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著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
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沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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第一話 砂漠を進む英雄
3. HOMEBOYS' HOUSE
「おわっ、滑り込みアウトかー」
練習着を着替える時間も惜しんで自転車を飛ばして帰ってきたらしい三村が食堂の厨房を覗いて悲嘆に暮れた。食事の提供は二十二時半まで。壁の時計は二十二時五十分。寮監夫人はもう部屋に引っ込んで厨房の電気は落とされている。
「滑り込みでもないアウトですよー。あれ? おれらより体育館でんの遅かったんですね」
黒羽がテーブルから声をかけた。「お帰りなさい」「おつかれっすー」と口々に言う棺野や大隈にも手振りで応えた三村がカウンターから厨房に上半身を突っ込み、
「お、助かったー。置いといてくれてる。おばちゃんありがとー」
とラップがかかった食器が載ったトレーを引っ張りだしてきた。
今年の高志寮生にバレー部員は全部で五人いた。
内訳は欅舎大生が三人、秋葉大生と大智大生が一人ずつ。清陰出身の四人の他に、福井県内きっての運動部の強豪校である福蜂工業高校の出身者が一人──というかそもそも福蜂から関東の大学にスポーツで進学した者がこの寮を多く利用している歴史がある。食事時間延長の功労者というのも福蜂運動部のOBだと伝わっている。バレー部OBは今年は三村一人だが、三村が下級生の頃は先輩がいたらしい。
「ギリまで自主練やってたんですか」
頭ぶつけなかったか? 強がってスルーしたな……。ごく自然に同じテーブルに座った三村の赤くなった額にジト目を向けつつ灰島は尋ねた。ちなみに大学体育館の電気は二十二時半に警備員に無慈悲に落とされる。
「ん、まあな。何人か声かけて」
「何人かって誰ですか」
重ねて問うと、三村が「なんでそこ突っ込むんや?」と首をかしげて
「んーと、
と次々に名前を挙げた。
三年の辻健司と二年の福田大輔はともにミドルブロッカーだ。二人とも地元の県大会では上位に入る高校出身だが全国大会や高校選抜の経験はない。
二年の柳楽純哉は左利きでポジションはセッター対角。出身高校は埼玉の
三村が挙げた自主練メンバーは全員Bチームだ。試合にでる機会はまだなかなかない。
「ところで二人とも履修もう組めたんか? 履修登録明日いっぱいやぞ」
と、自主練の話は掘り下げず三村が話題を変えた。
「あ!」
途端、灰島は黒羽と揃って飯を噴く勢いで声をあげた。
「期限忘れてた……」
「灰島だいたい決めたんけ?」
と訊いてきた黒羽に灰島は首を振り、「必修以外は真っ白」
入学式の直後から毎週土日はリーグ戦があり、さっそく部活中心に大学生活がまわっているが、一年生にとって四月は覚えることや手続きすることが山のようにある。高校までと違ってほとんどのことは自分で決めて自分で手配しなければなにもはじまらないのが大学だった。
部員が全員集まれてまとまった練習時間を確保できるのは夜練だが、大学体育館の使用日の制約もあるため曜日によっては日中の講義時間中に空きがある者だけでやる日もある。必要な講義を取りつつ練習にもなるべく参加できる時間割を自分で組んで登録しなければならないのだが、実のところ右も左もわからず途方に暮れている。なお五年以上大学に在籍していても公式戦には四年間しか出場できないので、万一の話だが留年するわけにもいかない。
「語学はなに取るんや? 第二外国語」
三村に訊かれると、しかしそれには灰島は迷わず答えた。
「おれはイタリア語です」
「イタ語?」ときょとんとした三村の声に「イタリア語ぉ!?」と黒羽の素っ頓狂な声がかぶさった。「イタリア語なんて想像つかんぞ。難しいんでねぇんか? 中国語のほうが単位取りやすいって聞いたけど」
「ヨーロッパで一番レベルが高いのはイタリアリーグだろ」
「って、バレーの? プロリーグ? メジャーリーグみたいな?」
「なんの話してるつもりなんだよ。バレーのリーグはバレーのリーグだろ。メジャーリーグみたいもなにもねえ」
