明治二三年、新潟に生まれた日本最初の保育園、赤沢保育園。
小説すばる連載作である、佐藤雫さんの最新刊『汽笛、聞こえる』は、その始まりを支えた人々の営みを、豊かな想像力で描き出した長編です。
歴史恋愛小説から新たな一歩を踏み出した佐藤さんに、本作に込めた思いと、今の社会へ向けた問いについてうかがいました。

構成/青木千恵 撮影/西岡泰輝

──『汽笛、聞こえる』は、一八九〇(明治二三)年に歴史をさかのぼる「赤沢保育園」の誕生を描いた長編小説です。明治~昭和の近現代を舞台にした作品は、佐藤さんにとって初めてですね。

佐藤 「小説すばる」で連載のお話があって、打ち合わせのときに、「保育園」のテーマを担当編集者からいただいたんです。そもそも日本で最初の保育園ってどこなんでしょうね? と検索してみたら、あれっ、今もあるよ、と驚いて。日本最初の保育園が新潟市に現存していると知り、幸い、保育園が取材をオーケーしてくださったので、人生で初めて新潟の街に行きました。すごく新鮮な気持ちで降り立って、信濃川にかかる萬代橋ばんだいばしを見たときに、書ける、これは絶対にいい話になると直感したんです。

──デビュー以来、歴史小説を書いてこられたから、「保育園を書きませんか?」と言われたときは意外だったのでは?

佐藤 実は、意外な感じはなかったんです。コロナ禍を経ての予防医学、予防接種とは何かというテーマで、がた洪庵こうあんとその妻を主人公にした『白蕾はくらい』を書いたとき、今までとは違った手応えも感じたんです。私としても、歴史恋愛小説のままでいいのかという迷い、分岐点に立つ感じを抱いていました。歴史恋愛小説からは外れるけど、社会的なテーマを持った作品を書いてみたい思いがあったので、担当編集者のご提案を聞いて、「書こう」と思いました。

──萬代橋を見たときに、なぜ「書ける」と思われたのでしょうか。

佐藤 二〇二四年五月の、爽やかな日だったんですよね。初めて信濃川を見て、河口近くに橋がかかっていて、海の匂いが風に乗ってくるような場所だったんです。こんなに長い橋があるんだと思うぐらい、開放的で広々した橋がすごく新鮮でした。私は作品を書くときは、可能な限りその場所に行くようにしています。場所の持つ空気感、風を直接感じ取りたいですし、川の水の色、空の色、あと山並みといったものは、たとえ何百年前でも変わらないはずですよね。初めて萬代橋を渡ったとき、主人公のナカと赤澤鍾美あかざわあつとみが見ていたであろう景色や、風みたいなものがふわーっと私の中に入ってきた感じがあって、本当に直感で「書ける」と思ったんです。

佐藤雫

──赤沢保育園を取材して、どんなところに関心を引かれましたか?

佐藤 まず、優しさがにじみ出ているような園全体の雰囲気ですね。子供たちの表情が生き生き、伸び伸びしていて、初めて来た私に対しても温かい雰囲気で受け入れてくださって、ここはいい保育園だと思いました。古い資料は水害で失われたものもあったそうで、理事長先生の赤澤泰子さんに取材しながら、わからない部分は想像で埋めていくしかないなと。それで、それまでの私の作品を理事長先生にお渡しして、私なりに想像を膨らませて、きらきらした感じに仕上がっちゃうかもしれないんですけど、どうかよろしくお願いしますとご挨拶したら、いいですよ、と言ってくださいました。

──物語は五話構成で、冒頭と最後以外はナカの視点で語られます。婚家を出て、故郷を去り、鍾美の私塾「新潟せいしゅう学校」で働き始めたナカは、幼児保育に取り組むことになります。人物や構成をどう構想していきましたか?

