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人生の選択における迷いと肯定

瀧井朝世

 何十年か前は、二十五歳を過ぎて独身の女性は「(売れ残った)クリスマスケーキ」にたとえられていた。その後晩婚化が進み、三十~四十代で結婚する人、出産する人は増えた。それだけ、いわゆる「結婚適齢期」「出産適齢期」の期間が延びたということでもあり、人生の決断を下す期間が広がった点で喜ばしい。だがそのぶん、独り身だったり子供がいなかったりする人々がいつまでも「結婚しないの」「子供は作らないの」と、聞かれ続ける状況も生まれている。もちろん、昨今は独身女性も子供のいない夫婦も奇異の目で見られることは少なくなったが、それでも無遠慮に「まだ諦めては駄目だよ」と善意のつもりで言ってくる人間はいる。それもあり、自分がこの先どう生きていくか決めかね、そこに不安を抱いている人は、二十代から四十代という長い期間にわたり、人生の選択について悩み続けることになる。
 大谷朝子のすばる文学賞受賞作『がらんどう』の主人公、平井はまさにそんな女性だ。現在三十八歳の彼女は、印刷会社の経理部に勤務し、菅沼という女友達とルームシェアをしている。
 六年前、平井の会社が事務作業の大々的なシステム化に踏み切ることとなり、その際システム会社から派遣され常駐したスタッフの一人が菅沼だった。偶然同じアイドルグループのファンだと知った二人は、菅沼の常駐期間が過ぎた後も一緒に飲み、ライブに行く仲になる。世の中に感染症が広まった頃、菅沼は平井に同居を提案する。二人で暮らしたほうが広い部屋に住めること、在宅勤務が続いて寂しくなった、ということが理由のようだ。とっさには返事ができなかった平井だが、数か月後に承諾し、現在に至っている。
 鶴見の日当たりのよい2LDKに暮らす二人の生活風景に風変りなものがあるとすれば、それは3Dプリンター。平井は副業として飼い犬を亡くした人たちから依頼を受けて、愛犬のフィギュアをプリンターで作っている。この菅沼の事が、後半、重要な役割を果たす。
 2LDKでの二人のルームシェア生活は、ちょっとした細部から心地よさが伝わってくる。料理は菅沼のほうが得意で、洗濯物干しは平井の担当と、役割分担が出来ている様子。「トイレットペーパーが残機一です」と言うなど、会話にもユーモアが混じる。仕事が一段落すれば、夜、リビングにマットレスを敷いて一緒に寝転びながら件のアイドルのDVDを眺める時もある。その際、先に眠気に襲われた平井を気遣って菅沼が音量を下げる様子からは、二人の間にさりげない気遣いが存在しているともわかる。さらに、菅沼が落ち込んだ時は平井が咄嗟に旅行に誘うことも。秀逸なのは、同僚が着ているポロシャツの胸元の模様がどこかの県の形に似ている……と思った平井が、帰宅してそれを話すと、菅沼も一緒に面白がるところ。そうしたささやかで微笑ましい場面が、実に魅力的に描かれていく。この著者には、なんでもない日常の描写を、楽しく読ませる筆力がある。確実に。
 だがしかし、平井の中にはずっと揺れがある。誰にも恋愛感情を抱いたことのない彼女だが、自分はこのまま結婚しなくてよいのか、このまま子供を産まなくてよいのか不安があるのだ。母親からの電話で従妹の妊活を聞かされたり、四十代と思しき女性がベビーカーを押す様子を見かけたりすると彼女の心は乱れる。現代社会において三十八歳の平井には、まだまだ選択の期間が残されているのである。菅沼との同居を最初はためらった理由もそこだ。彼女は、同居を決めるということは、結婚や出産を諦めることに繋がると感じていたのだ。
 一方、平井から見た菅沼は〈普通とか普通じゃないとか、いつも気にしない〉人間だ。彼女は親の泥沼離婚を経験しており、結婚を「負ける可能性の極めて高いギャンブル」といって、自分は絶対にしないと宣言しているのである。
 タイトルの「がらんどう」は、何も選び取っていない自分の身体や人生が空っぽのように感じる平井の心情を暗示している。だが、時折「死んだふり」をして心を落ち着かせている彼女は、空っぽであることをそこまで拒んでいない気もする。彼女が不安なのは結婚していない、出産していない自分ではなく、本気でそれらを望んでいない自分ではないのか。まだまだ「結婚するのが普通」「出産するのが普通」とされる、世間から外れることが怖いのではないか。会社の同僚に平井に同居人がいると知られた時、周囲は相手は恋人だろうと勘違いする。咄嗟に否定して誤解は解けるものの、そうした小さな出来事、”世間の目“のプレッシャーが澱のように彼女の中に溜まっているのではないだろうか。
 しかし実際、人生プランが明確な人はどれくらいいるのだろうか。結婚するかしないか、するならいつか、子供がほしいかほしくないか、ほしいなら何歳で産みたいか。プランが明確であっても、不測の事態でプランが頓挫する可能性は高い。そんな状況の中、多くの人にとって自分がどう生きたいかにはグラデーションがあり、その時々に変化するものではないのか。
 終盤、平井は「がらんどう」を胸に抱く。それは自分の中の、「がらんどう」(と思ってきたもの)を受け入れた瞬間でもあるといえる。自分の人生は空っぽではなく充実しているのだ、などと強引な発想転換をするのではなく、空っぽさそのものを認めた点が非常にポジティブに感じられた。そのままの自分の人生を肯定したと思えるからだ。
 今後も、彼女のなかで人生観がグラデーションを描きながら揺れることはあるだろう。でもそれは自分の主観による作用であり、世間の価値観に流されてのことではない気がする。平井の決断に身につまされるような思いを抱き、彼女を身近に感じる読者は、今の時代少なくないだろう。

「すばる」2023年3月号転載