「すばる」誌に二〇二〇~二三年に連載された『虚史のリズム』がついに完結し、書籍化された。奥泉文学の集大成とも言えそうな「テラ・ノベル」(帯文より)である。テラとは「メガ」や「ギガ」では言い表せない巨編という意味だ。作者ならではのテーマ、モチーフ、アイテムが横溢する本作は、千百ページ弱というボリュームである。
 超弩級の「奇書」とも称されるが、たしかに終盤のあたりは十八世紀英国文学の先鋒、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』をさらに過激にしたような体裁である(後述する)。もっとも、奥泉光の奇書の系譜は本作に始まったわけではない。
 奥泉作品における地理学として、『虚史のリズム』の位置づけを見定めておこう。
 まず筋書き(に意味があるかわからないが)をたいへん大まかに言えば、「太平洋戦争の南方戦地と戦後の米軍占領下の日本を舞台にしたミステリー」ということになる。
 一九四七年、棟巍正孝なる元陸軍中将が妻小夜とともに自宅で刺殺される。これが物語の発端となる出来事だ。同時に、正孝の長男孝秋とその妻の倫子、さらに正孝の三男和春が、行方知れずになってしまう。そこで浮かびあがってくるのが、GHQやヤクザ組織も血眼で追っているという「K文書」なる予言的テクスト。この文書の執筆者として、反対米戦争立場をとっていた貴藤儀助という元海軍大佐の名が挙がるのだが、この男、行方不明の倫子の実父なのである。これらの件の調査は、探偵事務所を構えたばかりの石目鋭二のもとに持ちこまれ、殺人犯捜索と文書追跡が交錯する形で展開していく。
 とはいえ、奥泉ミステリーであるから、謎ときラインの何百倍かの枝葉のストーリーとプロットがこれでもかとばかりに押し寄せ、入り組み、絡みあい、ファンの期待をあっさりと超えていく。一つ言えるのは、戦記SFミステリーである先行作『グランド・ミステリー』の姉妹編ともいうべき連繋があること。この先行作は真珠湾攻撃を背景に、艦上爆撃機の搭乗員の服毒死事件と、特殊潜航艇乗組員の託した手紙の盗難が、二つの主軸となる探偵小説だ(以下、諸作の成り行きに触れるので注意)。
 同作の主要人物である貴藤儀助と昆布谷知親という元軍人と、志津子というバーのマダムは、『虚史のリズム』に再登場しており、『グランド・ミステリー』に導入される「第一の書物」「第二の書物」というSF的な時間概念も『虚史のリズム』のまさにメインプロットの一つとなっている。また、『グランド・ミステリー』で昆布谷らはヴェネチアで「無限への入り口(porta in infinitatem)」に踏み入るのだが、この入り口は『虚史のリズム』の終盤にも現れ、謎ときのキーとなる。
 『虚史のリズム』の結構の輪郭を示すために、エンディングが接続する先だけ記しておこう。当該事件解決後に石目探偵のもとに新たに持ちこまれるのは、ドイツで消息を絶った曾根崎霧子という女性の捜索だ。奥泉読者にはおなじみ、『鳥類学者のファンタジア』などに登場する天才ピアニストである。
 一方、視点人物という点でいえば、『虚史のリズム』が引き継ぐのは『神器 軍艦「橿原」殺人事件』のそれである。石目鋭二、南洋に向かう軍艦「橿原」の上等水兵、無類の探偵小説好き。イシメエイジという音は、ハーマン・メルヴィル『白鯨』の語り手イシュメールを想起させるが、『神器』の第百二十六章という夥しい章立て、形而上下に拘わらずエンサイクロペディア的な詳細な書き込み、一隻の船を舞台にしているという点においても、同作は『白鯨』の末裔と言っていい(ちなみに、イシュメールという名は、「創世記」でアブラハムが女奴隷ハガルに代理出産させた男児で、追放、放浪を余儀なくされたイシュマエルに由来する)。
 奥泉光はかねてより、小説における「物語」を音楽の「調性」に喩え、シェーンベルクのような「無調」の小説を書きたいと述べていた。無調性の名作として彼が挙げているのは後藤明生の『挟み撃ち』だ。その意味では、『神器』も『虚史のリズム』も、物語素を幾千と擁しながら一つの調性にまとまることを拒む、奥泉スピリッツ溢れる小説に違いない。

