっているサファイヤ製の剃刀が一回転してから吸い始めるんだ』

『そんなのできるわけないじゃん! 無理だよ! 死んじゃうじゃん』

『ビンタ、そうじゃない。ゼッペキはもう死んでいるんだ。今、おまえの目の前にいるのは埋められていないだけの男だ。気にすることは何もないんだよ』

『ゼッペキ! 止しな! あたいは殺されたって良いよ。こんな臭い爺と生きるぐらいなら死んだ方がマシだもん!』

『ビンタ。何てことを云うんだ。俺は今、傷ついたぞ。ゼッペキ、どうする? 別にどっちでもいい。ひとりるのもふたりるのも同じだ。どうせ、ちり紙のような女だ。好きに決めろ。俺は明日になれば自分のしたことも、誰をったかすらも、きれいさっぱり忘れてお笑い番組を見て過ごすことができるんだ。俺にはそういう能力が備わっているんだ』

『ビンタ……マグーは関係ないんだ。俺はおまえに俺の本気の気持ちがどんなものだったのかを見て欲しいんだよ。もうこんな躯にされちまったら俺は生きてはいけない。だから、最期に俺がどんなにおまえを愛していたかその目に焼き付けておいてくれ。俺は絶対にこのミルクシェークを呑み干してみせる!』

『ゼッペキ……』

『どうだ? 木っ端なジュテーム芝居だとは思わないか?凄いだろ、こいつら』

『この期に及んで、ここまでドサ芝居染みたセリフが吐けるって云うのは親はどんな育て方をしたんだろうな』

『教育の貧困が現れているな』

『まさしく教育の未達だ』

 マグーはゼッペキの後ろに回った。箱の下に指を当てている。既に動力はセット済みなんだろう。ビンタとゼッペキは相手の全てを目で呑み込もうとしているかのように見つめ合っていた。部屋の空気が急に薄く感じられた。

 口を真一文字に結んだゼッペキが鼻を膨らませて深呼吸を繰り返し、ビンタに向かって何度も小さく頷いた。

『いきま~す、3……2……1』

 ばびゅんという空気を裂く高い音がした。あまりの速さで刃が見えなかったのと、ゼッペキの顔にも首にも変化がなかったので、俺は失敗したんじゃないかと思った――でも違った。ゼッペキの首の周囲に丸い血の玉がネックレスのようにぷつりぷつりと湧き始めた。と、同時にビンタを見つめていた奴の黒目が上の方へ逃げるように移動したんだ。

 物凄い切れ味だった。何の抵抗もなく首の筋肉と頸骨をまるでプリンのように一瞬で轢断れきだんして元の位置に戻ったのだ。

 時間が凍り、死の静寂が部屋を圧していた。

 マグーがゼッペキの口にストローをくわえさせた。わなわなと痙攣している唇がストローを自ら咥えるのを俺は見た。次いでゼッペキの黒目が降り、元の位置に戻った。

『……ゼッペキ?』

――ずっ。ずっずっずっ――音がした。半透明のストローの内部をミルクシェークが、のそりのそりと重力に逆らって移動するのが見え、グラスの中身が少しずつ減り始めていた。

『呑んでるのか』

『そのようだ』

 ゼッペキの顔は真っ白だった。が、唇だけは赤く、白いミルクシェークを端に少し垂らしたまま動き続けていた。そしてその度に耳がひこひこ上下した。

『生きてるのか?』

『そんな莫迦な……』

『でもミルクシェークを呑んでるぞ』

『あまりに切り口が見事なんで断首されたことが、わかってないのかもな』

 グラスのミルクシェークは確実に1/3ほどが減っていた。グラスの内側に白いミルクの汚れが残っている。ビンタは今にも爆発しそうな顔で見つめていた。

 と、動きが停まった。ゼッペキの目が少し上向きになった――途端。

 げぇぇぇぇーぷ。喉からゲップが出た。

『ゼッちゃぁぁぁん!』

 ビンタはどうやって解いたのかロープから抜け出すとゼッペキの頭に抱きつき、そのまま何の抵抗もなく後方に飛び込むように倒れた。首を失ったゼッペキの喉の断面からミルクセーキが血泡とともにぶくぶくと湧き出した――げぇぇぇぇ。ホースのような太い気管からまたゲップが出、辺りに牛乳っぽい臭いを撒いた。と、血が盛大に溢れ始めた。

