第三章 一節

 長崎で一年を過ごし、平賀源内は宝暦三年(一七五三)夏、久保くぼ桑閑そうかんに伴われて再び故郷の志度しどに帰った。竹林に覆われた米蔵の番人に戻り、行動を起こさなければ何もかも見飽きた溜め池の淀みの中で生涯を送るしかないおのれの姿が見えたにちがいない。

 翌宝暦四年(一七五四)七月、二十七歳を迎えた源内は、高松藩に蔵番の退役願を出した。源内がのちに立松たてまつ懐之やすゆきをはじめ知友たちによく語ったように、手をこまねいて眺めていては何一つ成就できずに終わる。源内も二十を過ぎたころから、親戚や知人筋からしばしば縁談を持ち込まれたものの、父親と同じく四国の片隅で蔵番の生涯を送るつもりがない以上、所帯を構える気は毛頭なかった。

 源内は、まず従弟のいそろうを妹里与りよの婿として迎え、家督を継がせた。志度の地において、ささやかであっても一人いちにん扶持ぶち三石の俸禄を藩に返上し、家財田畑を放棄するごとき行いは、常軌を逸したものとしか周囲からは思われなかっただろう。だが、源内にしてみれば、一度限りの人生を祖父や父親と同じように生き、わかりきった生涯をただ送って済ますほうが狂気の沙汰としか感じられなかったはずだ。

 「国を富ませることによって万民を救う」源内の胸の内に秘めたその意志の前では、一人扶持三石の俸禄は何の意味もなく邪魔でさえあった。捨ててしまえば、「白石しろいしでんろう」自身となる。まずはおのれの身一つに戻ってすべてを始める気だったろう。

 退役願いは、表向きには病気がちでとても任務を遂行できないという、いかにもの理由を取り繕ったものだったが、翌八月になって高松藩から許可があっさりおりた。蔵番ごときの代わりはいくらでもいる。高松藩において当時の源内はやはり足軽以下の米蔵番人としか見られていなかったようだ。

 宝暦六年(一七五六)三月、二十九歳を迎えた源内は、満を持して江戸を目指し、志度湾を出発した。同行したのは、志度の俳諧仲間で渡辺桃源とうげんだった。桃源は、造り酒屋で地主の資産家であったが、何より志度における俳諧仲間の中心的役割をはたしていた人物にほかならない。

      井の中をはなれかねたるかわずかな
      古郷ふるさとを磁石に探るかすみかな

 意を決して志度を発ち、はりなだ明石あかしに向かう船中で源内が詠んだと思われるほっには、素顔をそのままに現した、後ろ髪を引かれる源内がいた。

 海上八里(約三十二キロ)離れた明石の港では、安芸あき文江ぶんこうが二人の到着を待っていた。文江もまた讃岐生まれの俳諧仲間で材木商を営み、元禄時代から豪商で聞こえていた。どこに出るにしろ旅費をふくめかなりの金子を必要とする。蔵番の俸禄を返上し、家督を譲り渡した源内には、大坂へ出ることすら難しかったはずである。この時に大坂まで同行した渡辺桃源と安芸文江も、源内の傑出した才知をで、無条件で援護する久保桑閑やよし喜右衛門きえもんらと同様の人々だった。

 桃源と文江とともに有馬温泉で更衣ころもがえの四月一日を迎えた。

  垂乳女たらちめの恩あらたなり更衣

 故郷の家は妹夫婦に継がせたものの、五十路いそじも半ばとなった母を残して旅立った。その母が用意してくれたあわせに源内は袖を通し、今さらながら母が我が身に注いでくれた情愛を思い起こさずにはいられなかったものだろう。

 源内は「ざん」の俳号で、若き日より俳諧仲間から一目置かれる存在だった。故郷において仰ぎ見られる人たちが、源内を同格の友として受け入れた理由はそこにあった。

  のちにおおなんの漢詩集に寄せた序で源内はこう記した。

  『馬鹿は孤ならず、必ず隣あり。目の寄るところ玉が寄る』 

 宝暦三年(一七五三)の夏に長崎から帰って一年余、源内は身近な俳諧仲間と句作に打ち込んだ。そこでは身分や財産はまったく問題にならず、ただ句の才能のみが問われる世界だった。