 さて、『虚史のリズム』において、石目はとうとう探偵小説好きが高じて探偵稼業に転じる。自らが営むバー「Stone Eye」の奥に看板を揚げた彼のもとに舞いこんだのが、レイテ島の捕虜収容所で知りあった神島健作という元陸軍少尉からの依頼、すなわち先述の殺人事件の調査だ。この男は商家の神島家に九歳で養子に入ったが、もともとは軍人一家棟巍家の末っ子なのである。
 石目はGHQ高官との接触をもくろむなど奮闘し、そのうちに、神島の幼なじみで貧農出身の地金ミノルや、国粋主義者から反天皇主義者に転向した鹿内謙三、ミノルが一時戦地で「首領」と仰いだ千藤という男などが捜査線上に浮かんでくる。千藤には戦時下および現在も食人癖の不穏な噂が流れている。
 あらすじはこれぐらいにして、以下、奥泉作品の擁してきた三つのテーマおよびモチーフについて考えていこう。「歴史の言語化」、「内省的知性」、「主体的自由」である。
 まず、奥泉光は以前より「歴史を単一の物語に閉じ込めてはならない」ということを述べてきた。この考え方は、例えば、ナイジェリアのビアフラ戦争などを題材に小説を書いてきたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが訴えた「シングルストーリーの危険性」のセオリーと大いに重なってくるだろう。
 歴史の物語化のなかにある危険性。historyとstoryが語源を同じくした「二重語」であり中期英語までは同義に使われていたことなど引き合いに出す必要もないぐらい、歴史と物語は同一のものだ。historyの語源をたどればラテン語のhistoriaに行き当たるが、この語は「過去の出来事の叙述、記録、物語、話」という意味であり、さらに遡れば古代ギリシア語のιστορίαに行きつく。これは「調査による知識、調査結果の記録、知識、説明、過去の記録、語り」という意味である。
 いずれにせよ、「言語化」=「かたる」ことの介在なしに歴史は存在し得ない。何が歴史として刻まれ、何が消失してしまうのか。その恣意性または操作性の危うさを、奥泉は『虚史のリズム』にも書きこんでいる。戦争体験を訊かれてもほとんど何も答えられない地金ミノルを見て、神島はこう考える。

「体験を言葉にすることのない、できない、ぶあつく層をなす人々が想われた。かたられることのないかれらの体験は痕跡を残すことなく、記憶されることもなく、歴史の闇に消えていくしかない。しかし、だとしたら、自分が歴史と呼んでいるものは、いったいなんなのだろう? 神島は考える。かたられたこと、記されたこと、言葉にされたことだけが歴史を作るのだとしたら、それははじめから決定的な欠落を孕むのではないか?」

 あるいは、神島は自らがネグロス島で樹林をさまよったとき夢と夢でないものの区別が消失したことに思い至り、「出来事の現実性」を考える。体験を言葉にできないのは自分も同じだと。

「じつのところは、戦争体験をかたってくれと頼まれるなら、神島はいくらでもかたれるのだった。他人の言葉でなら。誰かがつくった物語に沿ってかたることなら。それならいくらでもできた。〈中略〉が、それは違う。おそらく違うだろう。それはすでに知られた物語をなぞることにしかならないだろう」

 既存の物語の「型」に沿ってなら話せると言うのだ。しかしここで作者は「かたる」ことの本質にさらに切りこんでいく。

「けれども、そもそも『かたる』というのは、そういうことではないだろうか。すでに用意された物語の枠に嵌めずして、なにかを『かたる』ことなどは原理的に不可能ではないのか。自分の言葉でかたる?――いや、言葉はそもそも自分のものではない。自分の外にある物なのだから。だとしたら、体験をかたる――体験を真にかたるとは全体なにを意味するのだろう? 個人の体験を離れて歴史はありえない。しかし個人の体験がついにかたりえないのだとしたら、歴史とはつまるところ、夢と区別のつかぬ空疎な物語にすぎないのではないだろうか?」

 言葉は自分の内ではなく外から来るものだというのは、奥泉の言語哲学の根幹をなすものである。また、言葉によって形成される歴史や現実というものが、虚構や夢想といかに区別し得るかという問いも、先行作でたえず投げかけられてきた。
 記憶というのは「過去の現実の写し」だと思われているが、本当にそうだろうか? 夢想と記憶、ねつ造された記憶と虚構はどう違うか? ならいっそ、虚構と狂気はどう違うか? 先行作『虫樹音楽集』から引用しよう。