雲を掴むような顔で「はあ」と歯切れの悪い相づちを打つ黒羽が焦れったくなり、強い口調で灰島は言った。
「だから一緒にイタリア語取ろうぜ」
「えっ、一緒にイタリアリーグ行くってことけ?」
「そんなのまだわかんねえよ。でも行くチャンスはどっかで絶対あるとは思ってる。取っといて無駄にはならないだろ。せっかくタダで習えるんだから」
「タダやねぇけどな。けどイタリア語って……難しそうやけどなあ……」
「なんだよもう。そんな尻込みするんならロシア語かフランス語」
「全部難しそーやげ……」
「じゃあブラジル語。ヨーロッパじゃなければブラジルが世界一強い」
「ブラジル語の授業ねえし……」
「それ以前にブラジルはたぶんブラジル語やねえな」と、しばらく会話を聞いていた三村がこらえきれなくなったように笑いだして口を挟んだ。「おれが一年ときの履修あとで見せたるわ。0から組むより楽やろ。まあおれも一年とき先輩の履修見してもらったでやけど」
「まじですか? やっぱ持つべきもんは学部の先輩!」黒羽が無邪気によろこんだが、「あ、ほやけどほんとにいいんですか……?」
念を押すように問うた黒羽に、冷めた飯を前にぱんっと手をあわせた三村がその姿勢のまま「なんで?」と訊き返した。
「いえ……別に……」
言いづらそうに言葉を濁す黒羽を
「二人ともウイングスパイカーのリザーブでベンチ入ってるのに、黒羽のほうが出場機会多いですよね。対抗心とかないんですか」
「こら、はっきり言うなやおまえっ……」
黒羽が慌てて灰島の顔の前で手をぱたぱた振ったが三村にも聞こえているので無意味な行動だ。
「なるほど、ほーゆうことか」
という声に、黒羽がぎくりとして三村におそるおそる目を戻した。
「入ったばっかの後輩にあっという間に追い越されたでって、そんなんでやっかんで大学の先輩として後輩の力になるんを渋る程度の器やと思われてるんやったら……おれも低く見られたもんやな」
ずしんと胃袋に響くように声色が一段低くなった。黒羽の顔が硬直し、灰島もつい言葉を失った。棺野と大隈は黙って
「ほんで履修の話やったな。部屋帰ったらどっちかにメールするわ。訊きたいことあったら訊きに来いや。
と、場の空気をよそにころっと朗らかな声に戻って三村が言い、あらためてもう一度飯を拝んでから前屈みになってがっつきはじめた。
馴れあわんぞっとわざわざ繰り返して大隈が一番先に食堂をでていった。
「待ってえんと食ったら行っていいぞ。自分のは自分で洗ってくで」
と三村に言われて棺野、黒羽、灰島も席を立った。遅れて食事を摂る者は食器を洗って水切り籠に入れていくルールだ。薄暗い厨房に入って洗い物をしながらカウンター越しに見ると、テーブルに一人残った三村はスマホを脇に置いてメッセージ画面かなにかを見ながらマイペースに残りの食事を進めていた。
一階には食堂と住み込みの寮監夫妻の居室がある。二階から四階が寮生の部屋。五階に風呂と洗濯機置き場があり、屋上が物干し場だ。トイレと水道は各階の廊下にある。
水回りは共用だが部屋はすべて一人部屋で、朝晩のまかないつき、水道光熱費やインターネット代も込みで寮費は月四万円。福井からでてきて初めて東京で暮らす男子大学生には十分恵まれた環境と言っていい。
テレビの音が漏れている部屋もあれば何人か集まっているようで笑い声と麻雀牌を転がす音が聞こえてくる部屋もあるが、二十四時以降は騒いではいけないことになっているのでやがて静かになるだろう。
廊下と階段にはいかにも昭和築という趣の薄っぺらい不織布のカーペットが敷かれている。素足に履いたプラスチック製のスリッパが踵を離れるたびぺったんぺったんという音を立て、三人分のその音が不揃いに連続する。
「追い越されたって認めてるんやなあ、三村さん」
食堂での会話を
「がっかりっちゅうんも違うけど、せっかく欅舎来たのに、なんか目標見失ったような気ぃはするなあ」
「おまえな……。うかうかしてんじゃねえぞ。おまえの百倍ハングリー精神あるぞ、あの人」
むしろ黒羽よりハングリー精神がないアスリートを探すほうが難しい。試合でやる気がないわけではないし、頼もしいスパイカーに成長していることは太鼓判を押してもいいが、根本的に現状に満足しやすい性格なのはもう直しようがないのかとうんざりする。海外リーグの話題をだしたときの手応えの薄い反応といい、永遠に焦れ続けなければならないのか?
