目次
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
-
沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
閉じる
第一話 砂漠を進む英雄
1. SEASON OPENING IN COLLEGE
「今いい? 忙しい?」
膝の上でノートパソコンを操作していると柔和な声が横合いから聞こえ、長椅子型の座席の端に浅く腰掛ける者がいた。
「いいよ。開始前やし」
横浜体育大学
四月八日、土曜日。まだ本格的に新学期の授業もはじまっていないこの週末、関東一部の大学バレー部は今シーズン最初の大会をさっそく迎える。五月下旬までほぼ毎週末続く春季リーグの第一戦だ。明日日曜には第二戦がある。
一階フロアで“旗持ち”の一年生たちが長い竿にくくりつけた
コートをひとしきり走りまわった旗持ちがコートの中央に旗を立て、歓声とともに雪崩れ込んできた他の部員たちが旗に群がって円陣を組む。と思ったらあるコートでは一年生の旗持ちから上級生が旗を奪って逃げるという悪ふざけがはじまった。追っ手のタックルをサイドステップで
「調子乗ってバカ騒ぎすんなっちゅうの……。高校生よりあほばっかやな。これだからリーグの序盤は緊張感ねぇんじゃ」
「おれはリーグ好きだよ。初日で誰も泣いて帰らないでいい」
あきれる越智の隣で浅野がさらりとした耳心地の標準語で言った。
今はまだ気楽な見物気分といった感でコートを見下ろしている浅野の横顔を越智はちらりと見やった。こういうことを飾らずに言って嫌味がない奴なんだからな、と
「まあ高校はほとんどトーナメントやったし、厳しかったっちゅうたら厳しかったな」
「三年間で限られた回数しか大会はないのに、その全部が一回負けたら終わりっていうプレッシャーの中で高校生が戦い続けるのは酷だよ」
こんな優しげな男こそが、“攻撃の景星”と呼ばれるパワフルな組織バレーで“高校七冠”を打ち立てた景星学園の、その歴史の第一歩となった春高バレー初制覇を果たした代の主将なのである。
と、浅野が誰かを見つけて嬉しそうに手を振った。
越智たちがいるのは南側スタンドだ。正面に北側スタンドが見え、南北スタンドを繋ぐ東西の壁沿いのギャラリー(通路)の上では試合前のチームがジョグをしているのが見える。平均身長が高いバレー部員が行ったり来たりしていて見通しが悪いこともあり取り立てて目立つ誰かの姿は見当たらなかったが、
「直澄!」
と急に近くで声が聞こえた。越智が振り向きざま浅野の背後に二メートル級の大きな影が現れた。
「
反射的に身構えてしまった越智をよそに浅野は平然としてその名を呼んだ。
背もたれを難なく跳び越えて浅野の向こう隣に尻を落ち着けたのは果たして、二メートル級どころか一七〇センチ台半ばの小柄な人物だった。ターコイズブルーのチームポロシャツはMサイズで十分だろう。いやMサイズは本来別に小柄ではないが、この会場内ではあきらかに骨格がひとまわり小作りで
「ちわ」
と越智は浅野の陰から首を伸ばして会釈した。まあ歳はタメなのだが、なんとなく気圧されて。
「アナリストと作戦会議中やったら遠慮したほうがよかと?」
越智の姿を見て弓掛が愛敬のある博多弁で言った。そう?という顔で浅野がこちらを見たので越智は首を振り、
「いや、今日の段階で聞かれてまずいことなんかないで」
慧明と対戦するのはリーグ終盤の第十戦に決まっている。まだ一ヶ月半も先だ。
「……欅舎か」
と越智は弓掛の目当てに気づいた。
答えるかわりに弓掛の意志の強そうな瞳が虚空をなぞって下のフロアに向いた。
「今年の“台風の目”になるかもしれないからね」
浅野が弓掛が言葉にしなかった答えを代弁した。
「一年が入っただけでそんな急にひっくり返るか? あいつら昨日が入学式やろ。今日でるんかもわからんし」