佐藤 鍾美中心の作品になるかと最初は思っていたんですけど、ナカや保育を担った女性たちの力が大きかったと理事長先生から聞いて、鍾美よりはナカ視点、ナカの物語にしようと決め、プロットを立てていきました。家の事情で進学できなかった人たちのための私塾を開いたら生徒がたくさん来て、その弟や妹の子守をナカや叔母のイクたちが別室でしたことから始まって、いつしか保育園になっていったという流れなので、ひとつながりの話で書くよりは、視点はナカでも、周りの人物の物語を書いていく方がメリハリがつくだろうと。一話完結の五話構成にして、最終的には次の世代につながっていくようにしようと考えました。

──デビュー作や『花散るまえに』、『白蕾記』もですが、夫婦の物語を書いていらっしゃると思います。鍾美とナカ夫妻の造形は、どのように生まれたのでしょうか。

佐藤 夫婦の物語にしようと意識しているわけではありません。歴史よりも、そこにいた人たちの感情を想像して書きたいからだと思います。感情が向く相手
は、妻だったり、子供だったり、親だったりの身近な人で、感情を掘り下げていくうちに夫婦の話になるのかもしれません。鍾美は厳格な教育者ではあるんですけど、自分の写真にひげを描き足してみたり、立派な衣冠束帯姿で威厳あるブロマイドを撮ってみたり。ちょっとずれているというか、そこ? みたいなところを一生懸命やっちゃう意外なエピソードがいくつもあって、取材に行ったその日に「偏屈者」というキーワードが浮かんで、鍾美とナカの夫婦像が立ち上がってきました。気難しい偏屈者なんだけど、根はいい人。悪い人じゃないんだけど、ちょっと変なんだよねという旦那さんと、振り回されながら、しょうがない、何とかするかと付き合っていく奥さんという夫婦像が、理事長先生のお話を聞いたあとに生まれました。資料だけだったら、たぶんこの夫婦像にはならなかったと思います。

──五話構成にしつつ、全体のテーマは初めに考えていらしたんでしょうか?

佐藤 私は職場で乳幼児と接することが多くて、子供たちは本当に愛されてい
る、どんな大人にも「何々ちゃん」と呼ばれた時期があったんだと感じる日々なんです。人間は、まっすぐ育つ人もいれば、ちょっと曲がっちゃったり、いろいろだと思うんですけど、大人になると、見えなくなることの方が多くなっていくんだなと、子供を見ていると気づかされる。なので、この作品は、かつて自分も愛されていたんだ、と読者が思い出したり、感じられたりする話にしたいと、担当編集者から保育園の題材をいただいた段階で思っていました。赤沢保育園に取材に行くと、この場所にいて大丈夫だよと言ってくれているような雰囲気が、私の書きたかった感じとぴったりで、そこから「誰しもが愛されていた」というテーマが決まりました。

──〈強い人になるよりも、優しい人であろうとすることの方が、ずっと難しい〉という鍾美の言葉は、今の世の中にもそのまま通じると思いました。

佐藤 鍾美が創設した「しゅどくよう稚児保護ちじほごかい(孤を守り、独りをたすけ、幼稚児をまもるための会)」というネーミング自体が、親と子を社会で守り、育てようというもので、鍾美は素晴らしい先見性と感覚を持っていたんだなと思います。明治時代に提唱した人たちがいたのはすごいことであると同時に、私たちの社会ではいまだにそれが実現できていないようにも思うんです。保育園は、子供だけじゃなくて親も一緒に受け入れて、子育ての不安や重荷をみんなで持つ場所として存在していいはずなのに、子育ての負担がお母さんにのしかかってくる感じは今も変わらない。その上、核家族、共働き世帯の増加、隣に住んでいる人の顔もわからないような現代において、「守孤扶独幼稚児保護会」というネーミングに込められた思いが、世の中への問いかけになっていると思います。いつの時代も、子供たちが周りの大人たちの姿を見て、受け入れて、育っていくのは変わらないんですよね。大人として今の世の中を見ていると、この先、子供たちにとっていい未来を築いていけるのだろうかと、私自身も日々自問自答しています。

佐藤雫

──二三年に『花散るまえに』でインタビューさせていただいたとき、令和の時代を生きる人が読んで、違和感がないようにお書きになっているとうかがいました。

佐藤 そうですね。『花散るまえに』もそうだったんですけど、書くにしても、読むにしても、今の価値観で共感できる作品でないと、小説の意味がないんじゃないかと思っているんです。昔のことを読むのではなくて、今を生きている私たち自身が読んで共感できる、これって今もそうだよねとか、自分や周りに置き換えて考えられる作品を書きたいと思っているので。今回も、今と重なりそうなところを資料の中からピックアップして、あえて書いたりしました。