「己の過去という『物語』は、齟齬なく整っているようで、実際は落丁や誤植だらけの書物に書き込まれている」

 書物という言葉が出たところで、先にふれた『グランド・ミステリー』から継承された「第一の書物」「第二の書物」という概念について補記する。これは、「人は書かれた生を生きている」という観念をSF的な装置を用いて表現したものと言える。人生には第一の書と第二の書があり、ほとんどの者は第一の人生を忘れてしまうが、なかには記憶している者もいるという。その後者の一人が昆布谷知親なのである。
 仮に第一の書物で一九七〇年代ぐらいまで生きたなら、対米戦争の悲惨な結果や原爆投下、ポツダム宣言、その後の米国による占領などを「予知」できるのも不思議はない。それゆえに、昆布谷の言葉を聞いた貴藤は強く反戦の立場をとっていたのだ。

 次に『虚史のリズム』にしばしば現れる鼠および鼠集合体と内省の欠如について考えてみよう。この鼠たちは『神器』にも、変幻する東京の地霊が明治維新から福島第一原発事故までの来歴をその声で語った『東京自叙伝』にも出てくる。内省や省察という主体的意思をもたずに群れ集まる生き物の表象である。
 『東京自叙伝』の第一章の語り手は、一八四五年(弘化二年)の大火によって寺の檀家の養子になった男で、猫にも兎にも蛙にも十姉妹にも浅蜊にもカゲロウにも変幻するのだが、基本形は鼠だと嘯く。この「ワイワイはしゃいで居ればよい」という鼠たちこそが、奥泉がその小説によって繰り返し検証してきた日本の「近代的無責任」を体現するだろう。「蝟集する群れの総体」が「私」だとこの語り手は言う。
 しかし『東京自叙伝』に先行する『神器』でも人間の姿をした鼠たちは唐突に登場し、「それ、なんか新しくね?」などとやけに軽口を叩き、もはや「ニッポンジンは全部鼠になった」という見解が提示されていた。そう、奥泉の物語世界では、『神器』の時点で日本人はすでにして意思も責任もない鼠になっていたのだ。
 『虚史のリズム』では、丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」が引用される箇所で「鼠」という語が象徴的に出てくる。丸山書の結論部分に、《日本帝国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となつた日本国民にその運命を委ねた日でもあつたのである。》とある。丸山は戦後日本における民主主義の根幹として、個々人が国家という外部が課してくる制約から解放されて自由であるためには、内的に成熟し自立した「自由なる主体」として行動する必要があると論じた。
 これは西欧が理想として追求、実践していた近代人の像とほぼ重なるが、丸山は自由には倫理的責任がついてまわることを強調した。奥泉の描く鼠集合体とは、この責任と倫理、およびそれらにまつわる内省を引き受けず、ただ蝟集するだけでどこにも行きつかない“不自由なる集合体”のことである。
 上記の場面で神島は「自由なる主体」について考えこむ。彼の頭に浮かんできたのは地金ミノルだった。「収容所で専横な小支配者たちの下僕となり、鼠さながら地べたを這い回っていた地金ミノル。〈中略〉かれが『自由なる主体』になったとは思えず、今後なっていくとも思えない――」と。
 神島は自分とて「自由なる主体」だろうかと訝り、そうなれた時があるとしたら、それはネグロス島の樹林で沼地に嵌って身動きがとれなくなって諦めたあの時だ、と思う。それはむしろ、最も自由を奪われた瞬間ではないのか? だが、あの時は少なくとも「おのれの『自由』意思にもとづいて、『主体』的に生を断念した」と神島は戯れに思う。四年半の軍隊生活ではそれ以上に自由な主体性を奪われていたということだろう。
『虚史のリズム』では様々な人物が鼠になるが、鼠と同様にあるいは対照的に無意味な言葉を発するのが、襖絵の中から急に浮かびだしてくる謎の男だ。これこそが、奥泉文学の“不気味なもの”の精髄である。この襖には常磐松と鶴の絵柄の横に、のっぺりした島の地面にぽつんと横向きに立つ人が描かれていた。人は空白に向かって何事かを語っており、口が母音の「a」の形に開いている。いや、それはドイツ語の「da」(そこ)だと神島は思う。すると、daと開いた口は、地獄谷からマンダラガン山を越えて盆地に至る道々に点々と転がっていた死者たちの、ぽっかり開いた口と重なる。「そこ」「そこ」「そこ」dadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadadada……!
 これ以降、この「dadadadadadada……」は本書の至るところに出現し、終盤に至っては地の文や会話文が読めないほどのテクスト上の越境と侵入が起きるのである。

