少年の幼心を強烈にとらえた美しき継母に、未来を予知する「夢見」の力をもつ一族――。
さまざまな“カリスマ”に心を奪われる人たちの姿を描き出す、三浦しをんさんの最新作『夜の恩寵』を、臨床心理士・公認心理師の岩宮恵子さんはどう読んだのか。
物語の発端と、母性の呪縛にも連なる本作の魅力について、お二人に語っていただきました。

構成/立花もも 撮影/中林 香

カリスマ性とは何か

――お二人のご縁は、三浦さんが岩宮さんの著書『思春期をめぐる冒険』に解説を寄せたことから始まったそうですね。

岩宮 それ以前から、私はしをんさんの著作をすべて読ませていただいていたんです。以前、遠野物語についての研究会で、しをんさんのお父様であるうらすけゆきさんにお目にかかったときに、私がいかにしをんさんのファンであるかを語りすぎて、たぶん引いていらっしゃったと思います(笑)。だから今回、対談にお招きいただいたのが本当に嬉しくて。
三浦 こちらこそ、突然お声がけしたにもかかわらず、ご快諾いただきありがとうございます。
岩宮 私は、しをんさんの著作のなかでは『光』が他の作品とは少し違う位置にあるように思っているのですが、『夜の恩寵』にはそれに連なるものを感じました。『光』では、主人公の一人である信之のぶゆきが、幼なじみの美花みかという少女のために罪を犯しますよね。そして、物理的に距離が離れたあとも、美花の存在にとらわれ続けている。それが、今作の第一話「しんに乗る女」の主人公・輝久てるひさ継母ままははである喜久美きくみの関係に重なりました。今作は「カリスマ」をテーマにした連作短編集とのことですが、それを社会的なリーダーシップとは違って、家族などの狭いコミュニティのなかだからこそ生まれる原初的な呪縛として描いていらっしゃる。強烈な逃れられなさ、みたいなものに非常に心をつかまれました。
三浦 おっしゃるように、カリスマ性とは、日常の狭い範囲で発揮される魅力なのではないかと思ったんですよ。それが結果的に、社会に影響を及ぼすものとして育つのだとしても、最初はごく身近な人間に対する脅威から始まるのではないか、と。なんだかよくわからないけれど、あの人の言うことはよく当たる、あの人のおかげで病気が治った……そんな存在を中心に、新興宗教の最初のうごめきみたいなものを書いてみたいと思いました。

――喜久美は、まさにその中心人物として描かれていますね。輝久が久しぶりに帰省してみたら、彼女は“ヌチガミさま”がく神秘的な存在として周囲にあがめられるようになっていた。その戸惑いから「神馬に乗る女」は始まります。

岩宮 そもそも喜久美は、輝久にとって神秘的な存在だったんですよね。実母が亡くなった原因である自転車に十歳になるまで乗ることができなかった輝久に、自転車に乗ることの楽しさをはじける笑顔で教えて輝きの中に引っ張り出してくれています。そんな彼女は、確かに輝久を救ってくれた人。けれど、カリスマ性のある人間の放つ光は、他者の心を照らすと同時に、近づきすぎると焼かれる危険な炎でもありますよね。まるで神馬に乗るようだ、と喜久美を表現し、日常と非日常のあわいで心をつかまれてしまったあの瞬間から、輝久のすべての苦しみは始まったのだ、ということがありありと伝わってきました。
三浦 まさに、日常と非日常のあわいみたいな瞬間も書いてみたかったんですよ。現実に起きたことは確かだけど、なぜそうなったのか、あの高揚はなんだったのかと、あとになっても上手に処理しきれないことってあるじゃないですか。そういう瞬間を切り取ってみたいなと思ったら、どうしても光り輝くカリスマみたいなものは描けなかったですね。

