インタビュー

井上荒野

井上荒野「人はみな、物語になりたがる」

書評

推したい気持ちのゆくはてを容赦なく描き出す夫婦小説

瀧井朝世

 井上荒野の新作小説のキーパーソンは、霧谷ビョルン永劫である。聖ユニコーン学園の生徒で、金髪を三つ編みにした物静かな少年だ。彼にはヨーヨーバトラーとしての顔があって―と書けば、なんのこっちゃとか、著者名間違ってないか、などと思われそうだが事実である。ビョルンとは作中内の2・5次元ミュージカルのキャラクターの名前だ。夫婦の心理小説ともいえる『アクリル』は、ビョルンに熱をあげる妻を持つ、夫が視点人物。つまり、推し活する人を推している人の日常と、その複雑な心の動きをとことん追求していく作品で、これがもう、思いもよらないところまでぶっ飛んでいく。「やりすぎだけど、気持ちは分からなくはない」という人もいれば、「もはやホラーとしか思えない」という人もいるのでは。
 東京・三鷹にある小さな広告代理店で働く岡田卓郎は、仕事を通じて知り合ったフリーライターの美幸と三十三歳で結婚。一年後に妊活のためクリニックで検査を受けたところ卓郎の無精子症が判明し、夫婦は話し合った末に、子供がいない人生を選んだ。
 美幸は結婚前から美少年たちがヨーヨーでバトルを繰り広げる「YO!YO!学園」のキャラクター、霧谷ビョルン永劫にはまっている。子供を持たないと決めてから、彼女の推し活は加速していく。彼女は購入したビョルンのアクリルスタンドを家の中だけでなく、仕事先や旅先にもともなっていく。ビョルン役の俳優の好みのタイプだからと髪型をベリーショートにし、大量のグッズを買い込み、イベントに参加するために仕事をすっぽかす。その行動に呆れたり、ビョルンではなく彼を演じる俳優が好きなのではないかと嫉妬したり、自分よりビョルンへのクリスマスプレゼントのほうが手が込んでいると落胆したり、卓郎も感情を振り回されて忙しい。しかし妻に「ビョルンはね、私の子供なんだよ」「子供がいたら私が行けた場所。それがビョルンなの」と涙目で言われると、卓郎はもう何も言えない。いつしか彼は、妻の推し活を心から応援するようになる。
 しかし、最初は妻の推し活に引いていた夫が、次第に理解を深めて彼女を後押ししていく……なんて優しく心温まる話ではない。そんな話を井上荒野が書くわけがない。
 2・5次元ミュージカルのキャラクター好きといっても、キャラクターが好きなのか演じている俳優が好きなのか、リアルで恋をしているのかそうではないのか、同担拒否かそうではないのかなど、推し活の姿勢は人それぞれだろう。そして、推し活人のパートナーの心理も、じつに千差万別なのであろうと、夫婦の様子から改めて気づかされる作品である。
 卓郎の心理はなかなか複雑で、〈美幸に推されているビョルンにではなくビョルンを推している美幸に「嫉妬する」という心理は、僕にも覚えがあった〉などと、なかなか思い至らなかった感情について言及されて興味深い。が、この男の行動の起点には、「(他の人たちよりも)幸せな夫婦でありたい」という願望の気配がある。自分の愛情や幸福感をつねに確認している様子なのだ。だからこそ、夫婦の幸せを守るために、卓郎は美幸の推し活を受け入れ、後押しするのも納得だ。しかし妻の行動は少しずつ常軌を逸していく。卓郎にとってはハードルを一つ越えたらまた一段高いハードルが現れるといった展開で、彼の努力はなんだか涙ぐましくもある(SNSに女性名のアカウントを作ったところは爆笑した)。
 卓郎の心模様には、両親の状況も影響しているだろう。父親の末期がんが判明すると母親は「離婚したい」と言って家を出ていった。実はずっと父のことが嫌だったのだという。その後、母は保護猫活動を始め、一方、入院している父の元にはメル友だという五十代くらいの女性が訪ねてくる。父を見つめる女性の背中を見て、卓郎はアクスタみたいだな、と思う。〈父もアクスタを持っていたんだ〉と。
 父のメル友、母の猫、妻のビョルンのアクスタ。それらは、自分を見守ってくれるもの、心の拠り所となるものなのだろう。〈みんな、ひみつを持っている。行きたい場所がある。僕のひみつはなんだろう。僕が行きたい場所はどこだろう〉と思う卓郎だが、いや君のアクスタは美幸で、行きたい場所は二人の居場所だろう、と思わずにはいられない。しごく冷静な顔をしながら、美幸の暴走にともない、彼もまた彼女と彼女の推し活への応援を暴走させていくのだから。彼ら夫婦はどこまで突き進むのか。
 誰しもの心の底にある欲望や願望を起点にして、人間心理の異様な動きを徹底的に追いかけ、圧倒させる一作。いつも思うけれど、作家としての井上荒野の容赦のなさ、大好物だ。

「小説すばる」2026年8月号転載