 俳諧はそもそもが言葉戯れの遊興で、基本は連句である。俳諧好きの何人かが集まっては、次々と句を連ねていき、その優劣を競う知的な遊戯会だった。そこでは若き蔵番がその句才によって格別の輝きを放っていた。

 寛延三年(一七五〇)、源内が長崎に赴く前、二十三歳の年、渡辺桃源、琴吹ことぶき春人はるうどの俳諧仲間三人と「百韻ひゃくいん」の会を催した。

 まず桃源から「五七五」が出され、それに李山こと源内が「七七」を即興で付ける。琴吹が「五七五」を詠み、それに春人が「七七」を。次には李山が「五七五」を、桃源が「七七」……と、順次「長句」と「短句」の順番を入れ替え、めいめいが思いついた「五七五」と「七七」を連ねてゆき、発句から結びのあげまでの一巻が百句からなるものだった。そして、百句が並べられたあとで、四人が付けていった句を集め、その優劣を点者として招かれた人物が点数をつけて競う仕組みである。この折の百韻は次の発句に始められた。

      竹の戸を鼻で探るや夜の梅  (桃源)

      峯々解けてかけいへも増し  (李山)

      永日えいじつの連れの遅さに時延びて (琴吹)

      詠みつくされつ筆のはや(春人)

「明かりひとつない早春の闇夜、ほのかな梅花の香だけを頼りに庭の竹戸を探した」と発句を詠んだ桃源を受け、李山は「遥かな峰々の雪も融けたらしく筧に威勢よく水がほとばしる季節となった」と詠んだ。桃源が近景と嗅覚によって春を詠んだのに対して、李山は遠景と視覚で応じてみせた。

 この時の点者は俳諧仲間でも熟達した石橋なにがしで、獲得点数は、桃源が九百六十五点、李山こと源内が九百五十点、春人九百二十五点、琴吹七百八十五点となった。

 二十三歳の源内は渡辺桃源に迫る高得点を挙げていた。

 この時代、俳諧仲間は全国いたる所にできており、それぞれの地で「組連くみれん」とよぶ創作結社を作り、句作を競い合っていた。そうなれば他の地区の俳諧仲間と句の善し悪しを競い合う連合句会に発展する。才能の競い合いに懸賞金は付き物で、興行主が現れ、全国規模の俳諧結社網さえ出来ていた。それぞれの組連には取次所を設け、連合句会に応募する者は出品代を出し、取次所は出品代金を集めて興行主に渡す。興行主はしかるべき点者を招いてそれぞれが投稿した句の出来を比べ、良句の作者には懸賞金品を与える。そういう懸賞金付きの連句会が全国規模で催されていた。

 句会の後、興行主は、高得点の句を載せた冊子を作って売り出し、それを次の開催での入選を目指す者たちが買い求めて修練する。そこでは金銭の循環もうまい具合にできあがっていた。

 身分や貧富の差しかなかったはずの世間も、実はそれらの価値とはまったく異なる、ただ詩才のみが問われる別の世界が形成されていた。

第三章 二節

 長崎で出会ったよしこうぎゅうをはじめ西にしぜんざぶろうもと仁太にだゆうらのオランダ通詞は、従来のたんなる通訳業を超え、日本国に役立つと思われるオランダ書を集め、それを和語に訳出する難業にとりかかっていた。耕牛にいたっては、オランダ商館付きの外科医から西洋医術まで学びはじめていた。西洋の新たな学術の海に漕ぎ出した彼らは、それまで源内が目にした誰よりも生気あふれ、輝いて見えたはずだ。

