vol.5 Train
追跡日誌 十一月十四日(月)
気になったのは、その男の人の顔色が異常に悪かったから、とでもしておこう。阪三電車の唐塚駅で乗り換えをして、一番後ろの車両に乗ったその人を、わたしが降りる大林駅までじっと眺めているうちに、なんとなくインプットされてしまったみたいだ。頭蓋骨から額にはりついている真っ黒で油っぽい髪。うす紫色の皮膚。半開きの口、眠そうに今にも閉じてしまいそうな両目。ナイロン製の黒い生地に「GOKIGEN」とプリントされたナップサックをしょっている。
なんだこの人。興味津々で、本当はもう少し一緒に乗っていたかったけれど、授業に間に合わなくなってしまう。その日、わたしは後ろ髪を引かれる思いで大林駅で降りたのだった。
追跡日誌 十一月十六日(水)
通学電車にいた顔色の悪い男の人、色々とあだ名を考えたあげく、「病弱さん」→「平雀さん」という仮の名前をつけてみた。落語家みたいな名前になったのは、昨夜父が見ていた落語番組の影響もあるかもしれない。
平雀さんが乗っているのは一番後ろの車両といつも決まっている。
昨日教室でうっかりこの話をしてしまったため、恭子と聡美が平雀さんを見たいと言ってきかなかった。しかたなく、乗る電車の時間と車両を教えてあげた。恭子と聡美ならいいかなと思ってしまったのだ。
そしたら今日、わたしと平雀さんがいる車両に彼女たちが乗ってきたわけだけれど、なんとその数十一人!! どうも二人が教室で言いふらして、「香月(かづき)の好きな人? 行く行く!」「わたしも見に行きたあい」と話が広がってしまったらしい。
十一人の同級生たちはどやどやと乗ってくるなり、
「おはよう香月!」
「えっ、どの人どの人?」
「あそこに、あの角のところに座ってる大学生風の人じゃない?」
「いや、あの人に違いない、ほらあそこの……」
と大声ではしゃぎ始めた。女子高生の大騒ぎに、車内にいる周りの人たちもなにごとかとこっちに注目している。わたしは平雀さんが座っているほうをおそるおそる見たけれど、幸いにも彼は口をだらしなく開けて眠っていた。
「ねえ、香月ってば」
「わかった、わかった。わかったから静かにしてよ。いま説明するから」
そう言ってわたしは鞄からノートを出して、車両内の図に平雀さんの座っている位置を書いた。それをのぞきこんだ十一人は、また一斉に騒ぎ出した。
「え、あの人がそうなの?」
「顔色わるっ」
「筋肉なさそう」
「香月、あんたほんと変わった趣味してるよね」
平雀さんとわたしを見比べながらの集中攻撃。これにはさすがに平雀さんも目を覚ましたようで、落ち着きなく顔と足を動かしながらこちらを気にしている。わたしは平雀さんに申しわけなくて、何度も会釈をしてあやまった。なんとなく、平雀さんも会釈を返してくれているようにも見えた。
「なんであんなにたくさん誘ったのよ!」
大林駅で電車を降りてから恭子と聡美に抗議をすると、
「みんなが見たいって言うから」
「いいじゃない、これがきっかけになるかもしれないよ? 少なくとも今日、彼は香月をみとめたわけだし。世の中の濁流に沈んでいた香月という存在が、彼の前にいま、浮かび上がったんだよ。記念すべき日になったね」
と、もっともらしいことを言って、二人は坂道をさっさと上っていってしまった。
追跡日誌 十一月十八日(金)
苦しそうに口を曲げて呼吸をするところ、膝の上に置いたナップサックや頭に、せわしなく手を動かしているところ、貧乏揺すりがとまらないところ。平雀さんのすべてが気になってしかたがない。どうも、いつのまにか本気で好きになってしまったらしい。恭子たちは「やめときな」なんて言うけれど、そんなことは気にしていられない。
今日から、ついに本格的な尾行を始めることにした。平雀さんが毎日どこへ向かい、なにをしているのか。どうしても知りたい。
今朝の電車は雨のためかいつもより混んでいて、平雀さんに気づかれることなく行動するにはうってつけだったと思う。今日の平雀さんの服装は、いつもの「GOKIGEN」プリントのナップサックに、色あせたジーパン。そして、中央にでかでかとリラックマの絵がついた茶色い厚手のトレーナー。ジーパンは少し短くて、裾とスニーカーのあいだに白い靴下がのぞいている。
唐塚駅でいつものように乗り換えて、平雀さんは小走りに走っていく。たぶん席に座りたくて必死だったのだろうけど、なにしろこの混雑。一番後ろの車両で、平雀さんは真ん中のドアの横に立ち、わたしはそのドアから三席分ほど離れた座席の前に吊り革を握って立った。次々と人がすし詰め状態に乗りこんでくれて、平雀さんの目からわたしをうまく隠してくれた。ちょうどOLと学生の肩と頭のすきまから、ドアにもたれかかっている平雀さんの後頭が見えた。これなら見失うこともなさそうだ。
ベルが鳴って電車が走り始めた時、腰のあたりに妙な違和感をおぼえた。鞄や傘ではない、なにかが腰に触れている。電車の揺れに合わせてそれは微妙に動き始め、腰骨からお尻の上側あたりをいったりきたりし始めた。
――痴漢だ!
どうしよう。声を出せば目立ってしまうし、からだを動かせばいまベストポジションにいる平雀さんの姿を見失ってしまう。わたしは耐えることにした。まあ減るもんじゃないし、女子高生の引き締まったお尻をしばし堪能してもらおう。
ドアが閉まり、いつも降りる大林駅のホームが過ぎていった。緑いっぱいの公園に、時々寄って帰る図書館。見慣れた景色が窓の外を流れていく。その時、ハッとあることに気づいた。鞄の中に片手を入れて中のものをひとつひとつ確認する。やっぱりだ。よりによってこんな時に、財布を忘れてきてしまった。定期はあるのだけれど、乗り越し精算をするお金がない。
わたしは顔を上げ、後ろを振り返って、相変わらず微妙なタッチでお尻をさわり続けている男の手首をしっかりとつかんだ。手首の主、額に脂を浮かせたおじさんが、ヒイッと息だけで叫んだ。わたしはおじさんの首と肩のあいだに顔をよせて、
「百円ください」
とささやいた。
「ひゃく、百円?」
「ええ。駅員には通報しませんから。今日の痴漢代です」
おじさんは「安いな」とつぶやきながら、長財布から百円玉を取り出し、わたしに手渡した。これで、平雀さんがどこで降りても大丈夫。準備万端だ。
一駅、二駅、大林駅から三駅目の手前で、彼が動きを見せはじめた。後ろ頭がせわしく揺れはじめ、ポケットを探ったりナップサックの口を開けたりしめたりしているようで、落ち着きがない。わたしも降りる心構えをした。
電車がホームに滑りこんで、ドアが開く。平雀さんがホームに消えて、わたしは必死で人をかき分けながらドアに近づこうとした。その時、大勢の人々が車両内に押し入ってきて、わたしは波にのまれるように車内の奥へと押し流されてしまった。
水没。撃沈。また明日。(後編に続く)