『燻る骨の香り』刊行記念インタビュー 千早茜「特別をめぐる愛憎劇――一度やりたかった一族ものを書きました」
依頼者の望む香りをつくりだす天才調香師、小川朔。嗅覚が鋭いがゆえに人と距離を置く彼をめぐる物語、千早茜さんの『透明な夜の香り』は人気を博し、続編『赤い月の香り』が発表された。このままシリーズが続くのかと思いきや、第三作となる新刊『燻る骨の香り』でシリーズ完結だという。
前二作の前日譚が描かれる本作について、作品世界について、著者の千早茜さんはどんな思いを抱いているのか。執筆の背景をうかがった。
聞き手・構成/瀧井朝世 撮影/中林香
本当に本当に嫌な奴だと分かってもらいたい
――天才調香師、小川朔が登場する『透明な夜の香り』『赤い月の香り』に続く「香り」シリーズ第三作、『燻る骨の香り』がいよいよ刊行です。嗅覚が鋭敏なゆえに高台の上の洋館にこもって暮らす朔と周囲との人間模様や、依頼者の人生模様で魅了してきたシリーズですが、今作で完結だそうですね。
はい、完結です。もともと『透明な夜の香り』一冊で完結のつもりでした。あれを書き終えた時、朔と一香と洋館のあの世界が、自分の中で永遠になってしまったので。
――一香とは第一作の視点人物で、朔のもとで働くこととなった女性ですよね。確かにあの結末は過不足なくて完璧だと思いました。でも、あの静謐な世界観、人気が出ないわけがないじゃないですか。続編を要望する声に応えて『赤い月の香り』を執筆した時点で、三部作にしようと思われたのですか。
そうではなかったんです。『赤い月の香り』は全八章ですが、そのなかの一章で香道のエピソードを書こうと思い、取材もしました。でもお香の世界は一章だけで取り上げるには奥が深すぎて、難しかったんですよ。香水の世界ともあまりに違っていましたし。結局使わずに書き終えてしまい、香道は香道で一冊書いたほうがいいのではないか、ということになりました。
――『燻る骨の香り』の主人公は京都の香老舗・瑞雲堂を営む一族の長女、真奈です。彼女は現在、社長であるはずの父親に代わって社を取り仕切っている。これまでと違って、香りのプロが視点人物ですね。
今回の主人公は書きやすかったです。一香は心に蓋をしているところがあったし、二作目の視点人物の満は感情的なところがあって脳内を言語化するのが難しい部分も多かったんです。でも真奈は、まず漢字を知っているし(笑)、香りの専門知識もある。かといって天才ではないし、傍観者的なところもあるので、書きやすくて楽しかったです。一作目からリアルタイムで読んでくれている編集者さんからも、「今回がいちばんノってますね」と言われました。
――真奈の妹で調合の天才だった丹穂が亡くなり、葬儀で彼女のお骨から伽羅の薫りが立ち昇る……という場面から物語は始まります。数か月後、真奈を訪ねてきたのは調香師の小川朔。彼は生前の丹穂との約束をはたすために来たのだと言う。この時、朔はまだ二十代。つまり今作は、前二作の前日譚です。
第一作を書いた後、この先、朔と一香がどうなるのかは読む方の想像に任せたかったんです。一応、三作目を書くとなった時に、時間が進んだバージョンも書いてはみましたが、これは無理だと思って封印しました。それで、第三作は前日譚になりました。
それと私は、朔については、天才だけれど変人で偏屈で嫌な奴のつもりで書いているんですね。だって、匂いで女性の月経周期を把握してしまう雇い主なんて嫌じゃないですか。でも『赤い月の香り』を書いていた時に、朔はわりと人気があるんだと気づいたんです。読者には朔の変態性があまり届いていなくて、素敵で丁寧な暮らしの話みたいに思われているんだなって……。朔は本当に本当に嫌な奴なんだよ、と分かってもらいたくて、彼が二十代の頃のエピソードを書くことにしました。