「目標なんてまだ上にいくらでもあるだろ。ゴールついたような気になってんぼんやりしてる場合じゃ……」
「か、棺野せんぱぁーい」
黒羽が逃げ腰で棺野に助けを求めたが、棺野は物理的な火の粉を避けるみたいにパーカーのフードをすっとかぶって「ほんならおれはここで。おやすみー」と階段から廊下へ折れていった。棺野の部屋は三階、灰島と黒羽は四階だ。
「えぇー、冷たくないすかぁ?」
「ライバル校のエース候補にあったかくする義理ないの当たり前だろ。もう先輩後輩じゃねえんだよ。日曜あたるんだぞ、油断してるとこ見せてどうするんだよ」
さらに詰め寄っているうちにぎぃ、ぱたんと棺野の部屋のドアがあいて閉まる音が聞こえた。
のれんに腕押しの反応にうんざりして灰島は黒羽を突き放し、先に立って階段を上りだした。
「風呂あがったらそっちの部屋行く。三村さんからメール来てるだろうから」
「っていうんは一緒に履修決めるってことけ?」
「だって締め切り明日いっぱいだろ。今日決めちまおうぜ」
「取る授業一緒にするってことけ?」
黒羽の質問が再三背中に追いかけてくる。「……?」灰島は眉をひそめて肩越しに振り返った。
話しあって全部同じ授業を取る必要は、ないといえばない。だが灰島にとっては当たり前の思考だったのだ。
身体ごと振り返り、まだ三階で立ちどまっている黒羽を正面から見下ろして、
「だって時間割一緒のほうが練習時間ずれなくていいだろ?」
ふんぞり返るように言ったものの、
「まあ大学でも練習でも寮でも一緒にいることになるけど……」
考えてみるとさすがに男二人でそこまでべったり一緒にいるのも暑苦しいのではないかと思い至った。灰島は景星でも二年間寮生活だったし、集団生活は思ったほど苦ではなかった、というか人との距離感が別に気にならないほうだが、黒羽は田舎のばかでかい家で悠々と育ったひとりっ子だ。寮生活のパーソナルスペースの狭さに
「けど、おまえが寮に誘ったんじゃねえか。今さら文句言うなよ」
「文句なんか言ってえんって」
と、なにやら笑いをこらえるように黒羽が頬をゆるめて灰島がいる段まで追いついてきた。そのまま一段飛ばしで脇を追い越していく黒羽を灰島は訝しげに目で追った。「なににやにやしてんだよ? だから弛んでんじゃねえぞってっ……」苦言を言いながら追いかける灰島の視線の先で、一段飛ばしから軽々と二段飛ばしになった黒羽の背中があっという間に高く上っていった。
風呂からあがると脱衣所にはちょうど誰もいなかった。湯気でけぶった無人の空間で扇風機が静かなモーター音を立てて左右に首をまわしていた。
扇風機をこっちに向けて首振り機能を切り、入る前に部屋着と下着を放り込んでおいた棚の前で一度眼鏡を置いて髪を拭く。
ふいにまたきりきりと古いモーターが軋む音が聞こえはじめた。眼鏡をかけなおして振り返ると扇風機が勝手にまた首を振っていた。風があまり来ないと思ったら……なんでだ?
ホラーな現象にほんのちょっとぎょっとしたとき、ゆったりと向こう側まで首をまわした扇風機の正面に人がいた。
蛍光灯の影が落ちた一角で半裸の肩にタオルをかけて丸椅子に座っている姿に灰島でも知っている有名なボクシング漫画の名シーンが思い浮かんだ。
「棺野さん、いたんですか……あ、すいません、風」
「ん」
ユニフォーム以外では夏場であろうが肌の露出が少ない服を着ている棺野の半裸を見る機会はあまりない。大隈のように鍛えたぶんだけ筋肉がつく体質ではないのでいつまでたっても細い。だが大学でウエイトトレーニングもしっかり練習メニューに組み込まれると、高校時代よりは確実に二の腕や胸板に厚みがついたのが見て取れた。
「黒羽は一緒やないんやな」
「風呂までわざわざ一緒に入るわけないでしょう。時間短いんで一緒になることはありますけど」
「ちょっとくらい気ぃ抜かしてやってもいいと思うな、おれは。尻叩きたいのもわかるけど、ペースは人それぞれなんやで」
「……? 黒羽のことですか? あいつが頑張ってることくらいわかってます」
「灰島が思ってる以上に頑張ってたんや」
扇風機の微風のような控えめな口調なのに、妙に反論できなかった。灰島が言葉を失っているうちに棺野は脱衣籠からスウェットの上下を掴んで着替えると、こちらを向いてまた丸椅子に座りなおした。膝のあいだで両手の指を組み、腰を据えて話をするような体勢になった棺野に、
「……おれと二人で話すタイミング待ってたんですね、棺野さん」と合点がいった。
「おれかってずっと先輩やと思ってるんは小田先輩と同じなんやけどな。寂しいこと言われるとショックやなあ」