「その方言って……福井なん?」
と、一度フロアに注意を完全に移した弓掛が越智のイントネーションに興味を示して視線を戻した。
「ん、ああ、福井やけど……」
「越智は三村と同じ高校だよ。清陰じゃなくて」
浅野の補足を聞いて弓掛が「三村……」と呟いた。弓掛の次の言葉に越智はつい期待をもって耳を澄ませたが、「……ああ、欅舎の17番やっけ」知らないわけではないが特に強い印象もないといった反応だった。バカにした感じもなかったので本当に素直な印象がそれだけなのだろう。
三村も高三までに全国大会には何度も出場している。しかしベスト4を目標にしつつついぞ叶わなかった福蜂と違い、ずっと高校の頂点を争ってきた弓掛の眼中に入るプレーヤーではなかった──それが客観的に見た三村の評価なのが、致し方ないが現実だ。
三村も越智も、三年前の福井で“台風の目”に陥落した側のチームだった。
あのとき清陰高校で台風の目になった一年生二人が、今度は大学で旋風を巻き起こすのかもしれない。三年たてば悔しさはとっくに喉もとを過ぎ去ったと思っていたが、あいつらに対して未だにちょっとだけ負け惜しみを抱いている自分がいるようだ。
第一試合の開始を前に越智はAコートをコートエンド側の真後ろから見下ろす席に陣取っていた。昨年度秋季リーグを六位で終えた欅舎大と、同七位の
欅舎大は関東一部の中ではトップ争いに絡んだことはないレベルだが、ユース代表として高校生世代のトップでプレーした二人の大型ルーキーが加入したことでにわかに注目されていた。
欅舎の選手層が厚いわけではないのもあるにしろ、昨日入学式を終えたばかりの二人がもうユニフォームをもらって公式練習に加わっていた。
二年生の次に振られている背番号は黒羽祐仁が23番、灰島公誓が24番。
練習を見ている限りでは灰島は控えのセッターだ。スパイク練のトスは新四年生のセッターがメインであげている。練習には春休みから加わってはいたのだろうが、合流してせいぜい一ヶ月の一年生にいくらなんでもスタメンセッターは任されないだろう。
大学で本格的に身体づくりに取り組みはじめた二年生以上に比べたら一年生の二人の体格はまだまだ高校生だ。さすがに初戦であいつらが通用しては困る……というのは、越智の個人的感情もだいぶ含んでいるが。
エントリーメンバーは最大十四名。一年生がベンチ入りすればもちろんかわりにベンチから押しだされる者がいるため、欅舎の十四人の顔ぶれは越智の予想とかなり変わっていた。
今日から9番やな、統……。
先ほど弓掛が言った17番は去年の背番号だ。三年生になり、四年生に次いで一桁の若い背番号をもらった三村もまた灰島、黒羽とともに公式練習に参加している。去年の全日本インカレからやっとエントリーされるようになったのに、またベンチから外れないかと懸念していたのでユニフォーム姿を見られて安堵した。
コートの外周でスパイク練の順番待ちをしていた三村と黒羽が同時にセッターに向かって手をあげた。助走に踏みだしかけてぴたっととまった黒羽を三村が手振りで先に行かせた。
「福井出身が三人……今年の欅舎は福井と縁が深いチームになったよな」
浅野の呟きに特に含みはなかったのかもしれないが、越智は「あっ、言っとくけど欅とやるとき手ぇ抜くなんてことないでな?」とつい早口になって言い募った。「対策きっちり提案するためにこうやって初日からデータ集めに来てんやし。むしろ絶対負けられん」
「あはは。そりゃそうでしょ。仲いい奴とあたったときこそ絶対こいつ叩き潰して参ったって言わせるって思うよね」
越智からすると不思議な関係だ。アンダーエイジの代表選手や強化選手として招集された先でチームを組むことは何度もあった二人だが、実はこの二人は所属チーム自体が同じになったことは一度もない。彼らの豊富なバレー経験の中では一緒にプレーした時間が占める割合はごくわずかに過ぎないはずだ。
