
内容紹介
その女は愛する男を殺し、陰部を切り取り逃亡した――
脚本家の吉弥は、少年時代に昭和の猟奇殺人として知られる「阿部定事件」に遭遇。
以来、ゆえあって定の関係者を探し出し、証言を集め続けてきた。
定の幼なじみ、初めての男、遊郭に売った女衒、更生を促した学校長、被害者の妻、そして、事件から三十数年が経ち、小料理屋の女将となっていた阿部定自身……。
それぞれの証言が交錯する果てに、定の胸に宿る“真実”が溢れだす。
性愛の極致を、人間の業を、圧倒的な筆力で描き出す比類なき評伝小説。
作家デビュー三十周年記念大作!
プロフィール
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村山 由佳 (むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒。会社勤務などを経て作家デビュー。1993年『天使の卵――エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞、2003年『星々の舟』で直木賞、2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞、2021年『風よ あらしよ』で吉川英治文学賞を受賞。エッセイ『命とられるわけじゃない』『記憶の歳時記』、小説『二人キリ』『PRIZEープライズー』など著書多数。
インタビュー
書評
阿部定の続きゆく人生に 想いを馳せて
三宅香帆
評伝小説の面白さは、その作者だけが描き出すことのできる生き様にある。たとえ歴史的に有名な人物について綴っていたとしても、どんなふうにその人を見つめるのか、その視線によって見え方はまったく異なるものになる。それはたとえば、同じ人物と接していても、人によって抱く印象や評価が異なるように――評伝小説もまた、「人間は多面的で、どんなふうにその人を見るかによって印象や評価は異なる」という真実を炙り出す。
1936年、昭和初期に料理屋の主人の愛人となり、駆け落ちしている最中に、彼を殺しそして局部を切り取って持ち去ってしまった女性。あまりに有名な「阿部定事件」は幾多の映画や舞台や小説の題材になり、そのたび人々は問いかけた。彼女の本当の望みは何だったのか? そんな猟奇的な行為に及ぶくらい、狂気を抱いてしまった阿部定とは何者なのか? 2023年にデビュー30周年を迎えた村山由佳が、阿部定を通して描き尽くしたもの。それは彼女の純粋で限りない、欲望の、果てにあるものだった。
物語は、阿部定について調査を続ける脚本家・吉弥から始まる。関わっている監督が金子文子のことを映画化する予定だったのに、思いがけず阿部定の人生を映画化する企画に変わってしまったのだ。実は吉弥は昔から阿部定に興味を持ち、さまざまな人から話を聞いていた。阿部定がはじめて一夜を共にした男性、阿部定の幼馴染や女中仲間、彼女を遊郭に売った男性……。そしてなんと六十歳を過ぎた阿部定は、ある小料理屋で女将をしていた。阿部定本人と対峙した吉弥は、彼女自身の言葉を聞き出すことになる。
村山が女性の評伝を綴ったのは今回がはじめてではない。阿部定と同時代の女性である、婦人解放運動家の伊藤野枝の評伝『風よ あらしよ』を2020年に刊行している。伊藤は明治~大正時代のフェミニストとして知られているが、村山の評伝は、伊藤の欲望に焦点を当て彼女の人生を描いていた。そして今回の阿部定の評伝もまた、村山が切り取ったのは、阿部定という女性の欲望そのものだったのだ。
本書で描かれることなのだが、実は阿部定は、お嬢様として蝶よ花よと育てられた少女だった。そう、彼女は決して貧しい生まれから娼婦になったわけではないのだ。子どものころは愛され大切にされていた過去がある。しかし十五歳のときに男性に強姦された経験が彼女を変えてしまう。以来さまざまな男性と遊ぶようになり、芸妓、そして娼妓になるにまで至る。ひとりの男性に強姦された経験が、彼女の人生に影を落としているのだ。さらに大人の女性になるにつれ、娼婦や愛人という立場になり、男性たちは彼女の身体しか見なくなる。彼らは決して彼女の精神性には興味を持たない。それはどれほどの絶望だったのか、と本書は語る。
あのプライドの高いお定さんが、そういう人生を、というかそういうふうにしか生きられない自分を、どうやって納得させてきたのか――俺はさ、そのへんに興味があるんだよ
(村山由佳『二人キリ』)
阿部定は、殺害した男性を愛していた。愛するがあまり、殺害してしまった。しかし彼を愛する欲望の根底には、彼女を「人間として見ることがない」男性に囲まれて生きるしかなかった――そのことへの絶望が横たわっている。
たしかに私たち人間が他人を愛するとき、どこかで自分の欠落が影響していることは多い。たとえば人はコンプレックスを恋人に投影したり、あるいは寂しさが愛情に繋がったり、苦しみが優しさに反転したりするものだ。だからこそ阿部定のように強烈に誰かを愛する人生の奥底には、それだけ誰かを愛さざるを得なかった、強烈な欠落があるのではないか。そう本書は問いかける。
面白いのが、事件について語る、歳をとった阿部定本人が登場することだ。人を殺しても、愛する人を喪っても、誹謗中傷を週刊誌に書き立てられても、それでも人生は続く。六十歳を過ぎた阿部定はいったい自分の人生を、どう受け入れているのか。村山は本人に言葉を語らせる。そこには阿部定をただの猟奇殺人犯にしない、あるいは男性たちにとって都合の良い面白おかしい存在で終わらせない、という村山の覚悟が覗き見える。
殺したいほどに他人を愛したその欲望の先にある彼女の人生。そこにあるのは、私たちは結局、自分の人生の欠落を抱えて生きていくしかない、という丸裸の真実である。身もふたもないが、それでも本当にそうなんだろうなと思うしかない説得力がこの評伝には、ある。
阿部定という女性はとかく誤解されやすい。しかし評伝を通して、村山は彼女の生身の欲望に息を吹き込む。阿部定の欲望は、私たちの人生の身もふたもない真実を浮き彫りにする。だが、だからこそ小説は面白い。評伝小説の生々しい面白さに満ちた、傑作である。
「小説すばる」2024年2月号転載
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