三浦しをん対談

夢と家族がもたらす呪縛

岩宮 カリスマ性に魅了されるということは、そのあわいを、境界線を、踏み越えてしまうということですよね。自分の感覚を手放してでも、相手の感覚に委ねてしまいたくなる。そこに『光』との重なりを感じたんです。美花の磁場にとらわれた信之は、だんだんと自分の意思を失っていきますよね。奪われた、というよりは、みずから放棄してしまった。
三浦 ああ、なるほど。
岩宮 そうなると、相手が何を指示したわけでなくとも、勝手に読みとって行動せねばならないと思い込んでしまう。それがまさに、宗教でも起こりうることで、本作における「夢見」の役割でもあると思いました。二話目以降に登場する夢見、いわゆる予知夢を見ることのできる人たちの語る夢が、従うべきものとしてどんどん人の心を支配していってしまう。
三浦 私は寝るのが大好きで、よく夢も見るんですけど、一度、夢のなかで妊娠したことがあったんですよね。気づいたらお腹もふくらんでいて、これは大変だ、仕事の調整をしなくちゃと慌てるんだけど、つわりで気持ちが悪いし、どうにもならない。で、目が覚めたらものすごく悲しいわけですよ。お腹にいたあの子はどこへ行ってしまったのだろう、と。身に覚えもないのになんでそんなリアルな夢を見たのかはわからないんだけど、あのまま夢のなかで子どもが育っていたらどうなっていたんだろう、というのが第二話「ちょう」を書いたきっかけの一つです。

――第二話の主人公・未千みちは、大人になってから夢見の才能が開花した女性。なかなか子を授からない彼女は、夢のなかで妊娠・出産し、子育てする夢を夫と共有することで、日常と非日常のあわいを徐々に溶かしていきます。

岩宮 未千の場合は、祖母にもあった夢見の力を引き継いでいる、というところに一つの呪縛があるんですよね。
三浦 そうですね。祖母の力が本物だったかどうかなんて、誰にもわからないけれど、本物であってほしいと願うことが、その力を強固にしてしまうこともあるのかな、と思いました。私自身は、あんまり神秘的な力みたいなものを信じていないし、「何かのトリックでは?」と疑ってしまう。未千をはじめとする作中の人物も頭から夢見の力を信じているわけではないし、あらがおうとはしている。だけど、どうしても抗いきれない何かが生まれてしまうんですよね。「あれ? この人たち、全然逃れられないぞ」と自分でも不思議でした。
岩宮 それは、家族という凝集性のある集団が舞台になっているからだと思います。夢というのは本来、個人の内的な世界であるはずなのに、家族内で力を持つものとして共有したり、夢を見ることで序列が生まれたり、集団の秩序を生むための装置になってしまうと、ゆがみが生まれる。そのおそろしさが、本作ではありありと描かれていたように思います。
三浦 夢って、見ないことを自分の意思では選択できないじゃないですか。一時期、あまりに夢を見るものだから、日記をつけていたことがあって、そのときは夢の内容をコントロールできるようになってしまい、おもしろくないからやめたということがあるんですけど、でも、夢を見ること自体は変えられない。その選べなさは、家族とも似ているなと書きながら思ったんですよね。どんなにいい家族でも、いずれは巣立たなくてはならないように、夢も必ず朝になったら覚めなくてはならない。だけど未千は、あまりに幸福なその夢にとらわれ、逃れることができなくなったのだと思います。その幸福を守るために、夢を現実にしなくてはならないと思い込む。その時点で、夢にとりこまれてしまったのだ、と。
岩宮 そうなると、夢の真実性なんて関係ないんですよね。本人が、それが真実であると思い込んでいることが、何より優先されてしまう。
三浦 夢という言葉は「〇〇になりたい」という現実的な目標にも使われるじゃないですか。それもまた、呪縛となりうるおそろしいものでもありますよね。たとえば、プロのサッカー選手になれるのはほんの一握りなのに、なるしかないんだと思い込んでしまったら、その人生はとても苦しいものになってしまう。
岩宮 それもまた、境界線を見失うということですよね。未千が夢にとりこまれてしまった原因の一つに、子どもができないということがあった。夫婦二人で生きていくという現実を未千が受け入れることができていたなら、夢で子育てしていようと、なんの問題もなかった。いずれその夢が消えてしまったとしても、夢は夢、とちゃんと割り切ることができたはずです。だけど彼女は、現実の不安や痛みを、夢に肩代わりさせてしまったんですよね。大事なのは、日常と非日常のあわいにありながら、決して自分を見失わないことなのですが……。
三浦 でもそれって、ものすごく胆力が必要ですよね。
岩宮 そうなんです。それは中腰で生き続けるということだから、体幹がしっかりしていなければ、耐えられない。だから人は、一方に振り切ってしまいたくなることがあるんですよね。そうすると、それまでかろうじて保たれていた現実との往還が切れて、生活全体が一つの世界に引き寄せられていってしまうことも。夢であれ、理想であれ、怒りであれ、喪失であれ、それがその人にとって唯一の真実になってしまう。
三浦 そこから、また中腰のあわいに戻ることはあるんですか。
岩宮 簡単ではないと思いますね。いったん一方へ振り切ってしまうと、今度はその反対側へ振り切ることでしか自分を保てなくなることがあります。たとえば心を固く閉じてしまうとか。そこからまた「あわい」に戻るためにはどっちつかずの自分を受け入れながら、正解を決めることなく、それでも自分を守り続けるしかないんです。これがどんなに難しいことなのか、臨床現場で日々実感しています。だからこそ、そのあわいを描き続けるしをんさんの小説に、私は魅了されてしまうんです。たぶん、しをんさん自身が、あわいを生きておられるんだと思いますよ。
三浦 そうだといいんですが……ちょっと自信がないな(笑)。

