「現役の競走馬がレースを引退したら、その後どうなるのか?」
これは競馬好きな人たちの間でも、あまり触れられてこなかった話題だ。しかしここ数年で、引退競走馬をめぐる状況も大きく変わり始めている。
『北里大学獣医学部 犬部!』『ゼロ! 熊本市動物愛護センター10年の闘い』『動物翻訳家 心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリー』『平成犬バカ編集部』など、人と動物の共生社会の実現に向けた取り組みを取材してきたノンフィクション作家の片野ゆかさん。四年前から引退競走馬を中心に馬と人間との関係を取材し始めた。そこで見えてきた社会の中で馬が置かれた状況。そして、馬業界を変えようとする人たちの挑戦とは。

聞き手・構成/タカザワケンジ 撮影/露木聡子

知識ゼロから馬の世界へ

――『セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅』は、競走馬の現役引退後についての話を中心に、人と馬との関係を取材したノンフィクションです。私は馬にも競馬にもうといのですが興味を惹かれました。片野さんご自身も「好感度は高いが遠い動物」とお書きになっていますね。

 そうですね。乗馬も競馬もすごく遠い世界でした。馬に好感を持っている方はたくさんいらっしゃると思いますが、実際に馬がいる世界や競馬界について知らない方は多いと思います。私自身もそうだったので、この本は知識ゼロから読めるものにしようと思いました。私と一緒に読者の方が馬の世界に踏み込んでいって、一緒にいろいろ体験するような本にしたかったんです。

――たしかに片野さんと一緒に馬の世界をめぐる感覚がありました。そこで気づいたのは、近年、アニマルウェルフェア(動物福祉)が重視されるようになってきて、馬をめぐる環境も大きく変わってきているのだなということです。取材に四年をかけられ、その間に変わっていく状況をお書きになっています。

 四年間で予想以上の動きがありました。取材のきっかけは二〇一九年の初夏に、日本で初めて専用シェルターを持ち、引退競走馬と触れ合えるコミュニティ施設(TCCセラピーパーク)ができるという新聞記事を読んだことです。
 私はこれまで犬や猫、動物園の動物を対象に、動物福祉や動物愛護という観点から取材してきました。引退競走馬のセカンドキャリアを支援する活動があるなら、私も馬の世界を歩いていけるかなと思ったんです。

――本書に書かれている、この国の競馬業界では毎年約六千頭が引退していて、その多くは行方を追うことはできないという事実は驚きました。しかし、この本を読むと、その状況を改善しようと取り組んでいる人がいる。実際に変わり始めているということがわかります。

 もともと引退馬協会という二十五年以上活動されている団体があって、長年、引退競走馬のセカンドライフを支援してきました。しかし民間の組織なので、JRA(日本中央競馬会)のような国がバックグラウンドにある巨大組織を動かすことは難しかったんです。でも、この問題を考えなくてはいけないんじゃないかという声が、JRA内部からも出てきました。一番大きかったのは、すみ勝彦さんというレジェンド調教師――華々しい経歴をお持ちで、今はもう引退されています――が自ら声を上げられたことです。
 馬を支援するにはお金もかかりますし、ボランティアだけで業界を変えるのもなかなか難しい。でも、競馬業界の中から、角居さんを中心として、具体的に引退競走馬を支援しようという組織ができてきました。調べてみると、社会を変えられる力がみなぎっているなという予感がしました。それも取材を始めた理由の一つです。実際に、動かないと思っていたJRAも動き始めました。ちょうどいいタイミングで取材を始めることができたと思います。

馬主になって知った馬の魅力 入口は「かわいい」でOKです!

――社会が変わるかもしれない。そう予感されたのはなぜでしょうか。

 私は二十五年近く、ペット動物の取材をしてきたんですが、二十五年前は全国で年間六十万頭から七十万頭の犬と猫が殺処分されていました。それから十五年、二十年と経つうちに減っていって、最新のデータでは一万四千頭くらい。犬に関しては三千頭ぐらいで、百分の一以下にまで減らすことができたんです。どうやって実現したかというと、ボランティアの方々が地道に活動を続けるなかでそれが民意となって法律が変わり、国や行政を動かしていったのです。
 私は取材を通してその過程を見てきたので、「世の中は変えられる」という手ごたえを感じていました。馬の世界とペットの世界では、置かれた状況や問題点が異なりますが、変わらない社会はない。それをこの目で見てみたいと思いました。

――『セカンドキャリア』は、引退競走馬のその後がメインテーマですが、それだけではなく、片野さんが馬に近づくことによって得た気づきや、愛情を寄せていくプロセスをお書きになっていますね。ラッキーハンターという引退競走馬と出会い、「TCC引退競走馬ファンクラブ」の引退競走馬共同オーナー制度を利用して共同馬主になったエピソードなどから、馬がいかに“かわいい”かが伝わってきました。