 源内には本草学ほんぞうがくがあった。本草学は、本来薬用とすべき植物、動物、鉱物を集め、それぞれの名称・来歴・産出状況・薬効などをつまびらかにするという使命を持っていた。ところが、ちんの『本草綱目ほんぞうこうもく』の時代とは異なり、すでに本草学はたんなる漢方医学の薬物学にとどまらず、産業上において価値ある物を見出し増産しようとする物産学であり、物とその名前を確定する名物学でもあった。李時珍が生涯を費やして『本草綱目』を著したごとく、膨大な時間と労力を費やさなくては何一つ打ち立てられないことは明らかだった。

 ことに八代将軍吉宗の時代以降、幕府と諸藩による殖産興業への志向が強まり、採集や栽培など実地の検分からなる物産学が盛んとなった。

 物産学の流れは二つあり、ひとつは文化の中心である京都の本草家たちによる文献重視の、自然物の知識を集大成しようとする文献物産学だった。もうひとつが、江戸の本草家による文献よりも採集や栽培などにおける実地の技術や知識を重視する流れだった。

 本草すなわち漢方医学で使われる薬物といえば、万能薬として知られる朝鮮人参がまず挙げられる。だが、どうしても朝鮮人参は、もっぱら対馬を経由して輸入しなくてはならない品だった。

 八代将軍吉宗が親政をる享保二年(一七一七)正月、対馬つしま藩が朝鮮人参の買い入れ資金として幕府から銀五百貫を借り入れた。そのころ対馬藩による朝鮮貿易は低調で、輸入人参の量が少なく、質も悪く、それでいて値は高騰するばかりだった。

 同じ享保二年、吉宗は、江戸いしかわ薬園やくえんを二千八百坪から四千八百坪に広げ、翌享保三年には同薬園にオランダ薬草を植え付け、幕府医の丹羽にわしょうはくに管理させた。

 享保五年五月、吉宗は、元紀州藩庭方にわかた植村うえむら政勝まさかつに薬草御用を命じ、薬種採集のため日光へ派遣した。さらに植村は、九月に新設した一万坪の駒場御薬園の管理を任された。

 享保六年(一七二一)八月、小石川の御薬園はまたも四万四千八百坪に拡大され、御薬園奉行の管理下に置かれることになった。同年十月、対馬藩から初めて朝鮮人参の生根三本が吉宗に献上され、翌七年にも人参生根六本が献上された。以後連年のごとく生根や種子が献上された。

 同七年、下総しもうさ金牧がねまきに薬園の用地として三十万坪が用意され、丹羽正伯と薬種商人の桐山きりやま太右衛門たえもんが薬草栽培を命ぜられた。同年、幕府は国内産薬種を鑑定するため江戸に「やくあらため会所かいしょ」を設置した。

 将軍吉宗は、たんに金銀の海外流出問題だけでなく、人口の増加、金銭遣いの拡大、漢方医学知識の普及によって、漢方薬の需要が民の間で拡大している状況にかんがみ、朝鮮人参をはじめ輸入薬種の国内生産に向けて次々と手を打った。反面、本草学は政治に取り込まれ、あくまでも幕府主導のもとで発展するものとなった。

 あら白石はくせきの述べた「国益」の向上を目指す源内は、本草学からさらに物産学へと領域を広げ、政治とのかかわりも持たざるをえなくなるのは明白だった。

 江戸の本草家、なかでもむら藍水らんすいを師とすることを、源内は早くから決めていたようだった。田村藍水の名は、「人参博士」として四国の地ばかりか長崎でも知られていた。

 長崎から志度に戻って一年余の歳月、源内が俳諧とともに打ち込んでいたのは、貝原益軒かいばらえきけんの『大和やまと本草ほんぞう』を読み込むことだった。

『大和本草』は久保桑閑が所蔵しており、古高松ふるたかまつに足を運べばいつでも紐解くことができた。宝永六年(一七〇九)に刊行された『大和本草』こそ、表題どおり日本における本草学の歴史を画する名著だった。

 平賀源内といえば、オランダ語や医学をかじってはみるものの、すべて中途で投げ出し、何一つ満足に研鑽を積まなかったごとく語られるが、それは間違いだ。たとえ生涯を費やしてオランダ語を学んだとしても、オランダ人の用いる言語の奥行きの深さまではとうてい行き着けないという直感が源内の内に働いていたものと懐之には思われた。オランダ語も医学も、あくまで本命の本草学に必要な程度を押さえれば充分だったはずだ。

