【書評】 敷かれたレールをぶっ壊す勇気はなくても

評者・藤田香織(書評家、エッセイスト)

 

 たとえば。やおら突然、誰かに「何のために生きているのですか?」と問われたら、あなたはどう応じるだろうか。
 叶えたい夢がある。やりがいのある仕事がある。守りたい家族がいる。そんなふうに明確な答えを持っている人は、果たして今の世の中にどれくらいの割合で存在しているのだろう。
 本書の主人公のひとりであるサチ(久遠幸)は、作中でこう口にする。「毎日、同じような日が来て、毎日同じようなことをして、それって私、生きてる意味あるのかなって思っちゃって。明日もまた同じ世界にいるなら、いっそのこと、もう死んじゃってもいいんじゃないかって」。
 どうしようもない絶望を抱え「死にたい」わけじゃない。でも「生きている意味」がわからない。この気持ちを「わかる」と思う人は、実は案外、多いのではないだろうか。
 物語は、サチがある朝、自宅のリビングで見知らぬ男と出会う場面から始まる。単なる習慣で発した「おはよう」の言葉に、思いがけず返ってきた聞きなれぬ声の「おはよう」。恐る恐る「どちら様でしょうか?」と聞けばワタル(伊達恒)と名乗った男は「そもそも」「ここはどこなんだろう」と問い返してきた。
 となると、記憶喪失かタイムスリップかと想像しがちだが、読み進めていくとそうした展開ではないことが判ってくる。サチが両親と暮らす都心のタワーマンションの自宅と、ワタルがひとり暮らしをしていた築二十五年、家賃六万五千円のアパートの部屋が、突然融合してしまったという謎の状況。外へ出てみればふたり以外の人影はまったく見あたらない。街の様子もめちゃくちゃに変わっていた。住宅地のなかにいきなり高層ビルが生えている。とはいえ、隕石が落ちてきたとか爆撃を受けて崩壊したという雰囲気でもない。この状況は一体、どういうことなのか─―。
 時空が歪んだ明らかに異常な世界に置かれたふたりの様子を〈狭間の世界〉として描きながら、合間にサチとワタルがそこへ至るまでの状況が、周囲の人々の視点によって語られていく。美容師をしているワタルの顧客、長患いで働けない夫を介護しながら働く母親、行きつけの焼き鳥屋の主人、勤務しているヘアサロンのオーナー。サチがコネ入社であることを知っている勤務先の先輩、過干渉な専業主婦の母親、お嬢様学校時代からの親友、勤務先の女性上司。やがて、ふたりを繋ぐ人物も現れ、少しずつ〈狭間の世界〉に至った経緯が見えてくる。
 そうした周囲の人物の証言から明らかになるのは、ふたりが生きてきた足跡だ。生活に困窮している実家のために仕送りを続け、人も羨む天性の才能をもつ上に厭わぬ努力を重ねトップスタイリストへと駆け上がったワタル。何不自由なく育ち、父親が顧問弁護士を務める一流企業に入社し、与えられること、保護されることにジレンマを感じながらも動けずにいるサチ。それぞれが置かれた環境は、まったく異なるにもかかわらず、ふたりは共に自分は敷かれたレールの上を走っている、と感じていた。
 でも、だけど。〈狭間の世界〉には、ふたりしかいない。判断や決断に口を出してくる者はいない。〈この世界には、こうすればいいよとレールを敷いてくれる人なんか誰もいない。俺もサチも、最初から正解なんかない問題の答えを、自分たちで出さなければならなかった〉。
 詳細は控えるが、〈狭間の世界〉は「生」と「死」の狭間であり、ふたりがつきつけられる「問題」もまた、「生」と「死」に直結する。
 自分は何のために生きるのか。生きることには、どんな意味があるというのか。重いテーマの物語だ。「残酷な話」だ。周囲の人々が語るサチとワタルの姿も、立場が違えば見えているものも異なり、やるせなさや切なさや虚しさが、幾度となくこみあげてくる。
 けれど、まるで息つぎを促すように、著者ならではのフッと読者の頬を緩ます表現が随所にあり、そのたびに、沈みかけていた気持ちが浮上するのだ。デビュー作『名も無き世界のエンドロール』から変わらぬこの文章のリズムは、行成薫の大きな特長だとつくづく思う。
「生きてると、面倒なこともあるけどよ。腹さえ膨れれば、頭が動く。頭が動けば、体も動く」「人生には、レールなんてないんだからな」「俺は、命が平等だとは思わない派」ぐっとくる言葉はやっぱり数えきれない。鶏ガラスープのチキンカレー。美人管理人と美人女医。魅惑の〈カロリー高い! 味濃い! 量多い!〉。何気ない表現にニヤニヤしてしまう。そして幾重の意味をもつ「明日、世界がこのままだったら」。巧いなぁ。
 私は、こんな小説を読むために、生きているのかもしれない。