 うれしいですね。犬や猫はもちろん、野生動物の保護でも「かわいい」という感覚は大事だと思っています。かわいいだけじゃ世の中が変わらないというのは事実なんですが、入口は「かわいい」でいいと思います。馬は人気のある動物ですが、どちらかというと気高いとかかっこいいというイメージ。その分だけちょっと人間との間に距離がありますよね。でも、ラッキーハンターをはじめ、サラブレッドたちに間近で会うと、こんなにもかわいくて魅力的なんだと気づかされます。直接馬に触れた経験のない読者にも「そうか、馬ってかわいいんだ」とまず感じてほしい。それから引退競走馬の問題にも興味を持ってもらえればと思います。

セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅
引退競走馬で、現在はセラピーホースとして活躍するラッキーハンター。片野さんは共同オーナー制度を利用して、ラッキーハンターの共同馬主になった(撮影:著者)

「馬がいたおかげで今の自分がある」

――馬の魅力だけでなく、馬に関わっている人たちの人生を垣間見ることができるのもこの本の面白さです。馬に関わる仕事をしたい人にも参考になると思います。

 本当に皆さん、馬がいたおかげで今の自分があるとおっしゃるんですね。先ほどお名前を出したレジェンド調教師の角居さんのような方でさえ、自分がここまでやってこられたのはすべて馬のおかげだとおっしゃっていました。角居さんは馬の経験ゼロで競馬業界に入った方なんです。北海道と馬にふんわりした憧れを持って牧場に就職された。そうやって馬の世界に入られた方が、稀有な才能を発揮されているんです。
 私も恐る恐る馬の世界に足を踏み入れて、少しずつ歩いていくことで、馬の世界を体験することができました。「引退競走馬をめぐる旅」とサブタイトルにつけたとおり、いろんな人と馬に会いに行く旅だなと思いながら取材していましたね。

――片野さんの馬への興味は引退競走馬だけに限らず、たとえば東京の住宅地で「馬カフェ」を営んでいる方も取材されています。その広がりもこの本の魅力だと思います。

 セカンドキャリアを歩んでいる馬たちをたくさん取材したんですが、やっぱりお金の問題が立ちふさがるんです。馬を適正に飼うための環境をつくると、馬房が一頭に一つ必要だったりして、年間で百万円ぐらいかかると言われています。
 でも、馬のことを知れば知るほど、馬と一緒に暮らしたらどんなに楽しいだろう、と思うんですよ。ラッキーハンターも、二回目に会ったときには二回目の親しさ、三回目に会ったときには三回目の親しさと、ちゃんと関係を深めていけるんですね。馬の感受性や人を見る力、記憶力は驚くほどです。犬のように家の中で馬と一緒に暮らしたら、馬がどんなにすごい動物かをもっと発見できるんじゃないかと思いました。それで、自宅のガレージを馬房にして馬カフェを開いている〈馬カフェ マリヤの風〉に取材にうかがったんです。

犬の元気、猫の野生、馬の温かさ 動物の癒し効果について

――馬と人間が共生する中でつくり出した、この国の文化についてもお書きになっていますね。

 岩手県の盛岡市周辺から遠野盆地のあたりには、母屋と馬屋がひとつながりになった「まが」と呼ばれるL字型の建築様式があります。日本には昔から馬と一緒に暮らす文化があったんです。残念なことに日本の馬事文化は戦後、衰退の一途をたどっているんですが、昔と同じようにはできなくても、違うかたちで馬と人とを近づけられたらと思います。
 たとえばホースセラピー。馬に乗ることで理学療法的なリハビリ効果が得られたり、体幹を鍛えられたり、馬の世話をすることで子供たちの社会性が向上するなどの教育的効果が得られます。馬と触れ合うことで心理的なダメージが回復するという効果もあるようです。
 ペットと触れ合うことで心が癒されるという経験は多くの方がされていますよね。私の経験では、馬はほかのペット動物と違って、ふんわりと疲れが離れていく感覚があります。その違いを犬と猫と馬とで考えてみたんですけど、犬はすごくアクティブで、一緒に遊ぼうよ! みたいな感じ。散歩に行こう、外で遊ぼうという元気の良さがあって、気分をがらりと変えてくれる。猫はもうちょっとまったりしていて、読書をしたりと休憩時間を一緒に過ごせる。でも意外とペットの中でも野生が残っているほうなので、ハッとさせられる動きをして、突然笑いを提供してくれるみたいなところがあります。
 対して馬は、じわじわと温まっていく感じ。私は「心の温泉」って呼んでいます。温泉ってたまに入っても気持ちいいですが、それが何日も温泉宿に泊まる湯治になったらもっと心地いいですよね。定期的に馬と会ったり、馬と一緒にお仕事されている方は、継続的な癒し効果を実感されているんじゃないでしょうか。
 TCCセラピーパークでは、そこで働いているたくさんのスタッフの方々のケアも、ラッキーハンターやほかの馬が担っているそうです。児童発達支援のような人をケアする仕事は消耗が激しいので、スタッフ自身もケアが必要と言われているんですが、それを馬がやっている。ここでは馬も同僚であり、人間と馬とがお互いにケアし合っているというのはすごく面白いなあと思いますね。
 馬のセラピー効果を多くの人に知ってもらえたら、会社で馬を飼うのは無理としても、福利厚生の一つで馬に会いに行けるようにしたらいいと思うんです。