 ビンタはゼッペキの頭部を抱いたまま横倒しになっていた。

『何やってんだ、おまえ』

『取れちゃったよ』

『当たり前だろ。切ったんだから』

『なんでよ! なんでなんだよ! 莫迦! ゼッちゃん、がんばったじゃん!』

『わかったから立てよ』

 俺が手を伸ばすと、その手を弾いて〈触んないでよ〉なんて云いながら立ち上がったんだが、奴は莫迦だからゼッペキの首を爪先の上に落っことした。

『痛い! なんでよ!』

『落としたからだろ! 頭なんかボーリングの玉ぐらい重いんだ』

『知んないよ、そんなこと! 莫迦! 莫迦! みんな死ね!』

 と、そう叫んだビンタは急に空気が抜けたようにヘロヘロと、また床に倒れた。マグーが駆け寄り、声をかけたり、揺すったりした。ゼッペキは皮膚がゴムっぽくなって、今度は誰が見ても完全に死んだ顔になっていた。それが証拠にちょっと笑っている。人は死ぬと、ちょっと笑顔になる。生きる苦しみから解放されるのは誰にとっても気持ちが安まるのだろう。

 マグーがビンタから離れ、いきなり立ち上がった。

『死んでる』

『まあね。首がないんだから』

『違う……ビンタだ』

『え?』

 ビンタは死んでた。マグーは信じられないと云った顔つきで何度も揺すったり、心臓や首筋の脈を取っていた。俺も信じられなかった。何にもしてない女が目の前で勝手に、ナイフも銃も使わず、全くもって自分勝手に死んじまうのを見たのは初めてだった。

 が、紙に水が染みこむように段々、ビンタの死が本当だと俺たちは理解してきた。マグーは立ち上がった。立つ時、デカいキャンディーみたいに膨らんだビンタの腹に手を掛けたのにビンタはうんともすんとも云わず、向こう側を向いていた。生きた妊婦が臨月腹に手を置かせて立つのを助けるとは思えなかった――ビンタは死んでいた。

『信じられん……なんで死んだんだ……俺は手を出してない……こんなの見たことないぞ。マンズ、おまえはあるか?』

『ない……あるわけがない』

『とりあえず、俺は考えをまとめる必要がある。それにビンタをこのままにはしておけない。おまえが脚を持て、椅子に座り直させよう』

 マグーに云われるままに俺達はビンタを椅子に座らせ、一旦、その場を離れた。

 奴は仕事場、、、の廊下を行った先にちっぽけな事務所を持っていた。俺たちはそこに入ると酒を取りだし、飲み出したんだ。マグーはぐったり疲れていた。なんだかしかめっ面のまま青島ビールを半ダースも空けていた。奴はビンタとやり直すつもりだったと云った。ビンタは莫迦だが、莫迦だからやり直しはすぐに利くと。

 ビンタを椅子に座り直させてから、俺はマグーに云うべきか云うべきでないか迷っている情報ネタがあった。そのまま、ごっくんしてしまっても良いんだが、その晩(既に午前二時を回っていた)は、無性に口が滑りたがっていた。