「聞こえてたんですか……」
冗談めかした不満を言われて灰島は顔を引きつらせる。なんとなくだが棺野は小田より青木に似てきたんじゃないか。……やめてくれ。
「小田先輩と青木先輩にもはっきりとは伝わってえんことやけどな、おれたちの代のあと……黒羽が主将になってから、二年がけっこう荒れてな。一時期は分裂状態みたいになってたんや」
「分裂……って、なんでですか」
「黒羽の一コ下の代には福蜂蹴ってわざわざうち来た奴もいたのに、一年ときはインハイも春高も福蜂に奪い返されたしな。三学年で十人えんような人数で毎年やってた部が急に人数だけ増えて、そのわりにレベルも意識もばらばらで……。おれがそれを埋めとけんかった責任もあるけど、おれの代は大隈も内村も
「……」
起こって然るべき事態ではあった。一躍全国の強豪に名乗りをあげたチームでプレーすることを望んで清陰に入ってくる新入生が増えることは予想に難くなかったが、入れ違いに自分が抜けた清陰にとって全国大会連続出場は厳しいだろうと、灰島自身自負はあった。だからこそ最後まで転校にはずっと後ろめたさがともなっていた。
「でも、そんなことあったなんてあいつからは一度も……」
全国大会で再会したのは最後の春高の一度きりだったが選抜の合宿や遠征では年に何度か会っていた。愚痴くらい言う機会はいくらでもあったはずだ。
「ほやろな……黒羽は弱音も愚痴も絶対に言わんかったで。自分で言いだしたことやって思ってたんやろな。絶対行かんって言い張ってたおまえやったり、部をみすみす弱体化させることはできんって言ってた小田先輩を自分が説得したんやで、自分で責任負う気やったんや」
“景星のヘッドハンター”と皮肉で呼ばれる景星監督の
清陰にいることで満足しようとするな、と黒羽は言った。
よりにもよって黒羽に満足するなと言われるとは。
蒸し暑かった脱衣所の空気が徐々に冷めてきていた。身体を冷やしてはいけないと頭の隅で気づいていたが、部屋着を着る手がとまっていた。
「三年一人で、おまけにエースの責任もあって、ああいうゆるいキャラの奴で……荒れてる部をまとめるんは相当苦労あったと思う。ほやけどやっと下の信頼得て、ぎりぎりでチームがまとまって、福蜂から代表取り返したんや。灰島、おまえと戦える舞台への切符を、最後にやっと掴んだんや」
棺野と自分とにゆったりと交互に首を振り向けている扇風機の風で身体の表面は冷めていた。けれど一月の春高での黒羽たちの姿があらためて思いだされたとき、身体の奥に熱いものがこみあげた。
試合後、黒羽のもとへ後輩たちが集まって涙を流したことの意味の重さが、今初めて灰島にもわかった。最初からそんなチームだったわけではなかったのだ。黒羽が耐えて耐えて、辛抱強く後輩たちとの信頼関係を結ぶに至った長い背景が、あの最後の光景にはあった。
なにより、その黒羽の苦労はすべて、黒羽が自らの考えで周囲を説得し、灰島を景星に送りだした結果として黒羽が一人で背負うことになったものだった。
「ま、ちょっとのあいだくらい甘えさせてやれや。今からスパートかけんでも大学は四年間あるんやし」
押し黙っている灰島に棺野がにこりと微笑んだ。「長話してすまんかったな。身体冷やすなや」と立ちあがって扇風機の台座のスイッチを切った。風がやむとすぐにまた蒸した暖かい空気が肌にまといついた。
全国大会に二度は行けなかった棺野自身にも抱えている思いはあるはずだが、それを灰島に語ることはなかった。
「おまえや黒羽やったら案外ほんとに海外挑戦のチャンス来るかもしれんし、もしかしたら大学の途中で行くっていう選択肢もあるんかもしれんけど……今度は反対するかもな。まあこれこそもう先輩の立場やないでなんも口挟む権利もないけど。ほやけど、今度は四年間絶対に離れんなや、って真剣に思ってるよ」
著者プロフィール
- 壁井ユカコ【かべい・ゆかこ】
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沖縄出身の父と北海道出身の母をもつ信州育ち、東京在住。学習院大学経済学部経営学科卒業。第9回電撃小説大賞〈大賞〉を受賞し、2003年『キーリ 死者たちは荒野に眠る』でデビュー。「2.43 清陰高校男子バレー部」シリーズの他、『空への助走 福蜂工業高校運動部』『K -Lost Small World-』『サマーサイダー』『代々木Love&Hateパーク』「五龍世界」シリーズ等著書多数。
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