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ドライバー 中島さなえ

 

vol.8 Cruise

 ブブゥーーーーーーン
 どこからか遠く、汽笛の音がする。
 目に力を入れた。思いのほか、まつ毛とまつ毛がしっかりとくっついていたので、陽太郎は小さな手を上げて、こよりをほどくように指先でまつ毛の一本一本をほぐしていった。ようやく瞼を開けると、太陽の光が無数の線になって目に焼きついた。ふうっと湿った息を吸いこむ。なぜ自分のからだが海原の真ん中にポッカリと浮かんでいるのか、陽太郎はうんと頭に力をこめて思い出そうとしたが、なにも浮かんではこなかった。
 とたんに、大量の泡飛沫が顔をおおった。あせって手足を激しく動かせば動かすほど、自分のからだがどんどん水中に沈んでいく。
――苦しい、助けて!
 あわてふためきしばらくもがいているうちに、不思議と水中でも息ができることに気がついた。半透明のクラゲが、陽太郎の腕をわざとかすって悠々と泳いでいく。陽太郎は何度か瞬きをして頭をふると、クラゲの摩訶不思議なからだを両手で包みこんだ。クラゲは陽太郎の手の中でどんどん縮んでいき、ついに豆粒ほどの大きさになって指と指のあいだをすり抜けていった。
 面白がってからだを反転させ、海底に向かってクラゲの後を懸命に追っていく。海水に溶けたクラゲの姿を見失った陽太郎は、珊瑚の周りを漂うクマノミの色の鮮やかさに目を見張った。
 ブブゥーーーーーーン
 全身を揺らす大きな震動に驚いて水面を見上げた。両手両脚を大きくかいて、明るい水面のほうへと上がっていく。顔を水面から出すと、箱形の巨大な船の舷側が目の前に迫っていた。「わあ!」と叫んだ陽太郎は目を輝かせて海水を吐き出し、船に向かって一目散に泳いでいった。舷側に取りつけられた白い梯子に手を伸ばす。少し錆びかかった梯子をつかんで上っていった。風は陽太郎のからだを船からひきはがすどころか、お尻を持ち上げるように下から吹き上げていた。汚れた髪の毛を風がすくい上げる。甲板に滑りこみ、両手をついて立ち上がった。
 陽太郎のいる船首に近いデッキから後ろを見ると黄色のフェンスが立っていて、その向こうには子どもから大人から、大勢の人々が双眼鏡で海を眺めていた。ようやく歩き方を覚えたばかりの小さな女の子が、フェンスの手前にいる陽太郎を指さして「ああーっ!」と叫んだ。
「そっちに行っちゃだめよ」
 母親がフェンスについている「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた看板を指さして、女の子の手を引いて歩き去っていった。
 陽太郎はフェンスの向こうの人々から目を離し、船首の方向にからだを向けた。デッキには三、四人の白い制服を着た男たちが、道具の点検をしていた。その向こうで、柵から細い煙が上がっている。陽太郎は男たちのあいだをすり抜けて、煙の元に近づいていった。首回りの伸びた黒いTシャツを着た男が、海に向かってタバコの煙を吐き出していた。よほど汗をかいたのか、背中の部分の黒い生地は、ところどころ塩がふいて白くなっている。
 男はタバコを口から離し、横目で陽太郎を見やった。
「うまいことメインデッキから紛れこんだか。ひとりで遊んでちゃ落っこちるぞ」
 陽太郎は胸をはり、「落っこちないよ」と言って、男の真似をして柵にもたれかかってみせる。その時、後ろのドアが開いて背の高い青年が顔をのぞかせ、男に向かって声を張り上げた。
「エモトさん、全員そろいました」
「ああ、わかった」
 エモトと呼ばれた男はタバコを柵にこすりつけると、「おおい、悪いがこの子を!」と、点検をしていたスタッフに手を上げた。エモトは陽太郎を指さして苦笑いした後、ドアに向かってひとり歩いていった。
 陽太郎は柵によじのぼって、タバコのススがついた部分をなぞりながらスタッフを見つめたが、彼らはしきりに首をかしげているばかりだった。その時、ドアの奥からにぎやかな楽器の音が漏れ出てきた。陽太郎は柵から元気よく飛び降りると、エモトの後を追ってドアの向こうへと駆けていった。
 その先の螺旋階段を降りていくと、天井まで吹き抜けの大きなホールが広がっていた。ステージの上には青色の箱形譜面台が二列になって並んでいて、トロンボーンやトランペット、サックスといった管楽器を携えた男たちが思い思いに音を出している。譜面台の後ろには立派なドラムセットも置いてあり、グランドピアノやウッドベースまで控えている。陽太郎は螺旋階段の途中で立ち止まり、落っこちそうになるほど首を伸ばして見つめた。
「じゃあさっきの続き、『シング・シング・シング』のソロあけから演(や)ろうか」
 エモトが譜面台の前に立ち、指を鳴らしてドラマーとテンポを確認している。カウントが出されると、バンドはいっせいにリズミカルなテーマを奏で始めた。曲が始まると、エモトもみんなと同じように譜面台の前に座り、トランペットを演奏し始める。
「うわあ」
 陽太郎は目を爛々と輝かせ、小さな口元をゆるめた。音は塊となって陽太郎のからだを目がけて飛んでくるようだったし、ベースドラムやウッドベースの低音には終始からだを揺すられているようで面白かった。
 しかし、目の前が急に真っ白になり、陽太郎はその場にうずくまった。じっとして手すりにしがみついていると、エモトがトランペットを口から離し大声を上げた。
「おい、ディレクター! あそこに子どもが紛れこんでいるぞ」
 陽太郎はその場で跳び上がり、螺旋階段をあたふたと駆け上っていった。