 で、俺はグダグダやってるマグーに云ってやった。

『俺、あんたに云うべきかどうか迷ってることがあるよ』

『なんだ』

『どうしようかな。黙ってても良いんだけれど、それはあんたに不義理するようでね』

『だからなんだ』

『ビンタは嘘つきだぜ』

『ああ。あいつは頭が弱いから嘘を吐くしか世渡りができなかったんだ』

『でも下手糞だよ』

『それがいいんだ。あ、こいつまた嘘吐いてやがるってわかるから、こっちはドジを踏まずに済む』

『ビンタの腹の中の子はゼッペキの子じゃないんだ』

『……』

『あんたの子さ』

 マグーは俺をまじまじと見ると瓶を掴んで笑った。それも、まるで初めて笑ったように長い間、最後の方は咳き込んだ。

『嘘じゃないんだぜ。俺、ビンタから相談を持ちかけられてたんだ。どうしようって』

『どうしようって? どういうことだ』

『あんたが子どもを欲しがるかどうかってことさ。ホラ、あんたは普段から餓鬼は金を食う蟲だって云うからさ』

『そんなものは例えさ。本当に自分の子ができりゃ、育てるぜ。それこそ跡継ぎだ。でも、それならなんでゼッペキの子だなんて嘘を云うんだ』

『そりゃあ、ゼッペキに連れ出して貰う為だろ。ビンタは寂しかったんだよ。あんたは毎夜毎夜、工房に泊まりがけで、ちっとも可愛がってやらなかったじゃないか……』

『そりゃ、俺達の仕事ってのはそう云うもんだからな』

『ビンタはそんなことがわかるようなタマじゃないよ』

『確かに』

『それで詰まらなくなっちまって、ついつい魔が差したんだよ。子どもができたら自分だって自由勝手には出来なくなるぐらいはわかってたはずだからな』

 マグーは黙って聞いていた。信じられないことに目に泪が光っているようだった。マグーは、何故か他人にはわからない理由からビンタを愛していたんだな。

 で、その時、がしたのさ。玩具の猫みたいな音が。俺たちは耳を澄ました。そして立ち上がるとビンタとゼッペキを残してある作業場に戻ったんだ。

 ドアを開けると〈音〉ははっきりした。泣き声だった。しかも――赤ん坊だ。

『なんてこった』

 俺の前にいたマグーが呟いた。ビンタの脚の間から赤ん坊が覗いていた。弱々しい、今にも死にそうな、か細い声だった。

『ビンタが産んだんだ……』

『まさか……』

 マグーが我が子を抱こうと小腰を屈めて、近づいた瞬間のことだった。

 奴の目と鼻の先でビンタの右足が、ふっと浮くと赤ん坊の頭を踏み付けたんだ。柔らかな甲羅が割れるような音がすると、もう泣き声は消えていた。俺は絶句した。

 マグーが振り返った。その目の中には紛れもない恐怖が充満していた。奴は口をばっくりと開けると暫くしてから物凄い叫び声を上げたんだ。

3

「俺の話はこれでしまいだ」

 マンズは如何にも疲れたと云うように長い溜息を吐いた。

「ビンタって女は死んでなかったのか」

 奴は首を振った。

「それはない。マグーも俺もあんたらと同じ業界の端くれだ。死んだか生きてるかは、そんじょそこらの医者より確認できる……あれは……本当に起きるはずのないことが起きた……それ以外に云いようがねえよ」

 おれは卵をポケットにしまった。

「それから暫くしてだな。マグーが逝ったのは」

「そうさ。自作のスライサーで自分を刻んで自殺したんだ」

「側にミルクシェークがあったのは、そういう意味だったのか。俺は現場を写真で見たんだ。リヴーは見事な自殺機械スーサイド・マシーンだと褒めていた。確か大型のハムスライサーのようなものだったと聞いたな」

「自動ギロチンだよ。最大五センチ幅で奴は自分を刻んだのさ。丸太の切れ端のようなものが工房には溢れていたよ」

「リヴーも死体処理には実用的だと褒めていた。ただ、メンテナンスが困難で機械自体はマグーの躯と一緒に溶かされたんだったな」

「その通りさ、スライの息のかかった工場の溶鉱炉でね。ただマグーの拵えた箱ギロチンはリヴーが持っているはずだ」

「それは知らなかったな」

 それから、マンズは何故か苛々したように部屋を歩き始めた。

「どうしたんだ?」

「厭なことを思い出しちまったから、なんだか落ち着かねえのよ」

「罪悪感ってやつか?」

「どうかな? そうかもしれねえ。あんたらよりはそいつを多くもってるからな」

 するとそれまで黙って聞いていたチャフがクスクス笑い出した。

「どうした?」

「そんなものマンズにあるわけがないじゃないか……あなたも案外、お人好しだな、ガス」

「そうかい?」

「ああ。奴は自分にムカムカしているだけさ。ビンタのお腹の子はマグーでもゼッペキでもないのさ。そうだろ? マンズ?」

「おまえ、そんなに死にたいのか」マンズが睨み付けていた。

「なあ、ガス。俺にも話をさせろよ。怖い話なんて莫迦莫迦しいと思ってたけど、マンズの与太話を聞いたら、そんなものよりもっと面白い話が俺にはあるんだ」

「どんな話だ?」

「俺の兄貴……Softyのことさ」

「ガス、こいつは出鱈目を云うつもりだぜ」

 おれはマンズが続けて喚こうとするのを手で制した。

「聞いたからと云って、おまえを解放するわけにはいかないんだ。おまえはマンズのものなんだから」

「そんなこと云わないよ。ただ俺の話を黙って終いまで奴にも聞かせろってのが条件さ」

 おれはマンズを見た。マンズがきっぱりと首を横に振った。

「いいだろう……」

 マンズがおれを睨むのが目の隅でわかったが、おれは全く気にしなかった。それよりソフティー関連なら良い話が録れそうだと僅かに期待した。

「まず、これだけはハッキリ云っておく。ビンタの腹の中の子はマンズ、おまえの餓鬼だ。そうだろ? おまえの手癖の悪さは、そのちんちくりんのベタな整形お直し同様、全員が全員、お見通しだからな」

「てめえ!」マンズがチャフの脳天にハンマーを振り下ろそうと近づいた。

「よせ」おれは云った。「話が先だ。終わったら好きなだけ殺るが良い」

「この野郎、おまえの脳味噌を頭蓋の割れ目から掻き出して、このカウンターに手でなすり付けてやる」マンズはハンマーをカウンターの中へ乱暴に放り込むと、そのままコークハイを作ってはあおり始めた。

 おれは、リヴーの卵を取り出すとチャフの傍らに置いた。

「……始めろ」

 空咳をひとつしたチャフは皮肉っぽく笑ったが、無視した。

(続く)