奥泉光×川名潤
本文中のdadadaのデザインはカバーと同様に装丁家・川名潤氏が手掛けた。

 次に、主体的自由という観点から、女性たちの行動と役割を見てみよう。新米探偵石目にはサポート役がいる。新聞記者の沖本のほか、神島の従妹の水谷澄江、女性カメラマンの鈴木奈緒美といった面々だ。本作は女性の存在感が大きい。
 調査が進むうちに、皇祖神霊教なる教団や、李静という女性が運営する女児限定の孤児院「愛光園」と女性たちへの支援組織である「菫会」などの存在が明るみに出てくる。
 李静はじつは日本人であり、本名は志津子。フェミニストの魁のような人物に見えるが、菫会は「娼館」を兼ねており、会員の女性たちが売春を行っているのである。さらにショッキングなことに、愛光園で保護した孤児少女たちを娼婦に仕立てあげていることも判明する。
 なぜ女性の支援組織が売春を? という問いに、志津子はそれがいちばん確実に「儲かるから」と答える。現状では、男に負けないぐらい働いても待遇や給料はずっと低いものになる。「洪水」(女性の地位が男性と対等以上になる社会改革の時)が来るまでは、こうしてお金をつくるしかない、と。
 ここで出てくるのが、専業主婦にかんするいにしえの暴論だ。志津子は「家庭婦人というと聞こえはいいけれど、ようはただ働きの家政婦、兼、ただで相手をしてくれる売春婦にすぎない。あとは子供を産んで育てる家畜ね」と言い放つ。
 その無償労働の因習に正当な対価として「明朗会計」システムを設定したのが彼女の売春組織、というわけだ。売春婦は男性に支配されず、契約に基づいて性的サービスの授受を行う。また、志津子は戦後真っ先に米軍用の慰安施設が設置されたことにも触れ、女性を清らかな「良家の子女」と賤しい「売春婦」に分けて分断支配しようとした男たちの卑劣さに激怒する。撲滅すべきは売春ではなく、「良家の子女」を囲いこむ家のほうだ、と。志津子はこうも言う。「だから菫会が娼館をやっている理由は、一種の社会革命ね。仕方なくやるんじゃなくて、思想からそれをやっているといえる」

 また、愛光園の少女たちを売春婦として「エリート教育」している件については、こう述べている。

「イエスよ。わたしはあの子たちを売春婦にしようとしている。もちろん強制はしない。契約するかしないかは、あの子たちの自由。でも、売春婦になれる心構えというのかな、いつでもそうなれるよう教育はするつもり。〈中略〉ただで道具にされるんじゃなくて、意思をもって、、、、、、(傍点筆者)、ちゃんと対価を得て、道具になる技術を教えるつもり。醜業婦、賤業婦なんていいかたは絶対に許さない。わたしはね、ここのところはよく聞いてほしいんだけれど、すべての女が売春婦になるべきだという考えなのよ」

