

内容紹介
小原晩、カツセマサヒコ推薦!!
恋ではない。友情ではない。
ふたりの関係の、呼び方を教えて。
学生の頃、彼女とはよく大学の付属植物園で過ごした。花の名前もよく知らないのに。
ある日彼女は、園内の礼拝堂の前で突然、耳鳴りがすると言った。
昨日、眠れなくて、宇宙の動画を見ていた時からずっと耳鳴りがする。
宇宙で鳴っている音を想像してからずっと、と――「植物園にて」
新幹線で出会った女性と偶然にも温泉街で再会した私は、
彼女に導かれて、古びたリゾートマンションの屋上から花火を眺めていた。
30分足らずで終わった花火の後、彼女は先に部屋に行っていると言い残して、
屋上から去ったが――「筏までの距離」
デビュー作で芥川賞候補に挙がった著者が贈る、
書き下ろし2篇を含む、わたしとあなたの8つの物語。
プロフィール
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水原 涼 (みずはら・りょう)
1989年兵庫県生まれ、鳥取県育ち。北海道大学文学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。2011年に「甘露」で第112回文學界新人賞を受賞しデビュー。同作が第145回芥川龍之介賞候補作になる。著書に『蹴爪(ボラン)』『恋愛以外のすべての愛で』『震える虹彩』(安田和弘との共著)がある。
エッセイ
朝のあと
水原 涼
ラブホテルの個室のソファに男女が並んで座っている。部屋はうす暗いが、オレンジの間接照明で二人の表情は明瞭だ。女性が煙草を吸っている。副流煙を身体に行き渡らせて、男性が、一本もらっていい、と訊く。うん、と女性が頷き、彼はローテーブルから彼女の煙草とライターを取って火をつける。女性は、二人にとって使いやすい場所に灰皿を移動させた。一本ずつをゆっくりと吸う。ときおり身を乗り出して灰を落とす。隣の身体が動くのを、互いに覗き見るように目を向けるが、その視線が絡まることはない。会話もない、たぶん。少なくとも二人の口は、煙草をくわえ、離し、煙を吐く以外の動きをすることはない。煙草が灰になっていく音も、二人の衣ずれも呼吸も聞こえない。大音量でテーマソングが流れているからだ。それなのに、静かだ、と思う。やがて女性は何かを諦めたようにソファの背にもたれ、天井を見上げる。そこで場面は一旦終わり、夜が明ける。
今泉力哉が監督した短篇映画「冬の朝」が公開されたのは二〇二五年三月のことだった。私は下旬になってからYouTubeで観た。すでに春になっていて、私は、ちょっと前までのひどい寒さのことを、朝の雨の冷たさのことを思い出しながら、濡れて光る夜道を歩く三人を観ていた。昼食時だった。朝から自分の短篇集のゲラを読んでいたし、映画が終わったあとも、夜日記を書くときのために感想をメモしたあとはまた仕事に戻った。その間、二人の夜に響いていたテーマソングが、ずっと頭のなかで流れていた。ズーカラデルの「友達のうた」という曲だ。
朝が来たら私たち 離れ離れになっちゃうね
それはそれでも良いけれど 忘れてしまうのも良いけれど
演奏をともなわずに歌い出されるこのフレーズは、曲のなかで何度か繰り返される。傘を差して夜明けの道を歩き、男性はビルの谷間の公園に入る。ふと佇み、振り返る。誰かが追ってくるのを待っているようでもあるし、このあとどこへ向かえばいいのか決めあぐねているようでもある。やがて諦めたようにカメラに背を向け、ゆっくりと歩み去っていく。
自分が書いた、かつて親密だった人との記憶がふとした瞬間に否応なく蘇る、その避けられなさについての文章を読みながら、私が考えていたのは自作ではなく「冬の朝」のことだった。恋人ではなく、しかし互いに向ける視線は単なる友人とは異なった温度を持っている、冬の夜が明ければ離ればなれになる二人のこと。一本の煙草を二人で同時にくわえることはできない。人と人が隣り合い、同じ時間を共有している、それゆえの孤独。彼らはそもそもただ、人生のなかのほんの数年、あとから振り返れば一瞬のような時間を隣で過ごしただけで、歌詞の続きにあるように、〈薄暗い部屋で 偶然居合わせた一匹と一匹〉に過ぎなかった。そのときすでに私は『筏までの距離』という標題をもつ本におさめられた八篇を書き終えていた。それでもなぜか、語句を置きかえたり読点を移動させたりしながら、これを――あの夜明けの公園の広々とした寒さを書こうとしたのだ、と考えていた。
冬の夜の煙草の時間を極点として、二人の距離がこれ以上に近づくことはもはやないのだろう。すでに遠く離れたあとでは、未練がましく振り向くこともあるだろうが、歩き続ける以外にやりようがない。
遠のいてしまった誰かとの記憶は、浜辺に書いた文字のように、指で書いたときはたしかな手ざわりをともなっているのに、波に洗われるたびに曖昧にぼやけ、やがて消えていく。名残惜しく砂を撫でても、指先はざらざらした感触をしか拾わない。それでも、砂の上にはたしかに文字が存在していた。すでに消え果てた八つの文字を辿るようにして、八篇の小説を書いた。各短篇の間に一見つながりはないが、最初に「植物園にて」を書いたとき、同じテーマでほかにいくつか書けることがある、という予感があった。一篇同士が響き合うよう、書き出しと、いくつかのモチーフ─解約した電話番号、うす汚れたうさぎのぬいぐるみ、遠い筏─だけ決めて、その周りをぐるぐる歩くように書く。書くことがなくなったところで手を止める。そうすると三十から七十枚の短篇になり、それが八篇重なった。
書き終えた今読み返すと、八篇の主人公たちはいずれも、決定的な事態を回避しようとしているように見える。彼らはただ、人と会い、そう多くない言葉を交わして、別れ、遠ざかる背中を見送るばかりだ。過去に経験した破局が彼ら自身の現在に、そして未来にまで長い影を投げかけているのかもしれない。人は自分からだけは離れることができないのだから、時とともに淡くはなっても消えることのないその影を踏みながら過ごすのだろう。
「青春と読書」2025年7月号転載
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筏までの距離
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