同世代のトップを走り続ける者たちにだけ通じあうなにかがあるのだとしたら、越智には理解できないものなのだろう。
公式練習が終了し、午前十一時。A、Bコートに四チームの選手が整列した。第二試合以降は試合が終わったコートから追い込み方式で次の試合がはじまるので時間がずれていくが、第一試合は二コート揃って仰々しくはじまる。
フロア、スタンドとも水を打ったように静粛になる。学生連盟の運営委員の声でアナウンスが流れた。
『ただいまより、春季関東大学男子一部バレーボールリーグ戦、第一日第一試合、Aコート欅舎大学対督修館大学、Bコート
コイントスにより第一セットは欅舎が北側コートを取ったため、越智がいる南側スタンドからだとこちらを向いて整列した欅舎の選手たちの表情が見えた。
欅舎のユニフォームはカレッジカラーであるネイビーと白を基調にしている。襟と脇にネイビーが入った白いシャツとネイビーのパンツ。背番号の数字もネイビーだ。
部旗もネイビーの布に白抜きで校章がプリントされている。
その部旗を手にした黒羽だけが背番号順の列を抜け、主将の隣で部旗の柄を床に立てて神妙な顔で直立していた。入学して最初の試合で旗持ちという、高校生にはなかった仕事を任されてしゃちほこばっているのが
十四人の中で背番号が一番大きい灰島が黒羽と反対側の端にいるが、こちらは黒羽と違って誰より実戦慣れしてるみたいな
黒羽と灰島に挟まれた残り十二人の中ほどに三村がいた。隣の選手のほうに首を傾けてなにかこちょこちょと喋りかけ、首を戻しても妙ににやついている。こら、緊張感もたんかと越智は胸中で苦言を漏らしたが、気が緩んでいるというよりは、楽しそうなのだった──ユニフォームを着てシーズン初戦を迎えることが、たまらなく楽しそうな。
弓掛しかり、浅野しかり、灰島しかり、黒羽しかり。中学、高校時代から全国大会のセンターコートや世代別の代表を経験し、大学に進んでも一年や二年からコートに立つ選手がいる。その一方で、大学三年や四年になってから力が伸びてやっとレギュラー入りする遅咲きの選手もいる。
三村は──後者だ。
三村に“遅咲き”という枕詞をつけねばならないことが、福井時代を知っている越智には不本意ではあった。地元福井では小学生でバレーをはじめた頃から持ち前の運動神経と愛されるキャラクターですぐにカリスマ的存在になった。以降高校三年まで、福井の絶対的エースという看板を進んで引き受け、福井のバレーをずっと先頭で盛りあげてきたのが三村だった。
けれど、福井は北陸の小さな県だ。自分の認識が井の中の
ピ────!
静まった体育館に長いホイッスルの音が突き抜け、選手たちが一礼とともに握手へと踏みだした。空気が静から動へと一転し、以後の進行は各コートに任された。
シーズン開幕の熱の高まりに心地よく身を置きながら越智はノートパソコンを膝の上に戻した。コート全体を立体的に視野に収められるコートエンド側の席には越智の他にも各大学でアナリストとして働く部員たちがスタンバイしている。
大学上位レベルの多くのチームではマネージャーやコーチらのスタッフとともに学生アナリストを置いている。エンド席でヘッドセットを装着しノートパソコンを開いている者がいたらそれがアナリストだ。スタンドの最前列の手すりの前にはビデオカメラを取りつけた三脚が所狭しと設置され、そこだけ黒々とした針葉樹林帯みたいになっている。毎試合必ず朝一番に来るアナリストたちが場所を争って設置したものだ。
スターティング・メンバーとローテーションを目視して分析ソフトに手早く入力し、アナリストのほうも第一セット開始の準備が整う。
欅舎のスタメンは四年生中心だ。三村、黒羽、灰島はともにウォームアップエリアに退いている。
公式審判員の制服を着た主審が審判台の上で胸を張ってホイッスルをくわえた。
ピィッ!