 貝原益軒の『大和本草』の薬類は、懐之もかわ林助りんすけに見せてもらったことがあった。居所も定まらない林助が所蔵しているはずもなく、田村藍水から借用してきたものだったと思う。林助も漢詩や漢文を読むうえで本草学に関心を寄せ、田村藍水のもとに一時身を置いて雑用を務め居候のごとき暮らしをしていた。

『大和本草』の「六巻の草部の二」には「薬類」がまとめられており、やはりその筆頭に「人参(朝鮮人参)」が載せられていた。そこにはこう書かれていた。

 〈手足を持つ人のごとき形から人参という。朝鮮産のものを上品とする。ちゅう(シナ)でもこれを用い、中夏では銀と同等の価値を有する。わが国においては、朝鮮から渡来した人参は銀相場の十倍の値で取引される〉

 貝原益軒は、まず名称の由来、そして日本において朝鮮人参がいかに珍重されているのかを述べ、次のように続けていた。

 〈本物の人参が貴重で高価なため、じん(トトキニンジン)やソバナ、桔梗ききょうの根など、ニセ物を人参と称して売っている場合が多々ある。本物かどうかをよく精査し、たしかで間違いのない、ニセ物でない人参を使うべきである。

 〇 長崎に渡来する中夏産の唐人参は、朝鮮産より効能が劣る。

 〇「ヒゲ人参」と呼んでいるのは、人参の根から生えたヒゲである。これも異国から渡来する。たしかで間違いのない品なので、大人参の淡白な物よりは優れている。
 〇ふし人参というのは、葉がせりに似ている。根には竹のような節があり、ヒゲが多く生えている。わが国の山中で陰湿な場所に自生する。薬屋では節人参の根とそのヒゲを売っている。味は苦く、人参の味とは異なる。これを人参の代用にしてはならない。ヤブ医者は人参の代りに節人参を使うが、非常によくないことである。

  また、近年はセリ人参と称してせりに似た草をよく植えている者がいる。味も芹に似ている。これにはムカゴのような実が成る。その根は甘い味がする。これの効能はまだはっきりしたところがわかっていない。

  わが国の医者は、人参の値が高いために代用物を多用する。トトキ人参やツル人参は、薬効はないが害もない。また人参の代りに使うアマドコロは、悪寒や発熱に大なる効能がある。『本草綱目』やちゅうの『本草通玄ほんぞうつうげん』でもそう述べてある。

 人参の代薬としては、トトキ人参、ツル人参、アマドコロ、この三種のほかは用いてはならない。それ以外は、たんに益がないばかりか害がある。〉

 貝原益軒は、本草学というものは「民生日用に切なり」、民が日々を生きるうえで欠かせない重要な学問だと述べた。事実、『大和本草』を上梓した時代は、朝鮮から対馬を経て渡来する朝鮮産の人参があまりに高価で、ニセ物が市中にはびこり、薬害さえ起こりかねない状況だった。セリ人参と間違えて毒芹の根をすり下ろし食した者が死亡する事例も起きていた。朝鮮からの輸入が思うにまかせないならば、何としても国内生産を図る必要があった。

 朝鮮人参の国内生産は、享保十四年(一七二九)に日光今市いまいち大出おおいででんもんよる植え付け成功によって始まった。対馬藩から献上された三本の生根が幸運にも日光で根付き種子を実らせるまでになった。

 享保十八年(一七三三)、植村政勝が、日光の人参寒養御用を命ぜられた。人参のかぶ数が増えて毎年種子が収穫されるようになり、植村は元文元年(一七三六)に人参種子の収穫のため三度日光に足を運んだ。

 翌元文二年、幕府は市井の本草家田村藍水に日光で採取した人参種子二十粒の試験栽培を命じ、藍水は本所の薬草園で繁殖を試みた。

 元文三年(一七三八)五月、幕府はふれがきを出し、江戸日本橋の本石ほんごくちょう十軒じっけんだなの幕府御用薬種商「おか肥後ひごがた」において、誰にでも朝鮮人参の種子を売ると告知した。

