恥ずかしい時、悔しい時、モヤモヤする時……思わずネガティブな気持ちになったときこそ、読書で心をやすらげてみませんか? あの人・この人に聞いてみた、落ち込んだ時のためのブックガイド・エッセイです。
第23回:もう祈るほかない!という気分の時
案内人 青波杏さん
2023年10月16日
大西洋の沖合700キロ、近くには大陸はもちろん小島すらない状況で、夜中にヨットが大破して命からがら脱出する。残ったのはゴムボートに積まれていたわずかな量の水と、緊急バッグの中の太陽熱蒸留器やナイフ等の最低限の装備だけ。そんなん、もうどうにもならんやん、とピンチにはめっぽう強い、じゃりン子チエちゃんでもいいそうな絶望的な地点から、『大西洋漂流76日間』の漂流記録ははじまる。きわめて小説的なシチュエーションだが、実話である。
壊れてしまった銛にナイフを結びつけ、シイラやモンガラを突き刺し、血液や目玉から栄養をとり、ついでに干し肉までつくる。サバイバルマニュアルとしても圧倒的におもしろいが、本書の一番の魅力は、見たこともないような情景が描かれていることである。ボートの薄いゴムの層の下に深海が広がり、空には沈みゆく赤い太陽があって、そんな夕闇のなかをシイラが弧を描いて跳ねる。生のぎりぎりの地点からながめる世界には残酷なほど剥き出しの美しさがある。最終的に書き手のスティーヴン・キャラハンは、76日間の漂流の末、カリブ海の小島の沖で漁師に発見され、生還した。
*
生きているとどうしても、もう祈るほかない! というくらい絶望的な状況にでくわすことがある。そんなとき、この本を鞄に忍ばせておくだけで、ずいぶん心持ちがちがう。実際、わたしは大学非正規雇用の下で雇用止めや研究の中断といった困難にぶつかるたびに何度もこの本に手を伸ばした。
祈るほかない状況、ということでは、『辺獄のシュヴェスタ』もすばらしい強度のある漫画作品だ。文字数の関係であまり書けないのが残念だが、中世の魔女裁判で育ての親を奪われた少女エラ・コルヴィッツが、修道院を舞台に繰り広げる復讐劇である。この修道院が規則違反の少女の手を切り落としたり、拷問して殺してしまったりともう信じられないくらい苛烈な環境なのだが、エラたちも負けてはいない。食事に幻覚作用のある薬が入っていると看破するやいなやトイレで吐き、夜な夜な寄宿舎を抜け出して森で食料を集める。壮絶なサバイバルという点ではキャラハンの本とも重なるところがあるが、この作品で輝くのはエラの強烈な個性と、なによりも少女たちのシスターフッドである。監視の目が届かない古井戸の底で、言葉を交わしながら希望をつないでいく少女たちの姿に心打たれる。絶望的な状況でも、いい仲間がいれば、なんとかなるかもしれない、と思わせてくれる作品だ。
プロフィール
-
青波 杏 (あおなみ・あん)
1976年東京都国立市出身。近代の遊廓の女性たちによる労働問題を専門とする女性史研究家。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。2022年、「楊花の歌」(「亜熱帯はたそがれて――廈門、コロニアル幻夢譚」を改題)で第35回小説すばる新人賞を受賞。
関連書籍
新着コンテンツ
-
お知らせ2024年05月02日お知らせ2024年05月02日
すばる6月号、好評発売中です!
村田沙耶香さんの「世界99」が堂々完結。最新刊『グリフィスの傷』刊行記念の千早茜さんと石内都さんの対談も注目!
-
インタビュー・対談2024年05月01日インタビュー・対談2024年05月01日
千早茜×石内都「傷痕の奥に見えるもの」
千早茜さんが今作の着想源にしたのは、世界的写真家の石内都さんの傷痕をテーマにした作品群。お二人にとっての書くこと、撮ることとは。
-
インタビュー・対談2024年04月26日インタビュー・対談2024年04月26日
千早茜「十人十色の「傷痕」を描いた物語」
短篇ならではの切れ味を持った十篇、それぞれにこめた思いとは。
-
インタビュー・対談2024年04月26日インタビュー・対談2024年04月26日
小路幸也「愛って何だろうね。何歳になってもわからないよ」
大人気シリーズの『東京バンドワゴン』も第十九弾。今回のテーマ「LOVE」を、ホームドラマでどう料理するか。その苦心と覚悟とは。
-
新刊案内2024年04月26日新刊案内2024年04月26日
キャント・バイ・ミー・ラブ 東京バンドワゴン
小路幸也
愛を歌って生きていく。いつにも増して「LOVE」にあふれた大人気シリーズ第19弾!
-
新刊案内2024年04月26日新刊案内2024年04月26日
グリフィスの傷
千早茜
からだは傷みを忘れない――「傷」をめぐる10の物語を通して「癒える」とは何かを問いかける、切々とした疼きとふくよかな余韻に満ちた短編小説集。