――そうですね。牧場と契約して割引してくれるとか。回数券を出すとか。

 ここの養老牧場に行ったら馬と触れ合えます、みたいな制度ですね。養老牧場は引退した馬たちの牧場なんですが、金銭的にはどこも大変です。馬たち自身がセカンドキャリアで稼ぎ口を得ることができたら、もっとたくさんの引退した馬の行き先ができるはずです。

――人間が癒されて、馬たちも自分自身の力で稼ぐことができる。好循環ですね。

 そうなる可能性はあると思います。人を乗せられる間は乗馬やホースセラピーで活躍できますし、二十歳以上になり年を取ってしまうと人を乗せるのは難しくなるんですが、馬は人を乗せなくても存在価値があります。それは私も取材して初めて知りました。乗らないと馬と付き合えないって、普通、思いますよね。

――そう思っていました。

 でも、グラウンドワークと言うんですけど、引き馬として一緒に歩いたりするだけでも交流できます。指導を受けながらグラウンドワークをするだけで、馬と信頼関係を築けるプログラムがある。もっと広まってほしい情報ですね。

セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅
リハビリ効果や子供たちの社会性向上をはじめ、様々な効果が期待できるホースセラピーの様子。何より楽しそう!(撮影:著者)

動物の福祉ばかり書いて、なぜ困窮している人間を見ないのか? という批判に対して

――『セカンドキャリア』にはほかにも馬と人間の関わりについて意外なことがたくさん書かれてあります。私が感動したのは、馬ふん堆肥で美味しいマッシュルームをつくっている岩手県の〈ジオファームはちまんたい〉のエピソードです。馬は食べ物にも関わることができるんですね。

 あのマッシュルーム、本当に美味しいんですよ! セラピーや乗馬で、毎日働くことが難しい馬でも、生きているだけで人間にとってありがたいものをつくり出してくれる。今、多くの馬ふんが産業廃棄物として、お金を払って処分されています。でも、マッシュルームづくりのように農業に組み込めば、安全で美味しい野菜や果物ができる。すばらしいですよね。マッシュルームをつくることによって、十数頭の馬のえさ代などが賄えているそうです。

――引退競走馬の支援には様々な方法があり、今後も広がっていきそうですね。

 誰でも何かできそうですよね。食べ物が好きな人はマッシュルームなどの農作物を買う、スポーツが好きな人は乗馬をする、会社で疲れている人はホースセラピーを受けるとか。いろんな接点をつくることができると思います。
 一歩踏み込んだら、馬はこんなにも人間に近くて、しかも付き合ったら楽しい動物です。私も取材して馬の魅力にのめり込みましたし、取材そのものが本当に楽しかったですね。
 また、会う方、会う方、皆さん“馬愛”にあふれているのも印象的でした。馬と一緒にいるだけでにこにこしているんですよ。馬の癒し効果ってきっとこういうことなんだなあと感じました。

――引退競走馬のセカンドキャリアへの模索はまだ始まったばかりですが、『セカンドキャリア』は、これから馬と人との関係が変わっていくことを予感させてくれる本です。読んだ人も影響されて何かしらアクションを起こしたくなるような、そういう力のある本だと思います。

 一人ひとりは無力ではないし、社会って本当に変えていけるんだということを知ってほしいです。私に直接わざわざ言う人はいないですが、犬、猫、馬など動物のことばかり書いて、なぜ人間を見ないんだという批判があるかもしれません。でも、私が動物を切り口に書いていることは、人間社会のことでもあると思っています。動物の立場が変わっていくことは、人間社会の変化を反映していると思うからです。
 人間から見れば動物は社会の底辺に位置します。底辺が大事にされていれば、社会全体も底上げされて一人ひとりが大事にされるようになる。動物たちの社会的な立場を向上させることは、実は人間の立場も向上させることだと信じて、これからも取材を続けていきたいと思っています。

セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅
馬ふん堆肥を用いてマッシュルームを生産しているジオファーム八幡平。(撮影:著者)

「青春と読書」2023年12月号転載