 清国や朝鮮でも行われたことのなかった朝鮮人参の国内栽培が成功して、それが軌道に乗ったことを意味した。その栽培と製薬化の中心を担ったのが、植村政勝と田村藍水だった。植村政勝は吉宗の紀州藩主時代からの忠臣であったが、田村藍水も身は市井に置きながら幕府と深い関係を築くことになった。

第三章 三節

 なんじょうさんじんこと川名林助は、享保十七年(一七三二)内藤新宿の下屋敷で産声をあげた。本多家は九千石もの知行を受ける大身の旗本で、下屋敷はちょうど懐之の家の裏手にあった。

 林助の父半蔵は、南房総の館山湾に近い南条村の農民で、江戸に出て本多ただよしに仕えた。林助が「南条山人」の号を用いたのは、父の故郷から取ったものと思われた。林助の利発さが当主の目にとまりちごしょうに抜擢され、下屋敷から神楽坂の本邸で勤めることになった。それを機に神楽坂の三光院脇へ住いを移し、高松藩の儒学者おかけんしゅうに学ぶ機会を与えられた。

 懐之は家が近いこともあり、林助の神童ぶりを早くから耳にしていたが、知り合って親しく行き来するようになったのは林助が三光院脇の家に移り住んでからのことで、林助が十六歳のころだった。

 林助の立身出世を楽しみにしていた父半蔵は早逝したが、母は林助のまれなる才を惜しみ、嵰洲師のもとに通わせ続けた。その母が風邪がもとで病臥し、林助は昼夜を問わず看病にあたったものの、十八歳の時に母を亡くした。時を同じくして頼りにしていた叔父も世を去った。父と二代にわたって仕えた主家も、親戚から養子として本多きょうを迎えるにいたり、林助はこの機に本多家を辞し素浪人の身となることを望んだ。おのれを誰よりも愛してくれた母を失い、もはや立身出世は何の意味も持たなかった。林助にとって母と暮らした思い出がしみついた家でそのまま日々を送るのが耐えがたかったものだろう。林助は三光院脇の家を離れ、市ヶ谷の月桂寺(臨済宗)に身を寄せた。次いで住みついたのが、意外にも江戸かんこんちょうの田村藍水の家だった。

 藍水こと田村げんゆうは、当時四十歳、骨太の骨格優れ、黒々とした総髪に濃い下がり眉と大きな獅子鼻、大きな目に鋭い眼光を備え、一見したところいかつい武人の風格を漂わせていた。だが藍水は、本草学に通じている川名林助の異才を見抜き、「住居が定まるまでここに住めばよい」とそのまま屋敷に住まわせる度量を備えた人だった。二十六歳の林助は、詩画に優れながら栄利を一切求めず、漢詩漢文を読み解く必要から本草学にもくわしかった。

 宝暦六年(一七五六)、林助は讃岐から出てきたばかりの平賀源内と出会った。くしくも四国三十三霊場の巡礼は、林助亡母の宿願だった。その讃岐出身の奇才と田村藍水のもとに身を寄せることになったのである。

 源内も、主家を辞し世俗の価値の一切を捨てた林助の孤高ぶりに強く励まされるところがあったらしく、年下の林助を本人がいない時にも必ず「さん」付けにし、呼び捨てにしたことがなかった。源内の卓越した戯作の才を最初に見抜いたのは川名林助だった。のちに源内が戯作者として文名を轟かせることになる『ふうりゅうどうけんでん』の序文を書いたどっ山人さんじんが林助であり、また前後して上梓された『根南志具佐ねなしぐさ』に序を寄せた黒塚くろづかしょなる不詳の人物も、読む人が読めば同一人であるのがわかるだろう。林助には、おのれの名を上げることなど何の価値もなかった。