──悪戯いたずらざかりの幼児が子守室から教室をのぞき見して、襖の開け閉めが楽しくなって笑い出すような、作中の子供の描写がかわいらしいですが、子供たちを目にしている普段の経験が発揮されているのでしょうか。

佐藤 そうだと思います。思い浮かべて描いていく顔が、私が普段接している子供たちの表情になったりしていました。子供たちと接していると、人間の根本を見ている気がするんですよね。大人になったら隠してしまったり、忘れてしまったりする喜怒哀楽がストレートに出ていて、最初は人見知りして泣いていた子が、二歳、三歳になる頃には「佐藤さん大好き!」と言ってくれる。立場や役職など関係なく、人間として信頼関係を築いていく感覚を、子供たちに改めて教えてもらっています。しゃぼん玉が割れてしまうことを不思議そうにしていたり、宝石を見つけたように石ころを持ってきてくれたり、ごみ収集車や路線バス、郵便配達のバイクなど、生活を支えてくれている人たちに、目を輝かせて手を振っている。そんな子供たちの姿が、大人になって忘れてしまっていた大切な何かを、たくさん思い出させてくれるんです。じゃあ、大人である私たちはこの子供たちのために何ができるのだろう、それは、無条件に愛してあげることかなと。愛してあげるというのは甘やかすことではなくて、包み込むように、その存在自体を許してあげることかなと。親以外の大人から大切にされた経験は、きっといつか忘れちゃうだろうけど、その子の心の奥に何かしら残ってくれたらいい、という私の願いが入った作品になったと思います。

──鍾美とナカにはそれぞれ過去があって、前の結婚が上手くいかず、子供を置いて婚家を去ったナカの前に、時を経て、実子の直二郎が現れます。自分を置いていった母親が、他人の子を保育しているのを見たら、直二郎は複雑な気持ちだろうと思います。

佐藤 ナカと鍾美が再婚同士だったと聞いて、じゃあ、置いていかれた子供は? と直二郎の存在を知り、登場させなくてはいけないなと思いました。〈ここは子供を置いていく場所じゃありません、保るための場所です〉という保護会の考え方に対して、何かを言い返せる立場の人は、この作品の中では、誰かから守られることを知らずに育った直二郎でした。親が自分の都合で子供を預けている、という批判的な目は今もあるので、批判的な部分を直二郎に担わせて、保育の現場にいる人の思いとぶつかり合わせました。他人の子供を守るということは、子供や親、社会にとってどんな意味があるのかを、読んだ人に少しでも感じてもらえたらと思ってシーンを描きました。

──子供たちへの向き合い方が、教えるというより、「保る」なんですね。存在自体を守る。園舎が被災した一九一九(大正八)年七月の大火については、書かなくてはという思いがあったのでしょうか?

佐藤 物語の終盤にかけて盛り上がりを作る必要もありましたけど、静修学校の校舎も保護会の園舎も全焼したのに、誰一人、欠けることなく、子供たち全員を避難させたことに「保る」という思いが表れていると感じました。他人の子だからこそ守るというのは、どういうことなのか。まだ言葉もよくわからない一歳、二歳の子にも真剣に状況を説明して、先生の手を離さなければ絶対大丈夫だから、と言える保育者たちの責任感や覚悟は、今も昔も変わらないと思って書きました。

──現在と近い時代を書いて、これまでの作品との違いはありましたか?

佐藤 ありましたね。ご子孫が現代社会で生活していらっしゃって、保育園も存続しているので、失礼のないようにというのは心がけました。史実の部分を大事にしつつ、史実でわからない部分を私の込めたい思いや想像で膨らませても、関係者の方々が不快にならないように気をつけました。実のところ、この作品は想像の部分の方が多いんです。人物の年齢や保育園のあった場所、「守孤扶独幼稚児保護会」ができた年や経緯のような骨の部分は史実ですが、ストーリーの部分はほとんど私の想像です。

