インタビュー

書評

理系頭脳でまたも快作!

増田俊也

 またしても石田夏穂にしてやられた。『黄金比の縁』である。樹皮などに色形を似せて擬態する昆虫のようにポップな文体でライト層向けのものに似せているが、とんでもない。主人公女性の頭の中で巡らされる論はどこまでも理詰めで、複層的テクストをブルドーザーのように均してぐいぐい進む。
 石田夏穂は“日本のMIT”こと東京工業大学出身の作家である。その高偏差値から東大や京大の理系学部と較べられることが多いが、私が知るかぎり東大や京大の出身者たちより東工大出身者のほうがイッテしまっている。東大や京大にも合格する力を持ちながら、ギフト(天賦の才)が極端に理系方面だけに偏っていたため、気づいたら東工大に入ってしまっていた異形の理系頭脳集団だ。
 北海道大学柔道部の選手時代、私は東工大柔道部で練習させてもらったことがある。練習もなかなかハードだったが、もっとハードだったのはその後の部員たちとの会話であった。柔道の強化のために「ベンチプレス百キロを毎日百回一セットやってます。筋肉を甘えさせてはだめです。休息させると発達しないんです」と言う巨大な上半身の部員や「身体を大きくする唯一の方法はできるだけたくさん食べて、できるだけ小さなウンコをすることです」と真面目に言う重量級部員などがいた。真偽はともかく、彼らの論はどれも妙に説得力があった。
 この『黄金比の縁』の主人公、小野さんも理論と理屈で動いている。明言されているわけではないしサジェスチョンすらないが小野さんは難関大学で化学を専門にしていたようで、物語の舞台となる工場設計の請負会社《Kエンジニアリング》の花形部署《プロセス部尿素・アンモニアチーム》に十二年前に新卒配属され、やる気満々で化学反応の設計をしていた。それが入社二年目にどうでもいいようなことで責任をなすりつけられ、男社会による策略的不当人事で人事部に異動させられてしまった。
《私に白羽の矢が立ったのは「女性は人事部のほうが活躍できる」から。/「そっちのほうが女性ならではの視点を活かせるでしょ?」》
 サラリーマンのこういうときの選択肢は三つしかない。ひとつはそこの仕事を覚えて没頭しようとする。ひとつはいじけて適当に仕事をする。そして三つめが会社を辞めることだ。しかし小野さんはこの三つのどれも選択しなかった。採用担当として粛々と会社に復讐することを決めるのである。それこそが顔の縦と横の長さが黄金比の就活生を入社させるということだった。顔の縦横比が黄金比に近いほど、つまり美しいほど仕事ができることを彼女は発見するのである。
 仕事ができる者を採用するのがなぜ社に対する復讐になるのか。それはできる若手ほど《とっとと辞める》からである。
《私が「黄金比」としたのは、整数で完結する縦と横の比率だ。縦は髪の生え際から眉間、眉間から鼻先、鼻先から顎下が三等分であれば黄金比だ。横はこめかみから目尻、目尻から目頭、目頭から目頭、目頭から目尻、目尻からこめかみが五等分であれば黄金比だ。以上》
 何から何まで具体的で論理的で数値的でディテールに固執するのが理系である。彼女はこの黄金比の顔を持つ就活生を採用することによって、早期退社する新人を毎年大量に入社させ、会社の体力をじわじわと奪ってやろうと企む。
 このエッジの効いたストーリーだけでも読みたくなると思うが、石田夏穂は理系頭脳をキャラクター造形にまで活かし、魅力的な登場人物たちを創り上げる。主役の小野さんはもちろん、ちょっとした脇役にまで奥行きのある造形をする。デビュー間もないのにこの域に達しているのもまた石田夏穂のエビデンスに裏打ちされた技術ゆえなのではないか。たとえば彼女は脇役たちにこんな苗字を充てている。《太田》《中村》《林》《清水》《高橋》。これらごく一般的な苗字が、読者をして空想のなかで自分の好き勝手な顔をあてがわせ、結果、リアリティを高めている。
 私が石田夏穂を知ったのは昨春だ。トレーニーである私はそのころバーベルスクワットの軌道が微妙にずれて腰を痛めていた。そこでスミスマシンを使用することを考え、Amazonで技術書を探してみた。《スミスマシン 本》で検索すると、かの石井直方先生(理論派で鳴らしたボディビルダー/東京大学名誉教授)の著作と並んで『わが友、スミス』(集英社)という奇妙な小説が出てきた。興味を持ってネットで調べてみると石田夏穂という女性がこの作品ですばる文学賞佳作を受賞して作家デビューしたようである。題名にあるスミスとは男の名前ではなくスミスマシンのことで、どうやらウェイトトレーニングを始めた女性が主役のようだ。「これは買いだ」と私は石井直方先生の『筋力強化の教科書』(共著、東京大学出版会)とともに『わが友、スミス』を購入。頁を捲るや石田夏穂が緻密に構築した物語世界に引きずり込まれ驚愕した。この才能はすぐに天井をぶち破って出てくるだろう。すでに芥川賞候補にも挙がっていた。
 かつて小説家の世界は文系出身者が圧倒的多数を占めていた。しかしここ十数年、国立大学理系出身の小説家がポツポツと出てきて、それぞれが独特の光を放ち、多くの読者を獲得している。森見登美彦(京都大学農学部)、福田和代(神戸大学工学部)、石持浅海(九州大学理学部)、円城塔(東北大学理学部)、松崎有理(東北大学理学部)など。すぐに思いつくだけでもこれだけいる。この流れに石田夏穂が加わったわけだが、石田は先輩理系作家たちと少し違う味付けを持っている。それこそが冒頭に書いたジェンダーという巨大ウエーブを丸ごと飲み込むポップな文体である。今後、彼女が純文とエンタメの垣根を越えて縦横に活躍し、理系出身作家の新たな星になるのは間違いない。

「すばる」2023年8月号転載