エッセイ

朝のあと

水原 涼

 ラブホテルの個室のソファに男女が並んで座っている。部屋はうす暗いが、オレンジの間接照明で二人の表情は明瞭だ。女性が煙草を吸っている。副流煙を身体に行き渡らせて、男性が、一本もらっていい、と訊く。うん、と女性が頷き、彼はローテーブルから彼女の煙草とライターを取って火をつける。女性は、二人にとって使いやすい場所に灰皿を移動させた。一本ずつをゆっくりと吸う。ときおり身を乗り出して灰を落とす。隣の身体が動くのを、互いに覗き見るように目を向けるが、その視線が絡まることはない。会話もない、たぶん。少なくとも二人の口は、煙草をくわえ、離し、煙を吐く以外の動きをすることはない。煙草が灰になっていく音も、二人の衣ずれも呼吸も聞こえない。大音量でテーマソングが流れているからだ。それなのに、静かだ、と思う。やがて女性は何かを諦めたようにソファの背にもたれ、天井を見上げる。そこで場面は一旦終わり、夜が明ける。

 いまいずみりきが監督した短篇映画「冬の朝」が公開されたのは二〇二五年三月のことだった。私は下旬になってからYouTubeで観た。すでに春になっていて、私は、ちょっと前までのひどい寒さのことを、朝の雨の冷たさのことを思い出しながら、濡れて光る夜道を歩く三人を観ていた。昼食時だった。朝から自分の短篇集のゲラを読んでいたし、映画が終わったあとも、夜日記を書くときのために感想をメモしたあとはまた仕事に戻った。その間、二人の夜に響いていたテーマソングが、ずっと頭のなかで流れていた。ズーカラデルの「友達のうた」という曲だ。

 朝が来たら私たち 離れ離れになっちゃうね
 それはそれでも良いけれど 忘れてしまうのも良いけれど

 演奏をともなわずに歌い出されるこのフレーズは、曲のなかで何度か繰り返される。傘を差して夜明けの道を歩き、男性はビルの谷間の公園に入る。ふと佇み、振り返る。誰かが追ってくるのを待っているようでもあるし、このあとどこへ向かえばいいのか決めあぐねているようでもある。やがて諦めたようにカメラに背を向け、ゆっくりと歩み去っていく。

 自分が書いた、かつて親密だった人との記憶がふとした瞬間に否応なく蘇る、その避けられなさについての文章を読みながら、私が考えていたのは自作ではなく「冬の朝」のことだった。恋人ではなく、しかし互いに向ける視線は単なる友人とは異なった温度を持っている、冬の夜が明ければ離ればなれになる二人のこと。一本の煙草を二人で同時にくわえることはできない。人と人が隣り合い、同じ時間を共有している、それゆえの孤独。彼らはそもそもただ、人生のなかのほんの数年、あとから振り返れば一瞬のような時間を隣で過ごしただけで、歌詞の続きにあるように、〈薄暗い部屋で 偶然居合わせた一匹と一匹〉に過ぎなかった。そのときすでに私は『筏までの距離』という標題をもつ本におさめられた八篇を書き終えていた。それでもなぜか、語句を置きかえたり読点を移動させたりしながら、これを――あの夜明けの公園の広々とした寒さを書こうとしたのだ、と考えていた。

 冬の夜の煙草の時間を極点として、二人の距離がこれ以上に近づくことはもはやないのだろう。すでに遠く離れたあとでは、未練がましく振り向くこともあるだろうが、歩き続ける以外にやりようがない。

 遠のいてしまった誰かとの記憶は、浜辺に書いた文字のように、指で書いたときはたしかな手ざわりをともなっているのに、波に洗われるたびに曖昧にぼやけ、やがて消えていく。名残惜しく砂を撫でても、指先はざらざらした感触をしか拾わない。それでも、砂の上にはたしかに文字が存在していた。すでに消え果てた八つの文字を辿るようにして、八篇の小説を書いた。各短篇の間に一見つながりはないが、最初に「植物園にて」を書いたとき、同じテーマでほかにいくつか書けることがある、という予感があった。一篇同士が響き合うよう、書き出しと、いくつかのモチーフ─解約した電話番号、うす汚れたうさぎのぬいぐるみ、遠い筏─だけ決めて、その周りをぐるぐる歩くように書く。書くことがなくなったところで手を止める。そうすると三十から七十枚の短篇になり、それが八篇重なった。

 書き終えた今読み返すと、八篇の主人公たちはいずれも、決定的な事態を回避しようとしているように見える。彼らはただ、人と会い、そう多くない言葉を交わして、別れ、遠ざかる背中を見送るばかりだ。過去に経験した破局が彼ら自身の現在に、そして未来にまで長い影を投げかけているのかもしれない。人は自分からだけは離れることができないのだから、時とともに淡くはなっても消えることのないその影を踏みながら過ごすのだろう。