──時代が近いなりの面白さ、楽しさというのはあったのでしょうか。

佐藤 それもありました。たとえば直二郎が天津に赴任するシーンです。出発する新潟港では埠頭の修築工事が進んでいて、ナカは直二郎が帰国する頃には新しい新潟港が彼を迎え入れるはず、人も街もどんどん変わっていく世の中は、この先、どこへ向かっていくのだろうと、想像するんですけど、それからの日本が向かった先が今であるということが、近代だからこその地続き感だと思いながら書いていました。近いからこそ、今の人たちに考えてもらえたらというのはありました。

──本当に考えさせられて、今もどんどん変わっているのに、変わってない、どうしてこんなに根深いのだろう、と思うところが多々ありました。それぞれに望みを抱いていたはずなのに、世の中はきな臭くなって、第二次世界大戦へと突き進んでしまった。それでもやっぱり、望む、こうなってほしいと思い続けるのは大事なのかなと。

佐藤 そうですね。理想論はいつまでもあっていいと思うんです。「守孤扶独幼稚児保護会」という名前自体が理想であり、今も問いかけてくる課題であり、この作品を通していろんなことを感じてもらえたらと思っています。大人たちは、みんなどこか余裕がなくて、社会全体に寛容さがなくなっていく、そんな危うさ、閉塞感、明るい未来が描けない不安感のようなものは、ナカと鍾美が生きた時代と似ていると思いながら、ラストシーンを書きました。
 親と子に向けられる視線は変わらないのに、世の中だけが目まぐるしく変わっていく感じがあって、この作品では、小説の役割についてもだいぶ考えましたね。この作品を通して世に問いたいとか、そんな大それたことではないんですけど、社会的なテーマを持った作品だったので、そもそも保育ってなんだろう、と、ほんの少しでも立ち止まって想像してもらえたらいいですね。それはやっぱり小説だから、エンタメだからできることかもしれないと。保育園と関わりのない人にも手に取ってもらえる小説だからこそ、書く意味があると思いました。

──今回はほぼ全体をナカ視点で書いていらっしゃいますが、男性視点と女性視点では、書く際に違いはあるのでしょうか。

佐藤 違いますね。自分も女性なので、女性視点だと、どんどん自分が入っていっちゃうんです。今回は、冒頭と最後を除いてずっとナカ視点で書いたので、自分の感情が入りすぎないように、小説として軌道修正したりしました。女性視点のときは、自分が入ってしまうのが面白くもあり、しんどくもあります。逆に、冒頭と最後の「私」の視点のところは俯瞰して書けました。冒頭と最後を「私」の一人称で書いて、本編をナカ視点にしたのは、取材のあとに思いついた構成なんです。鍾美とナカは終戦前に亡くなるんですが、赤沢保育園は、戦中戦後の一番大変だった時期でも存続していたことを書きたかったんです。ナカと鍾美の物語だけだとそこまで到達しないので、戦後のシーンから始めて、真ん中にナカと鍾美の物語が入る構成にしたら、戦中戦後も子供を守る人がいたことが伝わると思いました。
 終戦の直前に、新潟市にも原子爆弾が落とされるかもしれないという知事布告が出されて、市民が一斉に疎開して、戦後まもなくの赤沢保育園に園児は数名しかいなかったというのを資料で読んで、そんな中でも子供を守るを絶やさなかったのはすごい覚悟だと思ったんです。どんな社会情勢になろうと、子供を保り育てることが必要とされなかった時代はない、そう思って、この構成にしました。「私」の視点で冒頭のシーンが始まって、明治にさかのぼってナカ視点の本編に入ると、あの「私」は誰なんだろう? になる。そして、最後にその答えがわかる。サプライズというか、読者を驚かせたかったので、冒頭と最後の一人称は「私」で統一しました。ラストシーンに登場するもうひとりの人物が誰なのかは、読者のご想像にお任せしたいと思います(笑)。

──赤沢保育園のホームページを見ましたら、園歌に“汽笛”のフレーズがありました。タイトルはここからなのかなと。

佐藤 取材に行ったとき、新潟港から出港する佐渡行きの船の汽笛が聞こえて、印象に残りました。園歌も素敵な歌詞なんです。明治の頃を想像させる汽笛が今も聞こえているという、そのつながり自体が私の書きたかった物語、世界観そのものだと思って、そこからタイトルをつけました。

「小説すばる」2026年8月号転載