 懐之が源内のことを耳にしたのも林助からだった。林助は源内を「炮烙ほうろく火矢びや(爆裂弾)のごとき男」と評した。

 林助は亡き母と四国三十三霊場を巡る日を期して、藍水宅から赤塚の松月院(曹洞宗) に居を移した。以後はこの赤塚の名刹に寓居しながら独り遠国各地を巡り、詩作する日々を送った。

         かさのやま 

      悲風揺落旧都秋

         〈吹きつける風が心に傷みを覚えさせる古都の秋〉

      永夜凄々独倚楼

         〈寒々とした長夜に独り高楼へ登ってみると〉

      三蓋山辺千古月

         〈思いがけず三笠山から月が昇り太古のまま光を放ちはじめた〉

      独余海外使臣愁

         〈唐土に遣わされ三笠山から昇る月を眺めていた仲麿の、はるかな孤愁がわが身に迫った〉

 林助が旅先の古都奈良で詠んだ詩である。奈良の昔、シナに渡り長安で唐朝に仕えたべのなかが、「あまの原  ふりさけ見れば  春日なる三笠山に  でし月かも」と詠んだのをふまえ、林助も三笠山から昇る普遍の月と思いがけず直面し、長安で同じく三笠山から昇る月を眺めていた仲麻呂の孤独を時空を超えて覚えたにちがいない。仲麻呂の歌は、世俗では「かつて故郷で見た月と同じだ」と解釈されているが、仲麻呂は長安の地に身を置きながら実は三笠山から昇る月が輝き出したのを眺めていたのだ。

第三章 四節

 江戸に出てきた源内が寄宿したのは湯島の聖堂だった。源内のしょうへいこう入学の世話をしたのは、高松藩お抱えの儒学者中村彦三郎なかむらひこさぶろうだった。年少時に源内が故郷で薫陶を受けたきく黄山こうざんから中村彦三郎へ依頼があったものと思われる。高松藩の江戸中屋敷は小石川の水道橋にあり、湯島の聖堂まで神田川沿いに歩いてわずかの場所にあった。素浪人の身では異境の地で何をやるにしろたしかな身元引き受け人が必要だった。だが、高松藩儒に江戸での保証人になってもらったことが、やがて源内に思わぬ面倒を抱えさせてしまうことになる。

 平賀国倫くにともと名乗る讃岐の素浪人は、紺屋町の田村藍水宅を訪れ、入門を願い出た。藍水が所蔵する『紅毛本草』を見るなり、「先生も、やはり『コロイトボック』をお持ちですか」と嬉しそうに語り、長崎の吉雄耕牛のところで見たと語った。

 『紅毛本草』を「オランダ本草」と言う者はいても、「Cruydt-Boeck」とオランダ語で発する者とは藍水も会ったことがなかった。吉雄耕牛を知っていた。長崎に一年いたという。そして平賀国倫はこう続けた。

 「本草家は全国各地に点在しておりますものの、それぞれが孤立して自らの狭い世界に閉じこもっていては、たんなる隠居老人の道楽と変わらず、何の益も産みません。実物をあらためることなく書物の内だけのたんなる文献学になっております。シナのとうぎょく(李時珍)も、本邦の益軒先生も、民の暮らしに活かすため本草学を志し書物を著しました。ところが、人参をはじめ高価な薬を服用でき養生できるのは、内外を問わず相応の財を備えた者だけです。御公儀(幕府)も諸大名も農民の年貢頼みゆえに村々は疲弊し、年若くして世を去る者が後を絶ちません。藍水先生をはじめとしまして方々の御尽力により甘蔗かんしょ(サトウキビ)と人参は、本邦での栽培が実現しました。いまだ異国からの船に頼っている薬種の数々を本邦で発見し、あるいは栽培すれば、金銀や銅が国外に際限なく流れ出ることも減り、国益に寄与することができます。場合によってはシナ船やオランダ東インド会社に売りつけることも可能となります。日本国全体が富めば、生涯をまっとうできず世を去る者も少くなるはずです。文献に出てくる物類の名を知っているだけでは、たんなる道楽、何の意味も価値もありません。本草学を活きた学問に変える必要があります。そのためには、各地の本草家に呼びかけ、それぞれが秘蔵している薬種を持ち寄り、一堂に会して何が国内で調達でき、何ができないのかを確かめあう場を設けなくてはなりません。まずはやくぶつを開くことです。藍水先生のお力と名声をもってすれば、必ずや賛同してくれる者が集まってくるはずです」源内はそう力説した。