最初のサーバーがサーブを放った直後から、越智を含むアナリストたちがいっせいにキーを叩きだした。
フロアではじまった躍動的な戦いの陰で、スタンドでは静かに仕事をこなす者たちの指が最低限の動作でキーボードの上を滑る。カタカタという小さな、それでいて個々に強弱の個性がある
「はじまったばっかりなのに交代する気満々だよ」
隣で浅野がくすりと笑った。
ブラインドタッチでキーを叩きながら越智は浅野の視線をたどって欅舎のアップエリアに目を投げた。
ジャージをはおっている者もいたが灰島はユニフォームのまま、応援の声をだすこともなく黙って腕組みをしてコートを睨んでいた。味方側の調子、敵側の作戦意図──コート上のあらゆる情報をインプットするような鋭い目つきで。一年生の四月の態度じゃないな、まったく……。
「じゃあおれはそろそろ下りるけん」
浅野の隣で弓掛が腰をあげた。
「うん。慧明A2だっけ」
浅野が弓掛を振り仰いだ。慧明はこのコートの第二試合。秋季リーグを総合三位で終えている慧明の初戦の相手は同十位のチームなので実力差はかなりある。
越智に向かっても気さくに「そんじゃ」と言い残して階段を上りだした弓掛を越智は会釈で見送った。
「あ、四年の人たち……」
と、ちょうどそのときスタンドの出入り口に現れた黒いジャージの集団が目に入った。
越智と浅野が所属する、関東一部で唯一の国立大──
中学や高校の最上級生に比べて大学の最上級生は一線を画した存在だった。三学年でひとまとまりの世界だっただけに、その上にもう一学年いる四年生にはおとなの風格を感じるのだ。身長は全員一九〇センチ以上。高さ・幅とも十分に余裕をもった造りの鉄扉の前を三、四人で縦も横もほぼ完全に塞いでいる。越智や浅野と同じ黒のジャージが布製ではなく鋼鉄製の甲冑であるかのように見えるのは、その体格の仕上がりの差ゆえだ。
「……
と、弓掛が押し殺した声でその中の一人の名を口にした。浅野の隣で楽しげに喋っていたときの愛敬は跡形もなく消えていた。
そちらを睨み据えたまま弓掛がおもむろに階段を上りだした。席に現れたときに越智が息を呑んだあのオーラが一段ごとに再び肩から立ちのぼり、ゆらゆらと弓掛を包んでいく。最上段に着いたときには小柄な背中がまた二メートル級に膨れあがったかのような錯覚を起こした。
正面に立っていた四年生が一歩よけて扉の前を弓掛に譲った。弓掛に特段の反応を示したわけではなく、単に人が来たので通り道をあけたという感じで弓掛を見送る目線と縦にぶれない首の動きがどことなく、防犯カメラが動体検知により自動的に首を振ったようでもある──誰が呼びはじめたのか知らないが、聞けば誰もが納得してしまう二つ名がその男にはあった。
“ターミネーター”破魔
一九七センチの堂々たる長身だが、黒いジャージに包まれた厚い胸板が身長以上に身体を大きく見せている。
弓掛の後ろ姿が鉄扉の向こうへ消えたとき、入れ違いに八重洲のジャージ姿の部員がさらにもう一人現れた。一昔前のコンピューター・グラフィックスめいた表情で弓掛を見送った破魔の顔にそのとき初めて人間らしい表情が浮かんだ。
親しげに破魔と声を交わしながら現れた新たな部員も四年生だが、バレー選手としてはごくごく
黒いジャージに映える明るい金色の髪が、控えめな茶髪ですらまずいないこの会場では異彩を放っていた。破魔をはじめとする
大学ナンバーワン・ミドルブロッカーの呼び声高く、今ではシニアの日本代表にも招集されてプレーしている破魔清央が象徴する強豪・八重洲大学の今年の主将が、バレーコートより渋谷にでもいるほうがどう考えても似合うこの男、
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
-
沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
閉じる