三浦しをん対談
いわみや・けいこ 臨床心理士、公認心理師。島根大学こころとそだちの相談センター特任教授。臨床心理相談室にしきまちオフィス代表。著書に『生きにくい子どもたち カウンセリング日誌から』『フツーの子の思春期 心理療法の現場から』『好きなのにはワケがある 宮崎アニメと思春期のこころ』『思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界』『思春期心性とサブカルチャー 現代の臨床現場から見えてくるもの』『思春期センサー 子どもの感度、大人の感度』などがある。

疑うことを許されない怖さ

岩宮 第三話「夢見る家族」で、夢にとりこまれてしまったあとの未千たちに触れたからこそ、第四話「金の糸」の主人公であるむつの健やかさには救われますね。複雑な家庭で育っているのに、誰よりも地に足がついている。彼が家事をする描写を読みながら、ああ、こんなふうに日常を大事にする人だから、あわいを生きることができるんだと感じました。
三浦 暗い展開ばかりじゃ息がつまるかな、と青春っぽい話を書こうとしたら、六実が爆誕したんですよね(笑)。彼もまた夢見の系譜に連なる子だから、もうちょっと神秘的だったり葛藤があったりする物語にしたかったのに、あまりに素直でいい子だから行き詰まる余地がまるでなかった。まあ、たまにはそういうケースもあるということで、いいかなと。
岩宮 高校時代の六実が世話をすることになる、クラスメイトの暴れん坊・ゴンゾーもすごくいい味を出していますよね。ゴンゾーは留年しているから、六実とは一歳違い。「夢見る家族」に登場する兄弟もまた一歳違いですよね。
三浦 そうなんです。
岩宮 やっぱり、それには意味があるんですよね。あんまり言うとネタバレになってしまいますが、そこに一つの浄化がある、と私は非常に胸を打たれたんです。
三浦 ありがとうございます。そういう想いを私も六実とゴンゾーに託しながら書いていました。夢を見ることも、どんな家族に生まれるかも、自分の意思ではどうにもならない。生きていれば、どんなに願っていても手に入らないものはたくさんある。それでも、永遠に終わってほしくない夢を見たとしても、六実は決して呑み込まれたりしない。そんな明るさを描けたことも、よかったなと思いますね。あと、二人はバンドを組んで、やがては武道館でライブをするほど人気になるんですけど、一度はこういうバンド小説を書いてみたかったので、あたためていたネタをついに出せた、という嬉しさもありました。
岩宮 カリスマの力を信じることは、一時の救いにはなっても、誰かを根本的に癒すものではないんですよね。
三浦 ああ、確かに。その発想は、なかったですね。喜久美のおかげで足が治った、みたいな描写はありましたけど、その場では治ったような気になって、火事場の馬鹿力で歩いて帰ったけど、実はずっと関節は痛いままなんじゃないかなという気がしますし。
岩宮 でもきっと「実はまだ痛い」と言うことは誰にもできない。「治ったことにしなきゃいけない」という圧が生まれてしまうのも、カリスマ性の一つなんだと思うんですよ。共同体のなかで、一度共有されてしまった「喜久美のおかげで救われる」という物語を破壊する役目を、自分が背負うことはとてもじゃないけれどできないから、黙り続けるしかない。そのおそろしさは、最後まで描かれていましたね。そして、そうした疑うことが許されない支配は、母親からの呪縛にも重なる。最終話でふたたび喜久美と輝久の物語に戻ってきたとき、改めて私はこの作品はファンタジーではない、家族の物語なんだと感じました。輝久だけじゃなく、母親の呪縛に気づいて抗うことは、多くの人にとって人生の課題になりうるものですから。