――いやいや、この第三作でも朔人気は衰えないと思います。たとえ匂いで生理周期に気づかれたとしても、朔本人にいやらしい気持ちがまったくないので、お医者さんと接しているみたいな感じですし。
たしかにそうですね。こっちが恥ずかしいだけで朔はなんとも思っていないという。もともと、朔のモデルはレクター博士なんですよ。
――そうでしたか!『羊たちの沈黙』に出てくる、異様に聡明で猟奇的な博士ですね。
私、ハンニバル・レクター博士が好きなんです。鼻がよくて、好奇心で相手と関わって、その相手を分析するあたり、朔もハンニバル・レクター博士っぽいと思います。つまり彼には、対人で人間を学習していくような、研究者的な偏執性がある。というつもりで書いているのに、なんか、いい感じでとらえられていて……。

嫉妬心を引き出す香り
――朔は匂いを嗅いだだけでいろんなことを言い当ててしまう。その名探偵っぷりもたまらないんですよ。このシリーズはミステリ要素が強いですよね。
ミステリはほとんど読まないんですが、なんでしたっけ、椅子に座ったまま推理する人……。
――安楽椅子探偵ですか(笑)。
それです。この「香り」シリーズはそういうイメージというか。この作品がミステリとして成立しているかは分からないのですが、章ごとに謎解き要素、どんでん返し要素を入れるようにしました。
ただ、二作目まで書いた時、家族にまつわるエピソードが多くなってしまったなと思ったんですね。このシリーズは「執着」をテーマにしていますが、人の「執着」があらわれやすいのは、やっぱり家族問題だと思うんです。だからそれはもう仕方がない。いっそ、三作目はとことん家族で、一度やりたかった“一族もの”にしちゃえ、と思いました。横溝正史の金田一耕助も好きですし、『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎の父親の過去が描かれるアニメ映画(『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』)がめちゃくちゃ好きだったこともあり、自分でも一族ものをやってみたいと思っていたんです。
――朔が瑞雲堂の一族とどう関わるかは、どのように考えていったのですか。
朔はずっと「執着」にこだわっていますが、彼をそうさせたのは何だろうと考えました。一族ものといえば、やっぱり愛憎じゃないですか(笑)。一族の愛憎にまみれたドロドロの執着劇を見て、朔が「え、人間の執着って面白い」と思うような展開を考えました。
――そもそも「執着」をこのシリーズのテーマにしていたのは、どうしてだったのでしょうか。
香りって、その人の執着心を強く引きだすと思うんです。嗅覚は、五感のなかでいちばん早く脳に届くので、理性で抑制する前に反応があらわれてしまうところがある。たとえば私は今、猫と暮らして三年目なんですけれど、猫から他人の匂いがした時に、すごく腹が立つんですよ。うちの猫は気のいいやつでお客さんが来たら全員の膝に座るので、その人の服の柔軟剤の匂いが猫につくんです。嫉妬や執着心といった感情を持つのは面倒なので、できるだけ持たないように気をつけて生きてきたんですけれど、これだけはちょっと耐えられないんですね。「私の猫から他の人の匂いがするなんて!」とカッとなります。自分にこんなに激しく衝動的な嫉妬心があるのか、とびっくりしました。そうしたことを暴いてしまうのが、香りなんですよ。
――猫に移った柔軟剤の匂いが分かるんですか。千早さんも相当嗅覚が鋭いですよね?