 陽が沈むと、大型船はまるで違ったたたずまいになった。デッキや三階建ての船室の外はこれでもかというほどたくさんのイルミネーションで煌々と照らされている。しかしそのおかげで海の真上に広がっていた夜空の星が消えてしまい、陽太郎は少しがっかりしてしまった。
〝エレガンス・クルーズ内でおくつろぎのみなさま。ご夕食後イベント開催のお時間です。一階のエレガンスホールにて、ビンゴゲームと特別ショータイムがございます。ドレスコードはカジュアルですので、どなたさまもお気軽にご参加ください〟
 アナウンスを聞いて、デッキにたむろしていた人々がいっせいに船内出入り口へと戻りだした。その流れに呑まれるように、陽太郎も出入り口へと歩いていく。
 一階のホールはほぼ満員で、冷房が充分きいているはずが熱帯夜のように暑くなっていた。陽太郎は人と人の隙間や足のあいだをくぐりぬけて、ようやく空いた椅子をひとつ見つけて座った。
「お手元にシートは行き渡りましたでしょうか。それでは、夏休みスペシャルビンゴ大会、ひとつ目のナンバーを抽選したいと思います」
 高くて耳障りな女の人の声が、ホール内に響き渡った。派手なドラムロールが鳴り、シンバルがシャーン! と打ちつけられた。
「三十二番、Nの三十二番です!」
 会場内が一気にざわめきだし、「ビンゴーッ!」と嘘を言って周囲の笑いを誘う子どもの声もそこここから上がった。
「みなさんよろしいでしょうか。お子さんたちは携帯ゲーム機を目指してがんばってね!」
 また女の人の声が耳に突き刺さる。陽太郎は耳の穴を小指でふさぐと、椅子から降りてまたホール内を歩き始めた。ホールの壁には世界の大型客船の写真が展示されていて、そこにもたくさんの親子連れが群がっている。陽太郎はふと、そんな集団の中に野球帽をかぶったひとりの少年を見つけ、ハッと顔を上げて声をかけた。
「しょうへー」
 客船の写真から目を離しこちらにからだを向けた少年は、陽太郎が思い描いていた顔とはまったく違う様相をしていた。その少年は陽太郎にはまるで興味がないように、また写真のほうに向き直った。
 しょうへー……。
 そうだ、いつも一緒にいた。
 陽太郎は小さな頭を抱えて床へとしゃがみこんだ。動悸がして、目まいを起こしてしまう。太い眉をわざとらしく動かして笑わそうとしてくる、正平の日焼けした顔が頭に浮かんだ。

