内容紹介
味わい尽くしてやる、この都市のギラつきのすべてを。
コロナ禍の北京で単身赴任中の夫から、一緒に暮らそうと乞われた菖蒲(アヤメ)。愛犬ペイペイを携えしぶしぶ中国に渡るが、「人生エンジョイ勢」を極める菖蒲、タダじゃ絶対に転ばない。過酷な隔離期間も難なくクリアし、現地の高級料理から超絶ローカルフードまで食べまくり、極寒のなか新春お祭り騒ぎ「春節」を堪能する。街のカオスすぎる交通事情の把握や、北京っ子たちの生態調査も欠かさない。これぞ、貪欲駐妻ライフ!
北京を誰よりもフラットに「視察」する菖蒲がたどり着く境地とは……?
著者自身の中国滞在経験とその観察力が炸裂する、一気読み必至の“痛快フィールドワーク小説”!
プロフィール
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綿矢 りさ (わたや・りさ)
1984年、京都府生まれ。2001年『インストール』で文藝賞を受賞しデビュー。04年『蹴りたい背中』で芥川龍之介賞受賞。12年『かわいそうだね?』で大江健三郎賞、同年に京都市芸術新人賞、20年『生のみ生のままで』で島清恋愛文学賞受賞。他の著書に『勝手にふるえてろ』『私をくいとめて』『オーラの発表会』『嫌いなら呼ぶなよ』など。
綿矢りささん出演スペシャル動画公開中!!
『パッキパキ北京』を読んでみた! by愛内あいる
インタビュー
対談
書評
北京で誕生した、世界最強のピカレスクヒロイン
三宅香帆
綿矢りさがピカレスクロマンを書いてくれた! 本書を読んで、その事実にまず、沸いた。
時代は新型コロナウイルスという言葉が緊迫感をもって伝えられていた頃。主人公の菖蒲は夫の赴任する北京へ渡ることが決まった。中国語が分からない彼女が頼りにするのは己のコミュニケーション能力とスマホに入ったアプリだけ。隔離期間を経て彼女は北京で暮らし始める。菖蒲は北京でブランドの服を買い、持ち前の器用さで友人をつくり、楽しく暮らしていた。年上の夫は北京に馴染めないまま、菖蒲の馴染みっぷりに若干引いていた。そんな折、彼女たち夫婦をコロナが襲うのだった。
と、あらすじを書いてもこの小説の面白さは一ミリも伝わらない。はっきり言って本書の面白さは緻密に書き込まれた、現代中国の風俗描写にあるからである。たとえば北京の人々が着ているぶくぶくの防寒着。日本と違う男女のウィッグありきの髪型。アプリのなかで流行っているメイク。マッサージの烈しさ。街にそそり立つ超高層ビル。そしてウマすぎる辛い麵。北京のポップカルチャーを菖蒲の目で切り取った描写は、鮮烈で快活でなにより愉快だ。読んでいるだけで北京という街そのもののパワーが伝わってくる。私は中国からやってきて日本で就職した友人のインスタが美しい自撮りで埋め尽くされていたことを、本書を読みながらぼんやり思い出していた。そう、北京という街に溢れる自己肯定感が小説にみちみちと詰まっている。
しかし北京という街の面白さに負けないのが、菖蒲という主人公の魅力である。彼女こそがこの小説の鮮烈さを創り出した最大の立役者なのだ。元ホステスである彼女は、現代日本の器には収まらなさそうな倫理観と、明るく生きる術を持ち合わせる。ブランドものの買い物が大好きで、人間関係で感じる怒りや悲しみを意図的に封印している。さらに彼女が愛犬に付けた名前を目にしたとき、そのネーミングセンスに爆笑する読者も多いのではないだろうか(未読の方は絶対に小説を読んで確かめてほしい)。彼女は家族や友人に批判的な言葉を投げかけられつつ、享楽的に生きることを信条としている。なんせ彼女が北京へ来ていちばんしたかったことは、シャネルの鞄を見せつけることだというのだ。見栄とハッタリを大切にする菖蒲は、きわめて現代日本的な人物なのに、もしかすると現代日本において最もピカレスクな人物なのかもしれない……という矛盾をはらむ。
というのも、菖蒲の振る舞いはもしSNSにアップされたら絶対に「炎上」して怒られそうなことばかりだからだ。実際、偶然ネットにアップされてしまった菖蒲の発言が「炎上」する場面も作中登場する。たしかにSNSを眺めていると、さまざまな人が倫理の規範から外れた人間に怒っている。こんな振る舞いありえない、こんな正しくないことが行われていたなんて、と批判の声は日々絶えない。菖蒲のようにハイブランドが大好きな女性を否定的に語る声すら、聴こえてくる。
しかし本書で菖蒲の言葉を読み続けていると、不思議と「もしかして私はずっと倫理的でない人の言葉を読みたかったのではないだろうか?」と思えてくるのだ。
菖蒲の言葉は、たしかに非倫理的だ。しかし非倫理的な言葉はどこか中毒性がある。彼女の言葉は、私たち現代日本人が普段どれくらいバカバカしい暗黙の了解に囚われ、そして傷ついたふりをしているのかを浮き彫りにする。そして小説を読み進めているうちに、なんだか「この子の言うことをもっと聞いていたい!」と思えてくるのだ。それはまるで最初は辛すぎると思っていたのにいつのまにかクセになって毎日食べたくなってしまう香辛料入りの辛い混ぜ麵みたいに。菖蒲の刺激ある言葉を舌の上でころがすことをやめられなくなってしまう。怖い。でももっと、私は菖蒲の言葉を聴きたい。
そんな菖蒲について夫はまるで『阿Q正伝』の主人公のような考え方をするんだなと述べる。『阿Q正伝』という説明は言い得て妙で、たとえば中国の民衆にとっての『阿Q正伝』のように、民衆に「こんな人になってはいけません」と伝えるために描かれたような非道徳的な主人公が、実は民衆にとってのヒーローになることはある。悪役だけど、ヒーロー。それこそがピカレスクロマンの面白さなのかもしれない。
現代日本において、女性はとくに社会から求められる規範が多い。少子化にならないよう出産はしてほしいけどお金は自分で稼いでほしいし、経済は回してほしいけど老後のための貯金もほどほどにしておいてほしい。男性に依存したり騙したりましてや浮気したりしないでほしいけれど、あざとくかわいい感じではいてほしい。――そんな女性への規範を、菖蒲はすべてぶっちぎって、生きたいように生きる。
彼女は一見、享楽的で短絡的に見えるかもしれない。しかし彼女は自分の生き方が享楽的であることを自覚している。そしてそのうえで社会の規範をかわしつつ、強くなって、この社会のピカレスクになることを決めるのだ。最後に菖蒲がある決心を固める場面には、「世界で最強のピカレスクヒロインが生まれるのかもしれない」と胸が高鳴る。
もしかすると菖蒲の決心は、日本にいるうちは、固められなかったのかもしれない。北京という土地が、菖蒲の決心に追い風を吹かせたのかもしれない。〈カワイイと相性が良いのはカヨワイとオサナイだけじゃない、カワイイはズウズウシイやケバケバシイとも平気でマッチングできる存在だと開き直れる度胸がこれからのヤマトナデシコには求められる、はず〉と中国の女性たちを見ながら気づいた菖蒲は、きっと日本へ度胸を持ち込んでくれる。私たちにズウズウシイうえにケバケバシイ、そんな世界最強のカワイイ女を伝えてくれる小説が今ここに誕生したことを全力で喜びたい!
「すばる」2024年1月号転載
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