第48回 すばる文学賞受賞記念エッセイ

カフェにて

樋口六華

 金欠気味なのだが、たまにカフェに行く。実はこのエッセイもカフェで書いている。
 店で一番安いレモンティーを頼んで、できるだけ遅く吸いながら念じる。締め切り前のいつもの儀式。書くきっかけ、書くきっかけ。
 ストローをガジガジ嚙んでいるうちに浮いてきたのは、気泡と、小学生の頃の思い出だった。
 卒業間近に生徒一人一人がお互いにメッセージを書く時間があって、もらったその紙の片隅に担任からの少し大きめのコメントがあった。 「〇〇は文章を書く才能があるから、小説家になったらいいんじゃないでしょうか!」
 その時からだろうか。朧気に、作家になるかもしれないと感じていた。時間を経るにつれて、なるかもしれないは無根拠になるんだろうなに変わった。今となっては幼少期のその未来を示唆するようなコメントは、半ばあやふやな自信として背を押し、半ば呪いとしてその道以外の行く手を阻んでいたように感じられる。思えば、大した才能も持っておらず努力家でもない私と、その不治の病との二人三脚の始まりは、かの先生の一言だったのかもしれない。
 今の時点では将来に対する漠然とした不安はあるし、“普通に”生活する能力もだいぶ欠落してるし、自分の悪い部分がちらつくというよりかは、良い部分が見当たらないことに焦る毎日だ。それなのに、なぜか書いていくことだけは終わらない気がする。しばらく経っても、だらっとしながら、ふと浮いてきた何かを「ことば」で掬おうとしてる気がする。
 また「ことば」が集まってきたら、作品にしようと思う。運が良ければ三、せめて二作ほど、いいものを書けたらと。
 吸い終えたグラスの内側を、カラっとストローでかき混ぜる。レモンがへたり込むように氷に埋もれている。くたびれてきたので、ここでペンを置こうか。
 最後に一応。ちょっぴし期待しといて。