「正平、基地を作るの? どうして?」
「どうしてって、おまえの身を隠すためだ」
 正平はそう言って、黙々と板を打ちつけている。正平の提案で、通学路のあぜ道からヒノキ林の中に入ったすぐの場所に基地を作ることになった。学校が終わってすぐに作業を始めたというのに、もうすぐ西日も落ちようとしている。
「ねえ、普通は基地って、もっと奥まっていて目立たない場所にあるものじゃないの?」
 陽太郎はランドセルのベルトを握りしめて、正平のがっちりとした肩の皮が日焼けでめくれているのを見つめた。毎日一緒に遊んでいるのに、陽太郎の腕は小麦粉のように真っ白だ。
「バカだな。あいつらが来てもすぐに逃げられるようにわざわざここに作っているんじゃないか」
 正平は陽太郎を振り返り、いつも少し唇から突き出ている真っ白な歯をよけいにのぞかせて笑った。
「ありがとう」
 くらくらと目まいがして、陽太郎は立っているのがやっとだった。暑さのせいか、血が足りないせいか。陽太郎は小さい頃からしょっちゅう地面に倒れては、その度、近所に住む正平に家までかついでもらっていた。こんなからだだから、他の子どもから目をつけられてしまう。
「またか? 大丈夫か?」
 正平が顔をのぞきこむ。ツンと痛む鼻のねもとを押さえながら陽太郎はうなずいた。
「うん、大丈夫。いつもごめんね正平。それよりさ、ぼくんち、夏休みに宇木島へ旅行にいくんだ。三泊四日」
「宇木島に? 本当かよ、すげえな! じゃあ、アスレチック大会にも出るのか?」
 宇木島のアスレチック大会は陽太郎たち子どもにとって、憧れの大会だった。賞品も豪華で、優勝すると二学期には学校中のヒーローになることができる。
「ぼくは出ないよ。でも、正平は出たらいいと思う。今夜、正平も一緒に行けるか父さんに聞いてみるよ」
「すげえな!」
 正平は興奮を抑えきれずに立ち上がり、はずみで落としたトンカチを拾い上げた。そうして今しがた出来上がったばかりの基地を見て、うめくように言った。
「基地って言うよりこれは、まるで犬小屋だな」

 目まいがおさまると、ホールでのビンゴ大会はいつのまにか終わり、ビッグバンドの演奏が始まっていた。陽太郎が昼間に見た楽団員たちが黒い燕尾服を着て、真っ青な箱形譜面台の前にきれいに並んでいた。バンドの演奏に聴き入る人、興味なさそうにワインのお代わりを注文する人。それぞれがこの豪華なパーティーを楽しんでいた。
 曲の終わりにエモトが立ち上がり、トランペットを高々と掲げて終わりの合図をバンドに送った。
「皆様、『エレガンス・クルーズ・ビッグバンド』が送るスウィングジャズの名曲の数々、お楽しみいただけましたでしょうか。この後、よろしければ八階のスターライトホールでのソシアルダンスタイムもお楽しみ下さい。それではいい夜を」
 昼間に見た時とは違い、髪を整えて正装したエモトは、なかなか男ぶりがよかった。
 楽団が片付けを終えてステージから去ると、ホールにいた人々は潮が引くようにいなくなった。気づけば陽太郎だけが、だだっ広いホールの中にひとり取り残されていた。