猫の毛は匂いを吸いやすいというのもありますが、嗅覚は鋭い方だと思います。なので資料としてお香や香原料を嗅ぎながら今回の作品を書いていたら、だんだん気持ち悪くなって食欲がなくなっていきました。火を使う薫りは強いんですよ。だから第三作は最初、食描写が少なくて、編集者さんから「もうちょっと京都グルメを入れてください」と言われて、足しました。
ソウルメイトなんていないよ
――そうした苦労もあって(笑)、香道に関する情報が分かりやすく盛り込まれていて、非常に面白かったです。実際に京都に行って取材をされたのですか。
最初は東京で聞香体験などをしたんですが、しっかり一冊書くのだったら、ということで、京都の松栄堂さんに取材させてもらいました。以前から松栄堂さんには個人的に工場見学をさせてもらったりしていたので、結構資料はそろっていました。お香の工場って、思った以上に匂いが強くてびっくりしますよ。薫りの竜巻に飛び込む感じで、帰りの新幹線でもまだ匂いが沁みついていました。
――調合の様子や、香原料の種類などもいろいろ盛り込まれていて、はじめて知ることも多かったです。
この連載を始めた時に、意外なほど「香道って何?」とか「香木って何だろう」という感想があったんです。私は高校の日本史の授業で蘭奢待がでてきた時に、すこし燃やしただけでそんなに薫るなら、全部燃やしたらどうなるんだろう、街ひとつ薫りに吞まれるのかな、と想像を膨らませていました。なので、こんなにも知られていないことが意外で……。
――蘭奢待は、正倉院におさめられている香木ですよね。時の権力者たちが少しずつ切り取って聞香してきたという。
そうですね。あんがい時の権力者は慎ましいなと思いました。ただ、香木の薫りを知っている人は少ないでしょうし、自分が書いていることが、ちゃんと伝わるのか不安はあります。作中に出した香原料も一覧にしたんですけれど(と、細かなリストを取りだす)、香料の名前を見ても、どんな香りか想像つかないですよね。
――白檀とか乳香は知っている人も多いのでは。でも、たとえば龍涎香などは、マッコウクジラの結石が香料になるのか、と驚きますよね。作中でうまく説明されていて、そこも面白く読みました。
かなり説明を入れました。そう考えると、『赤い月の香り』のなかの一章で香道を書こうとしたのは、やっぱり無理なことでした。
――香りによって人をコントロールする、といったエピソードもあって、そこもまたミステリ味が濃かったです。
そうですね。前の二作でも、たとえば嗅覚順応のことは書いているんですけれど、今作はその応用編があったりします。実際はそこまでコントロールできないと思いますが。
――終盤には意外な真実も明るみに出て、まさに、愛憎劇が浮かび上がります。
ネタ帳には、三作目のテーマについて「特別をめぐる愛憎」と書いていますね。
――「特別」というのは。
この前日譚の朔は二十歳前後ですよね。それくらいの年頃は、特別な人や、特別な関係への憧れが強い気がします。そういう時期に朔がどういう体験をしたのかを考えました。『透明な夜の香り』と『赤い月の香り』を通して、結局のところ「自分の世界は自分にしか理解できない」という人間の孤独を描きましたが、朔がそうした孤独に行きつくには、どういう過去があったんだろうか、と。
私も結構こじらせていた時期に、自分の唯一の理解者がほしいと思っていたんですけれど、どうしたって100%は無理なんですよね。相手が自分に近い人、似た人であればあるほど、ちょっとのズレが許せなくなっていくと思うんです。なので、今回もソウルメイトなんていないよ、という気持ちで書きました。でも、さきほど若い編集者と話していたら、ソウルメイトという言葉自体を知らなかったんですよ……。
――え、そうなんですか。魂のレベルで繫がった特別な相手のことですよね。全世代が知っている言葉だと思っていましたが。
今の若い人はソウルメイトを求めていないのかなと思いました。だとしたら、今回の話はちょっと伝わりにくいかもしれません。
――いえ、ソウルメイトという言葉を知らなくても、朔と丹穂という香りの天才同士や、朔と真奈、あるいは姉妹の間や一族の間に何があったのか、興味を引きつけられるはずです。それと、シリーズでお馴染みの朔の友人、新城も登場しますよね。彼は若かりし頃から「チンピラみたい」と言われていたんですね(笑)。
