エッセイ

火消の零れい次じと羽は生にゅう結ゆ弦づる

神尾水無子

 二〇一五年、バルセロナで開催されたフィギュアスケートグランプリファイナルに出場した羽生結弦選手(当時)を、キッチンカウンターから何となく眺めていた。
 プログラムは、かの「SEIMEI」。
 競技が始まり、彼が印いんを結ぶような動作をした瞬間、わたしはテレビの前へ滑りこんだ。
「羽生くんに何かが降りてる!」
 そうとしか言いようのない目だった。この世のものとは思えない、凄惨なほど美しい目は、単に安あ倍べの晴明せいめいとかスケートの神さまが降りたとか、そういう類たぐいではない。
(自身が持つ、世界最高得点を超えた瞬間の実況「羽生結弦が羽生結弦を超えました!」もよかった)
 登場人物のビジュアルイメージはあまり考えない。けれど、主人公の零次が火消喧嘩を繰り広げる冒頭を書き始めてすぐに「零次の目は、羽生くんの目だ」と強烈に思った。
 装画の制作にあたり、零次のビジュアルイメージについて問われた際も、迷わずそう答えた。念押しも忘れずに。
「平ピョン昌チャンじゃなくて、バルセロナです!」
 あくまで主観だが、バルセロナの時の目なのだ。ここ重要です。
 何故、羽生くんの目なのかは考えなくていいと思った。ただ、このイメージは正しいと思っていた。それだけでこの物語は書き切れる、と確信したから。
 どのみち大幅な改稿の厳命を編集者から何度もくらっていたので、目についてねちねちと考察している場合ではなかったのだが。
 物語の前半、零次が見る景色には色が一切ない。すべてがモノクロで、憎しみであり救いでもある焰ほむらだけが色を放っている。けれど零次はある光景を前に、すべての色が蘇るのを感じる。その時、零次の中に熾おこっていたものが変質する。そのシーンを書きながら、零次の目も変化しただろうか、と自分に問うていた。
 その答えは、とある登場人物のセリフにある、かも(匂わせ商法)。
 今作はまともな人があまり登場しない。とくに零次のキャラは深刻だ。常に寄り添う龍ロンも、江戸を跋ばっ扈こする薩さつ摩ま御ご用よう盗とうも、徳川慶喜とくがわよしのぶも、上方の大親分・会あい津づの小こ鉄てつも、似非にせ尼あまの永遠とわもそこはかとなくエグイ。
 幕末とは、そういう時代だ。「莫迦でかいお祭り騒ぎ」と文中に書いたが、長らく将軍が不在という異常事態の江戸は、さぞかしパンキッシュだっただろう。
 デビュー作『我が拶さつもん』は、とにかくアップテンポを心がけた。落語のあらゆる要素を駆使し、転がるように物語を紡いだつもりだ。
 今作は江戸から明治への、大きなうねりが軸にある。アップテンポより、トルク重視。
 平和裏に元号が変わった時代ではない。御公儀から薩長軍らが元号を強奪した形だ。そんな時代は、皆が競ってクレイジーにはっちゃけていないとやっていられないだろう。
 名もなき火消、名もなき素す町ちょう人にんから見た幕末を書いてみたかったことも、今作のきっかけだ。さらに絶賛推し活中の、古きよき俠客から見た幕末物語にもしたかった。
 俠客といえば、実在する新門しんもん辰たつ五ご郎ろうが、大坂城で仁義を切るシーンにかなり熱量を注いだ。何度も音読し、流暢でクラシカルで礼儀正しく、美しい仁義を目指した(このあたりは浅田次郎氏著『天切り松 闇がたり』シリーズで「げげげーん!」と大変な衝撃を受けた影響が大きい)。
 神保町の古本まつりで入手した『やくざの生活』(雄山閣)もバイブルだ。仁義の切り方はもとより、草鞋わらじを脱いだ先でのご飯のおかわりの作法や、牢屋にブチこまれた時の処世術もある(牢ろう名な主ぬしに嫌われた場合の、リンチの種類まで書かれている)。
 だが一番感心したのは、前の持ち主がことごとくに線を引いていて、書きこみも半端ないところ。何度も読みこんだ痕も生々しい。何かの図式や挿絵(?)も散見される。
 たいそう勉強家の俠客か、わたしのようなニッチな作者か。
 そんなことごとを夢想しつつ、書き始めたばかりのまだ色の薄い物語を、今はひたすら濃くしている。今作の担当編集者からいただいたお菓子をつまみながら。
 お菓子の名前は『主役』。
 クライマックスに差しかかる頃、わたしもちょっとでいいから羽生くんのそれに近い目をしていたらいいのだが。取り返しがつかないほど、自分を追いこんだ時の目の色を。
「読んだだけで火傷する!」をコンセプトに(※個人の感想です)書いた『慶応四年、江戸炎上』を、どうぞよろしくお願い申し上げます。

「青春と読書」2026年10月号転載

インタビュー

神尾水無子

神尾水無子「炎が映し出す相剋と相生」