三浦しをん対談

夢は、最後には手放すもの

三浦 私も、とくに娘は、基本的に母親と仲が悪いもの……敵対し合わずとも多少は反目し合うものだと思っていたんですけど、最近は、反抗期のない子どもが増えていますよね。娘さんと仲のいい友人を見ていると、なんだか不思議な気持ちになります。
岩宮 もちろん生まれつき相性がいいということもあるでしょうが、自分の価値観は横に置いておいて母親にあわせていたほうがラクだからそうしている、という場合も多いと思います。その場合、四十を過ぎてから母親にふつふつと怒りがこみあげてきたりすることも。
三浦 遅まきの反抗期が。
岩宮 あるいは、自分にはなかった反抗期を迎えた我が子と向き合ったとき、必要以上に怒りが芽生えてしまう。自分は母親の気に入るように生きてきた、ということが思い起こされてしまうんですね。自分の人生を生きることができなかった後悔ややるせなさを抱えて、カウンセリングにいらっしゃるかたもおられます。もちろん、母親と一切反目することなく幸せに関係を築いたかたは、相談を必要としないから出会わないだけ、ということもありますが……。母親との関係を夫にスライドし、夫の価値観に身を委ねて生きて来られた方は、熟年になってから悩まれることもあります。
三浦 誰かの言うとおりに生きるって、確かにラクな部分はあるかもしれないけれど、でもやっぱり、苦しいんじゃないかと思ってしまいます。
岩宮 しをんさんのように、何か新しいものを生み出そうとするかたは、誰かの意向にあわせて生きることのほうが苦しいですよね。でも、新しいものを生み出す行為は、既存の安定を打ち壊すことでもあるので、そのおそろしさに比べたら窮屈さに耐えたほうがマシ、ということもあるんです。だから、喜久美のようなカリスマ性のある存在が家庭にいる場合、信じるか逃げるかのどちらかしかない。そしてこの小説がそうであったように、たいていその支配は母性によってなされますね。
三浦 うちは母親が自由にふるまい、父親は影を潜めている家庭でしたが、他のご家庭もそうなんですか。
岩宮 臨床の実感としては、日本で父性の強い家庭は少ないと思います。父親が一見、父性的権威のように見える場合でさえ、かわはや先生の言う「母性社会」の内側で与えられた役割にすぎないことがあります。母性による精神的な支配のほうが、ずっと根が深いのだと思います。
三浦 いわれてみれば、母と息子の精神的な密着は、母娘のそれとはまた違う根深さがありますよね。輝久と喜久美もそうといえばそうなのか……。
岩宮 輝久と喜久美の場合は、血のつながりがないからこそ際限がないので、よりおそろしいものがあると私は感じました。「神馬に乗る女」を読みながら私はずっと「この人は危ない」と感じていましたからね。言うなれば、むらさきのうえを育てるひかるげんのようだと。
三浦 それ、担当編集者さんも言っていました! 私はもう少し、少年が抱く大人の女性に対する無邪気な憧れ、みたいなものを想像していたのですが。
岩宮 いやいや(笑)。語りすぎるとこれもネタバレになってしまうので控えますが、彼女がカリスマ性など発揮せず、もっと素朴に普通のお母さんとして接してくれていれば、輝久はこんなにも苦労しなかったと思います。でもね、だからこそ、「金の糸」の健やかさに救われるんですよ。学校に行かないゴンゾーを、六実が自転車に乗せて登校するシーンがありましたよね。あれもまた、浄化であると私は感じました。家族にせよ、友達にせよ、相手を呑み込もうとする邪心も、拘束しようという執着もないまま、こんなふうにただ一緒にいることができたらどれほど幸せだろうかと。
三浦 確かに、あの二人には誰かをどうにかしてやろうという意図はまるでないですね。
岩宮 「金の糸」にも不意に深い穴の入り口に立たされるような仄暗ほのぐらさはあるんです。ただ、六実は日常と非日常をいったりきたりしながら、自分だけの現実をつかみとっている。それは彼がどんな夢を見ても呑み込まれず、日常へ戻していける人だからなのでしょう。託宣のように信じすぎるのでもなく、誰かをコントロールするために使うのでもなく、日常を守るための糧として受け止め、そして手放す。それができる人は、臨床の現場でも自然と変化していかれます。心理療法で私が戒めのように感じていることが、今作にはしっかりと紡がれていました。
三浦 ありがとうございます。小説も、もしかしたら夢のようなものかもしれませんね。私が日常で感じている、ふとしたおそろしさが折り重なって、無意識のうちにこの小説にたちのぼっていた。そのすべてを、書いている私自身ですらコントロールすることはできないのだろうな、とお話を聞いていて思いました。
岩宮 どんなに明るい小説にも、ふと仄暗さがかい見え、あわいに立たされるのがしをんさんの小説の魅力だと思っています。その真髄に触れられて、とても嬉しかったです。

「小説すばる」2026年8月号転載