 つまり、志津子は菫会の女性たちのセックスワークを主体的意思によるものと考えているのだ。しかし少女がこの職業に就くか否か、女性たちがこの仕事を受けるか否か、それが自由意思による選択だとは、とうてい言えないだろう。
 少なくとも、志津子の慈善団体に養われている少女たちには、ほかには行き場も生計手段もなく、しかも幼い頃から志津子に売春の心構えを洗脳されているのだ。そういう最弱者たちが支配的立場の者に問われて選ぶものが自由意思のはずがない。
 女性が「産むための道具」にされるマーガレット・アトウッドの究極の男女格差小説『侍女の物語』には、最下層の「侍女」として訓練されるレズビアンの女性が脱走の末に捕まり、「コロニーで働く」か「将校クラブの娼婦になる」かという選択肢を与えられるくだりがある。彼女は娼婦になることを選ぶ。
 しかしこれは主体的な自由意思による選択ではない。「コロニー」とは放射能汚染された廃棄物処理島であり、そこに行くことは死を意味するからだ。生命への差し迫った危機回避のために彼女はセックスワークを選ぶしかなかった。尊厳は殺され、彼女は心を病んでいく。
 『侍女の物語』で女たちを統率する女性幹部はこの選択を、「~からの自由」(freedom from)と「~への自由」(freedom to)としてレクチャーする。この二つの自由はキリスト教の原初からある概念だが、思想家のアイザイア・バーリンは「二つの自由概念」という論文で、「freedom from」を消極的自由、「freedom to」を積極的自由と解説している。飢餓、災害、暴力、迫害といった、そこにいたら死んでしまうような脅威から致し方なく逃れる受動的、消極的な自由が「freedom from(〜からの自由・解放)」で、それより高次の何かを実現するための主体的、積極的な自由が「freedom to(〜への自由・実現)」となる。
 人間は生存、健康、尊厳、人権、人間らしい生活などを脅かすものから解放されて初めて、主体的な思考と判断力と選択権を持つことができるのだ。志津子は『侍女の物語』でいえば、この女性幹部のような存在である。彼女が推進している売春の仕事を少女たちが断ることは、志津子の説明を読むかぎり、著しく困難か不可能に近い。
 志津子が目指しているのは、男性は精子提供のみの役割以外不要となる「女性たちだけの国」だという。やがて彼女は非常に過激な思想を展開する人物であることがわかってくる。

 最後に本作の文体について触れておきたい。奥泉光はこれまで一作ごとに人称および視点にまつわる高度な試みを行ってきた。とくに印象深いのは、『鳥類学者のファンタジア』、『神器』、『ビビビ・ビ・バップ』、『東京自叙伝』、そして二・二六事件を背景にしたミステリー『雪のきざはし』である。
 『神器』では、一人称文体で始めながら「俺」を次第に後退させて、いつのまにか三人称と同様の文体に移行させた。『東京自叙伝』では、一人の「私」が限りなく分裂し転生するという形をとった。『鳥類学者のファンタジア』では、「わたし」が自分を「フォギー」と呼んで三人称で語り、時空間ワープすることで、自分の知らない人物のことも語り得る絡繰りを設定した。
『…ビ・バップ』では、猫の語り手がこう弁明する。「(自分が全事象に接続アクセスできるのは)単純に吾輩が小説の語り手narraterだからだ。およそ小説の語り手narraterなる者は、たとえ本人がそれと気づいていなくとも、《超空間》に接続する体術心術を心得ているので――いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいゝ。ともかくも心得て居る」
 虚構と現実が剥き出しで接触することに対する恐れが書き手にはある。作中に「わたしという語り手」の存在を描くのは、それを墻壁しょうへきとして両者の接触を妨げるまたは緩衝する目的もあるのではないか。
 ところが、『雪の階』に至って作者は「三人称複合多元視点文体」を全面的に採用した。それはたんに一人称的な内面視点を並列したものではなく、ときには助詞ひとつで視点が切り替わり、語り手から作中人物へ、さらには幾人もの人物の間を「目」が行き来するスタイルである。時空を超えて、相対するはずのないふたりが言葉を交わすかのように見えることもある。
 『虚史のリズム』も一人称文体にも見える三人称一視点の並置の形で始まるが、しまいには複合多元視点へと推移する。以下はその典型とも言える最良の例だ。
 「話の中途から昆布谷は、それこそ千切れた海藻のように扉横からふらり離れて室をうろつきはじめ、何事か口のなかで呟く姿はもはや尋常ではなく、異世界に独り彷徨い込んでしまった男を、博物館の珍しくもない陳列品を見るような目で眺めた志津子は、扉脇に立ちつづける棟巍孝秋に目を移して、あなたたちはここで何をしようとしているのかと問うと、うろつく紫袴を目で追った短髪の男は、あなたにも参加していただきたいと事務的な調子で志津子に求め、それがなんであれ出るつもりも義理もない、今晩じゅうに下まで送って欲しいとの要求には、いや、必ず出ていただくと強く押し返して、昆布谷の腕を掴むと、傲岸な官吏の口調とは裏腹に、逃げ去るようにして室から出た」
 この長い一文には三人の登場人物がいて、語り手、昆布谷、志津子、孝秋と、四つの視点が行き来する。『雪の階』で極めた技法が更新され、さらなる昇華と洗練を見せていることに、驚嘆を禁じ得ないのである。

「すばる」2024年10月号転載