「青春と読書」2025年7月号転載

書評

小説までの距離

川崎祐

 『筏までの距離』に収められた短篇群は視点人物と彼がかつて過ごした「時間」との距離を共通して扱っている。十四年のキャリアを持つ小説家の作らしく収録された八つの短篇はそれぞれ「筋を欠いた、言葉の運びだけで読ませるタイプの小説」(「ロング・スロウ・ディスタンス」)として仕上がりに抜かりはない。とはいえ、小説が小説となるために必要な最低限の起伏(の契機)は用意されているのだが、それは主に視点人物と関わりのあった女性の存在というかたちをとる。小説によっては別れた妻だったり学生時代の恋人の妹だったりする女性たちと視点人物との関係の濃淡は当然ながら作品ごとに異なる。たとえば「回して削る」では離婚を機に仕事を辞め郷里に戻って週末だけ木工に励む三十代半ばの男性がいまだ元妻の存在に囚われている様子を意外なかたちで描いているが、表題作「筏までの距離」では小説家である「私」と取材旅行で知り合う女性との関係未満の関係が描かれている。各篇に登場する女性たちは小説が語られ始める契機をなすという意味で重要な役割を担っているが、語り出された小説において彼女らと視点人物との「関係」は語りの中心に置かれてはいない。むしろ彼女たちと過ごした時間が照射する視点人物の「現在」が徐々に浮かび上がっていく。距離を扱うとはこのような意味である。必ずしも明るいとは言い難い視点人物たちの「現在」が、それでも一種の軽快さを獲得しているようにみえるのは、しみったれた回想の罠を回避する語りの妙の手柄だろう。こうして八つの短篇は「筋を欠」きながら「読ませる」小説として成立することになるのだが、そうであるがゆえに、小説を読む私の視線はこれら起伏に乏しい短篇群を小説たらしめる小説の「構え」の方へと自然に移ろう。

 収録作の多くが小説家、あるいは、かつて小説を書いていた人物を語り手、もしくは、視点人物に据えていることに視線は落ち着く。先に引用した「ロング・スロウ・ディスタンス」では、語り手の「私」は小説家として設定されているが、同業者と付き合いのない「私」が唯一交流を持つ小説家が七市である。「私」は七市から「恋人じゃない」が親しい関係にあった女性と房総半島を歩いて一周した話を聞かされ、その話から「小説を立ち上げてほしい」と頼まれる。ここから窺えるのはこの小説が憎らしいほど巧みに小説の構造への自己言及を小説の中に織り込んでいる、ということだ。小説家である「私」が友人の小説家から彼と親しい関係にあった女性との噓のような話を聞かされそれを小説にしてほしいと頼まれた結果、小説として「いちから創作」する。くどいようだがこの小説の筋なき筋をまとめるとこうなる。ひとを食ったような話だ。要するにこの小説は「これから小説として書かれる小説を今読者は読んでいる」という構造を持つ一種のメタフィクションなのだが、刮目すべきはそれが男女の不思議な関わりから織られるよくできた短篇としても違和感なく「読ませる」ことだ。小説の構造を故意に露呈させながら、小説を読むことの快楽が否定されていない。

 この構造もまた幾つかの小説で共通している。最も顕著なのは「沙貴のこと」だろうか。この小説では文字通り「沙貴のこと」が描かれる。ふざけているのではなく事実そうなのだ。沙貴は学生時代に小説を書いていた語り手が当時付き合っていた女性の妹である。彼女は子供の頃から大切にしているぬいぐるみに沙貴と名付けていた。専門学校の卒業旅行で彼女は使い古してボロボロになった「沙貴」と同じ種類の新しいぬいぐるみを探しにイギリスに行く。語り手はその顚末を十数年後――恋人と別れて沙貴とは連絡が途絶えていた――再会した沙貴から聞かされ「沙貴のこと」を小説に書いてほしいと頼まれる。しかし肝心の沙貴の話は「小説的な展開を欠き」「何か適切な脚色を加え」る必要があった。沙貴と別れた後、彼は「ぼくなら、ぼくのような、小説に挫折した人間が視点人物の小説にする」と思う。そしてそのような小説を、「沙貴のこと」を、読者は今まさに読んでいる――『筏までの距離』はこのような「沙貴のこと」が末尾に置かれ、「ロング・スロウ・ディスタンス」が冒頭を飾っている。いわば一冊の本としてメタフィクションを自覚的に標榜しているわけだが――それゆえに――読み終えた後に色濃く感じるのはその背後にいる者の気配だ。

 その者――つまり――小説家は――と、思案しているうちに私は厄介なことになったと気づく。この短篇集がメタフィクションであるなら、私が考えようとしている「小説家」もまた虚構に包含されているように思うからだ。なんて面倒な。いい加減にしてほしい。紙幅も尽きようとしているというのに。しかし頭の中がこんがらがり思わず不満を溢しながらそれでもそれを解きほぐしていくこともまた、良質なメタフィクションを読む悦びだった。かつ『筏までの距離』はよくできた短篇集としても成立している。曲芸のようなこの事態を可能にしているのは細部を稠密に書き留め、言葉と言葉の間に溢れる光を掬いとる小説家の確かな技量だ。むろん稠密さへのこだわりはこれまでの作品にも漲ってはいた。しかしそのクロースアップは、ときとして視点人物の幼さを必要以上に際立たせることもないわけではなかった。『筏までの距離』はその感触から遠い。小説を小説にする軋みとの間に距離が生まれている。そうであるなら、「距離」をつくるものはもう男女の関係に限定される必要はない。もしそれが――やはり小説家が執拗にこだわってきた――場所との、肉親との、近しい者からの暴力との間に意識的に拵えられるなら、これから彼が書いていく小説には実りある広がりが生じていくのかもしれない。書くことと読むことの快楽を肯定し、小説家を新しい場所へと誘いうる小説集の誕生を、私はひとまず言祝ぎたい。

「すばる」2025年8月号転載