 翌日、船室前の廊下でピアニストの姿を見かけた陽太郎は、こっそりと後をついていった。
 ピアニストと陽太郎は、従業員専用の食堂へと入っていった。陽太郎はそっと自動販売機の陰に隠れた。夕刻は、リハーサルの合間に休憩を取るバンドメンバーくらいしか利用者がいないのか、従業員の数はまばらだった。バンドメンバーは奥の一角に陣取ってなにやら騒いでいる。
「どうしてこんな船に乗っかっちまったんだろうな。例の有名なジャズドラマーなんかさ、地方のホールにツアーに出るだろう? 宿泊先のホテルに、暗黙の了解でファンもそれぞれ部屋をとっているわけだよ。それでコンサートが終わったら、そいつは自分の部屋から夜中に抜け出て、ひと部屋ずつコンコンとノックしていくらしい。ひとつの部屋が終わったら、また次の部屋をコンコン。下の階におりて、またコンコン」
「ズバリ、ひと部屋何分?」
「二十分くらいじゃねえの」
「ちょんの間じゃないんだから。羨ましい以前に、体力がすげえよな。俺には無理」
 みなが下品な笑い声を上げている。陽太郎はあたりを見回し、食堂のすみに黒いTシャツを着たエモトを見つけた。エモトはバンドメンバーの話に注意を向けるでもなく、雑誌を読みながら機械的にスプーンを口元に運んでいた。やがてエモトがテーブルから立ち上がったのを見て、その後をついていった。
 デッキに出ると、エモトは昨日見た時と同じように柵にもたれかかり、ジーンズの後ろポケットからタバコを取り出していた。陽太郎はエモトの足下にもぐりこみ、海を見つめた。夕陽は雲ばかりか海までも朱く染め上げている。陽太郎は細い腕を海に向かって伸ばし、ひとさし指の先を、群青色の空に向かって伸ばした。
「空の入り口」
「あっ、おまえ」
 エモトが驚いた声を上げて柵からからだをそらした。
「その下が、雲の休み場」
 ひとさし指で空の瑠璃色の部分をさすと、陽太郎は髪をまばらに短く切った頭を上げてエモトの顔を見上げた。夕陽が映りこみ、黒目が淡いオレンジ色になっていた。
「立ち入り禁止のデッキにまで現れるとはな」
 陽太郎はそれには答えず、からだをブルルッと犬のように震わせると、海に向かって何度も瞬きをしていた。
「太陽の周りの色は、おじさんの楽器を溶かして塗った」
「おじさんと言うな。四十を過ぎても気は若いんだ。名前は?」
「ようたろう。太陽をひっくり返して、陽太郎って書く」
 陽太郎は両方のてのひらでボールを持つように球体を形作り、それをぐるりと回転させてみせた。
「陽太郎、お父さんやお母さんはどこにいるんだ」
「思い出そうとしているところ」
「よし、わかった。じゃあ俺と一緒に今から受付へ行こう。美人のお姉さんが遊んでくれるぞ」
 エモトは陽太郎の手を引いてデッキの上を歩き始めた。
「おじさんの、昨日のショーを見たよ」
「おじさんじゃない、俺はあの楽団の団長だ。一応これでもトップなんだぞ」
「だんちょう」
 陽太郎がつぶやく。
 二人が二階のフロントデスクの前に着くと、エモトのてのひらにあった柔らかな感触が急に消えた。エモトがいくら捜しても、陽太郎の姿を見つけることはできなかった。
 首をかしげながらデッキに戻ると、平然と柵にぶらさがっている陽太郎の姿があった。呆れてものも言えず、ふたたびジーンズのポケットからタバコの箱を取り出した。
「まあいい」
 額に皺をよせ、火を点ける。
「子どもだって逃げ出したくなることはあるだろう。こんな船の上じゃあ逃げ場はないがな」
 エモトはうまそうにゆっくりと煙を吐き出し、柵にぶらさがっている陽太郎の汚れたシャツにふと目をとめて首をかしげた。陽太郎は興奮したように柵から飛び降りる。
「ねえ、団長。ぼくにも楽器教えてよ」
「おまえに? なんで俺が」
「船に乗ってから、ずっと頭が晴れないんだ。でも、音を聞いている時になにか思い出しかけたりする」
 エモトはしばらく考えた後に「ふん」と言ってタバコを柵にこすりつけた。
「ちょっと待ってろ」
 エモトはしばらくして、トランペットのケースを二つ抱えてデッキに戻ってきた。ケースを開けて楽器を組み立てる様子を、陽太郎は興味津々でのぞきこんでいた。
「『チュニジアの夜』は、アフリカ系アメリカ人のトランペッター、ディジー・ガレスピーの名曲だ。最初にレコードジャケットで彼の姿を見た時は衝撃だった。『どうしたらこんな吹き方ができるんだ?』って、自分の目を疑ったよ。カエルのようにパンパンに頬を膨らませて、ベルが上を向いたトランペットで超高速のビバップを吹く。彼のトランペットが上向きになっている理由は、高校の先輩に教えてもらった」
 エモトはレッスンを始めると、打って変わって饒舌で上機嫌に話し始めた。整備のスタッフがめずらしい動物を見るようにエモトを見やり、横を通り過ぎていった。
「妻の誕生日パーティーで、自分の楽器を椅子の上に置いたまま友人と話しこんでしまったガレスピーは、ひとりの酩酊した客があやまってその椅子の上に座ろうとしてしまうのを見たんだ。ガレスピーが気がついて叫び声をあげた時にはもう遅かった。酔っぱらいのケツに押しつぶされたトランペットのベルは、無惨にも上を向いて折れ曲がっていたんだ。誰もが落胆したその時、ガレスピーがトランペットを手にとって吹き始めた。すると、折れ曲がったトランペットから、世にも美しい音が流れ出てきた。なんとまあドラマティックな話じゃないか。なあ」
 エモトはもう一本のトランペットをひざの上に置いて、陽太郎に持ち方を教えた。陽太郎はエモトに言われたとおりにマウスピースに口をつけ、顔を真っ赤にして息を吹きこんだ。「プフフフフ」と息の漏れる音がした。エモトが嬉しそうに声を上げる。
「お! 初めてにしては見こみがあるぞ。それならすぐに吹けるようになる。俺が最初にトランペットに触ったのは、ちょうどおまえくらいの時だ」
「団長がぼくくらいの時に?」
「そうだ。家で、親父の友人が置いていったトランペットを初めて吹いた時、奇跡的に音が出た。まるで気の抜けた屁のようなヘナチョコな音だったけどな」
 エモトは陽太郎に運指を教えて、一オクターブの押さえ方を覚えさせた。
「指をそらしちゃだめだ。いつ出番が来てもいいように添えておけ」
 鼻の奥にツンと差しこむような痛みが走った。陽太郎はまた目まいに襲われて、自分の奥深くに埋まったものを思い出そうとしていた。(後編に続く)

 

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