 藍水は、讃岐から出てきた素浪人の構想に深くうなずけるものがあった。藍水は朝鮮人参の国内生産を可能にしたことが確たる自信となっていた。考えたり思うだけでは何も実現しない。やってみなくては何もわからない。踏み出さなくてはならない。まったくそのとおりだった。

 宝暦七年(一七五七)七月、江戸湯島で本邦初の薬品会が田村藍水の主催によって開かれた。薬品会は、一般に公開されることはなく、出品者と招待を受けた者に限り入場できる形をとった。実物を見なくては薬物鑑定ができるはずがない。この時、藍水の呼びかけに応じて参加した本草家は二十一人、江戸近辺の居住者からなっていた。幕府医の藤本立泉りっせんら四人も、手持ちの黄連おうれんなどの薬種を出品し、松阪屋、芸花屋、海老屋など江戸の薬種商も、薬種ばかりか会場を盛り上げるための松や花盛りの鳳仙花(ほうせんか)などを提供した。総計百八十種類の物類が展示された。

 二十一人の出品者のなかに小浜藩抱えの医者中川なかがわじゅんていと名乗る若者がいた。まだ十九歳で江戸生まれの若き藩医は、海金かいきんなどの三種を出品した。のちにまえりょうたくすぎ玄白げんぱくと『解体新書』邦訳の結社に加わる中川じゅんあんである。初回の薬品会は、源内に中川淳庵と出会う好機をもたらした。

 会主となった藍水は百種の物類を出品した。朝鮮人参はもとより甲州産の甘草かんぞう、琉球産のぶくりょう美作みまさか産のおうさいなどの薬種ばかりか、おそらく源内の勧めによるものだろう、おう、金鉱石、銀鉱石、鉄鉱石、磁石、じゃくの尾羽根や椰子やしの木までを陳列披露した。それらの珍奇な出品物は、医学、薬学としての本草学にとどまらず、物産学ひいては博物学への拡張を意味していた。

 そのものは小規模の薬品会だったが、それぞれが持ち寄った品を交換したり、薬種を発見した場所を知らせたりして盛況のうちに幕を閉じた。各地の著名な本草家が招待され、大坂の戸田きょくざんらに大いなる刺激を与え、大坂でも薬品会が催される動きにつながった。学術文化といえば、上方の京都と大坂が中心であり、江戸ではすべて京坂の二番煎じにすぎなかったものが、平賀国倫という「炮烙火矢」の発案者によって反転攻勢を開始した。

 幕府の殖産興業策に歩調をあわせ、諸大名も本草学、物産学に熱を入れ、それぞれが本草学者を雇い実績を競うような時代となっていた。なかでも薩摩の島津重豪しげひで、熊本の細川重賢しげかた、富山の前田利保としやすが有名で、それぞれ薬園を設け、薬種の発見と栽培に熱中していた。

 高松藩主松平頼恭よりたかも同様で、寛延元年(一七四八)頃にはいわやまの薬園を広大な栗林に移し、江戸は目黒の下屋敷にも薬園を作るという熱の入れようだった。高松藩主の参勤交代は、前年六月に高松へ帰り、当年五月に江戸上府することに定められていた。江戸に在府していた松平頼恭が、田村藍水による湯島の薬品会の話題に耳をそばだてた。本邦初の薬品会は、藍水の門人で平賀国倫と名乗る者の発案であり、その平賀国倫が実は三年前の夏まで志度の蔵番を勤めていた讃岐出の者だという。平賀国倫が上府し、中村彦三郎の口ききで昌平黌に入学して湯島聖堂の寄宿舎で暮らしていることも耳に入った。松平頼恭は、その平賀なにがしをすぐさま小石川の中屋敷へ呼び寄せるよう江戸家老に命じた。 

(続く)