新城もこの頃はまだ若いので、ちょっとだけ、靴の趣味などが違うんです。でも、朔も同じく若いはずなのに、全然若さがだせませんでした(笑)。
百年もない人生、好きなものだけを描く
――洋館や一香も出てくるのが、読者としては嬉しかったです。今更の質問ですが、そもそも調香師の話を書こうと思ったのはどうしてだったのですか。
当時の担当編集者から、「天才もののエンタメを書いてほしい」という依頼がきたんです。最初はピンとこなくて「天才?」みたいな感じだったんですけれど、めちゃくちゃ役に立たない天才ならいいかな、と思って、香りの天才にしました。
鼻がいいと、損なことしかないんですよ。外に行ったらいろんな匂いがなだれこんできてつらいし、家にいても、居酒屋から帰ってきた夫に玄関で服を脱いでもらわないと臭くて耐えられないんです。他者に対してすごく心が狭くなるので、いいことがないです。なので、「そういう天才ならいいよ」と言って書き始めました。
――素敵な天才を書こう、みたいな気持ちはなかったんですね(笑)。
なかったです。朔は私の一部からできているんです。だから、あまり人気がでたら困るんです。私はただ、ものすごくどエンタメの提案を受けて、趣味を全部入れて書いただけです。朔の住む洋館なんかは私の理想です。
――庭園ではハーブなどが育てられていて……。あの洋館は本当に素敵です。具体的な場所は明記されていませんが。
関東をイメージしていますが、都心ではないですね。街中にいたらいろんな匂いが漂ってくるから、朔は風上の高台にしか住めないので。
――そこまで嗅覚が鋭いとしんどいですね……。
一応、朔の嗅覚の設定としては、犬なら可能、というくらいのレベルにしています。ただ、地中のものの匂いが分かるところは、トリュフを見つける豚並みですね。
――嗅ぎたくない香り、嗅がれたくない香りに気づいてしまうのはお互いにしんどいですよね。調香師の話というと素敵な香りばかりイメージしてしまいますが、このシリーズはちょっと違いますね。
そうですよね。体臭についてここまで書かれたら嫌ですよね。でも、私はグロテスクなものが好きなので、本当はこのシリーズも、そうした面がもっと前面にでてほしいんです。でも、読んでいる人の感想を聞くと、あまり届いていなくて。
――千早さんの作品はどんなにグロテスクでも、絶対に下品にはならないですよね。書き手の美意識を感じます。
そうでしょうか。標本は好きだけど腐敗は嫌いだからかな。臭そうだから。だからゾンビは苦手ですね。レクター博士がつくるような死体アートはオッケーなんですけれど……。
――では、美しい花が朽ちていく様子なんかはどうですか。
駄目です。花瓶の水が腐っていく匂いが嫌なので。家でも花は玄関にしか飾っていないです。観葉植物も、土に水をかけた時の匂いが駄目なんです。
――好き嫌いが明確ですよね。自分の中で確固とした好みが確立されていると、ご自身でも思いますか?
めちゃくちゃ思います。人生は百年もないから、好きなものを描くだけでたぶん終わっちゃうんですよね。だから興味のないものを無理に取り入れる気はまったくないです。そういう点は、ものすごく揺るぎないです。偏屈なので(笑)。
――この先、お好きなグロテスクを極めたいですか。
はい(即答)。
――レクター博士のような、猟奇的なものとか?
いつか、やりたいですね。本当にやりたいですね。
――力強いお言葉。楽しみです!
「青春と読書」2026年5月号転載
プロフィール
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千早 茜 (ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。幼少期をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で第21回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。翌年、同作にて第37回泉鏡花文学賞を受賞。13年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で第6回渡辺淳一文学賞、23年『しろがねの葉』で第168回直木賞を受賞。『ひきなみ』『赤い月の香り』『マリエ』食エッセイ『わるい食べもの』シリーズなど著書多数。
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