「青春と読書」2025年1月号転載

書評

絶対時間のユートピア

池田雄一

 本作は、世界そのものを意味と有用性を欠いた「廃物」として描くことによって、物語というもの全般が帯びてしまうであろう「意味の重力」を拒絶することに成功している。この重力とは、たとえば「社会人」という言葉が必然的に帯びてしまうような強制力のことである。したがって市民社会が成熟すればするほど、この重力はひとから自由を奪うことになる。
 まずは、この重力について考えてみよう。現代の規範的な価値体系ともいえる多文化主義には、自分たちにとって異質な他者を「本質的なもの」としてあつかう傾向が含まれている。他者との差異に寛容であろうとする態度は、当の他者への無関心が前提となっている。この関心のなさによって、他者はたやすく本質化される。ある場合において他者は極度に理想化され、べつの場合においては悪魔化される。こうした本質化は、多文化主義の帰結するところなのである。したがって、近年よく言われる「ルッキズム」にしても「キャンセルカルチャー」にしても、多文化主義がかかえている力学の副産物なのである。これも近年よく耳にするPC的なものに対する呪詛のような物言いは、たんなる反動としてではなく、自分たちが抱えている、なけなしのモラルが、大企業や官僚、学校、あるいはマスメディアにより量産されるスペクタクルなどに横領されていることに対する異議申し立てとしても考える必要がある。
 ではこうした状況のなかで、ひとが自由を獲得するにはどうしたらいいのか。それは、市民社会の力学により本質化され、モデル化されたこの世界の隙間に「落下」するというのが唯一の方法であると考えられる。落下、すなわち生身の人間が可能な、唯一の飛翔のことである。そして本作は、この落下することをめぐって書かれている。
 この小説は、いわゆる「トー横界隈」をモデルにしている。確認しよう。この界隈の語源となっている「新宿東宝ビル」が建っている場所には、もともと「新宿コマ劇場」が設営されていた。このコマ劇場では、美空ひばりをはじめとした演歌歌手のコンサート、各種ミュージカル、ボリショイ・バレエ団や宝塚歌劇団の公演などが演目として実施された。またこの名称は、円形の舞台がコマのように回転することに由来している。すなわち、この劇場が帯びていた祝祭、演劇性、聖性は、そのビルが設置されていた「歌舞伎町」そのものの祝祭、演劇性、聖性と地続きだったのである。こうした聖性を帯びた建築物が取り壊されることによって、意味の真空地帯が形成される。この真空地帯についた名称が「トー横」である。
 そしてこの空洞を象徴するかのように、現在の「新宿東宝ビル」には、等身大にちかい「ゴジラ」のハリボテが設置されている。それに呼応するかのように、トー横には「偽の王」が登場する。この王は、トー横にたむろする若者たちに炊き出しをしたり相談を受けるなど、ボランティア活動を継続してやがて「王」と呼ばれるようになった。ところが彼は、やがて未成年に対する淫行により逮捕される。この「王」が拘置所で野垂れ死んだという作り話を導入するところから本作は開始されるのである。
 このような意味の真空地帯であるところの「トー横」を舞台にした、この小説の解像度の高さは異様だとしか言いようのないものである。そこで描写されているオブジェクトは、一切の意味を剝ぎとられ、物語的な機能性も剝ぎ取られ、ただ無造作にそこに置かれている。そこでは「後ろ」から「前へ」と流れているはずの時間が一切停止しているかのようである。
 折れた割り箸、倒れた紙コップ、風邪薬など薬剤の包装、こうした廃物に話者が注視しているあいだ、本作の時間は神学的な時間を獲得しているようにみえる。そこでは一切の目的論的な視座が無効となっている。本作の主人公、トー横の住人である「ヒヒル」もまた、他人に体を売ることによって、廃物としての人生を歩んでいる。売春という経済活動から「崇高」と「疲労」が読みとれるのは、消費を媒介とすることによって、身体を当の廃物へと変換してしまう場合があるからである。商品は消費された瞬間にゴミへと変わるのである。
 一方で、本作で最も印象に残っているのは、主人公「ヒヒル」が、薬物の過剰摂取により、それこそ廃物のように横たわっている少女に遭遇した場面である。救助すべきか否かで逡巡するヒヒルであったが、やがて近くの店でもらった段ボールに少女を「詰める」ことになる。これは人助けなのか、死体を使った猟奇的な何かなのか、判別がつかなくなるヒヒル。段ボールからその頭部を出した方が自然なのか否かで、やはり逡巡することに。この作品において、随一ともいえるユーモラスな逸話である。この逸話が秀逸なのは、この少女をヒヒルが、なかばモノとして、なかば人間としてあつかっているからである。
 物語は、この「ヒヒル」の現在と、かつての友人「七瀬」との過去が往き来するだけである。そこには明確なストーリーラインを拒絶する意志のようなものさえ感じられる。七瀬は、父親にレイプされたことにより、やはり廃物としての人生を歩んでいた。やがて七瀬は死の観念に取り憑かれるようになる。それに引きずられるようにして、ヒヒルは七瀬と薬物による心中を試みるのだが、あいにく死んだのは七瀬だけであり、ヒヒルは生き残ってしまう。そこからヒヒルの廃物としての人生がはじまるのである。
 物語の要素だけ抜き出してみると、かつてのケータイ小説のような内容にみえるが、本作がすぐれているのは、神学的な時間、廃物としての世界、廃物としての人間が、ひとつのユートピアとして統一されている点にある。このユートピアが拒絶しているのは、人生には意味がある、歴史には目的がある、人類は進歩する、といった世界観である。そこには、歴史とはつねに勝者の物語である、とする認識が横たわっている。本作が物語だけでなく時間の流れそのものも拒絶しているように見えるのはそのためである。

「すばる」2025年3月号転載