vol.8 Cruise
「指をそらしてはだめだ」
そうだ、オーケストラの練習場の端で、父がピアノを教えてくれたのだ。
普段は職場には家族を連れていかない父も、個人練習にあてられた日曜日だけ、時々陽太郎を練習場へ連れていってくれた。その上、休憩時間にはピアノを教えてくれる。ひょっとしたら専門のコントラバスを上回るのではないかと思うほど、父はピアノが達者だった。
「どんな楽器でも、指が遠いと戻りが間に合わず、上手くなれない。あとはひたすら反復。ゆっくりから、少しずつテンポを上げて」
陽太郎が練習に飽きると、父はコントラバスやチューバのケースに陽太郎を入れて、練習場の建物の一階から四階まで運んでくれた。真っ暗なケースの中は少し怖かったが、自分が荷物のように運ばれている楽しさと、階段を必死で上っている父が時おり漏らす「重い~、もうだめだあ~」という情けない裏声に、陽太郎はいつも涙が出るほど笑った。
この日の練習場からの帰り道、陽太郎は父と、夏休みに行く予定の宇木島や科学館の話をした。そして陽太郎は、宇木島へ正平と正平の母も一緒に行くことができないかと父に頼んだ。
「宇木島で、アスレチック大会?」
押しこめば陽太郎が三人は入りそうなコントラバスのケースを抱えて、父は陽太郎と並んで駅の階段を上っていった。
「お母さんが許してくれないよ。またおまえの発作が起こらないともかぎらない」
「ぼくじゃないよ、大会には正平が出場するんだよ」
「なるほど。あの子は運動神経抜群だからな」
「そう、正平はすごいんだ。幅跳びだってうんていだって、上級生にも絶対負けない」
陽太郎はそう言って、腕を振り上げた。父が笑って見ている。
「そういうおまえは正平くんを応援するだけだろう?」
「もちろん応援する! 宇木島のアスレチック大会で優勝すると、大きな自転車がもらえるんだからな」
陽太郎は張り切って、全速力でペダルをこぐ仕草をした。
「ううん」
ホームにつき、考えこんでいる様子の父の周りを、陽太郎は必死に飛び跳ねながら回った。
「お願いだよ。科学館のほうは我慢するから」
「わかったよ、しょうがないなあ」
父がそう答えた時、電車がやってきて、「プォーーーーン!」と大きな音がホームに鳴り響いた。
「うまいぞ」
エモトは感心したように眉を上げ、組んでいた腕をほどいた。
「こんなに早くきれいな音が出るとは想像していなかった」
エモトがトランペットを教えるようになってから、陽太郎は毎日のようにデッキへとやってきた。昼間はデッキでエモトと話し、夜はホールでビッグバンドの演奏に聴き入った。時間はたっぷりとあったし、なによりトランペットを吹いていると頭がしびれるような感覚になり、昔の記憶の断片を思い出すことが多かった。それに音がひとつひとつ出せるようになっていくのが、思いのほか面白かったのだ。
その日は、昼間だけでなく、二人は夜もデッキに出て練習を続けていた。
エモトはケースの留め金を外し、トランペットを取り出した。マウスピースに息を吹きかけて本体にねじこみながら、陽太郎を見下ろす。
「よし、いいか。キャビンに聞こえるとまずいから、小さい音で一回しか吹かないぞ。『イン・ア・センチメンタル・ムード』は、デューク・エリントンという偉大な作曲家が作った、バラードの中でも名曲中の名曲だ」
エモトはマウスピースを唇にあてると、口の両端を真横に引いて、深く息を吸いこんだ。
トランペットから、小さく細い音が漏れ出す。低い音から徐々に上にあがっていき、終着点のロングトーンが伸びやかな、甘く美しいメロディだった。シンプルでいて、もの哀しい。
八小節のメロディを吹き終えて、エモトは自分のトランペットを物憂げに見つめた。
「クソッ、なんでこんなやせた低音しか出ないんだ……」
陽太郎のほうに目をやると、デッキの柵に頬杖をついて潮風に吹かれ、エモトの演奏をまだ味わっているようだった。しばらくして目を開けると、エモトに向かってひとさし指を立てた。
「もう一回」
「なんだと?」
「もう一回吹いてよ、団長」
嬉しそうな陽太郎にじっと見つめられ、エモトは息をついてマウスピースを口にあてた。たっぷりと潮を含んだ生温い風が二人の前髪をかきあげていく。
エモトはじっと動かず、やがてマウスピースを口から離した。
「すまない、今日はもうよそう」
そう言ってケースに楽器をしまう。
「なあんだ、つまらないなあ」
陽太郎が柵によじのぼり、足をぶらつかせた。
どれくらいの時間吹いていたのか、周りの人影もすっかり消えていた。
「じゃあな。また明日な、陽太郎」
エモトはケースを抱え、デッキをゆっくりと歩いていった。
その日も、エレガンス・クルーズ号は快調に沖を突き進んでいた。船が港を出て一週間。航海はあと一日で終わりを告げようとしていた。相変わらず乗客用のデッキには人があふれ、日光浴をしたり海を見たりする家族連れがあとをたたない。
陽太郎は退屈そうに柵によりかかり、打ちつけられては消える泡の飛沫を見つめていた。陽太郎にとって、デッキにエモトがいない時、人波にもみくちゃになる他は、ただ海を見つめるしかやることがなかった。
「あ、クラゲ!」
いつか出会った半透明のクラゲが波間から顔をのぞかせたのを見て、陽太郎は柵の向こう側へとからだをすべらせ、勢いよく飛びこんだ。
「陽太郎!」
叫び声が聞こえ、続いてすぐそばに大きなからだが飛びこんできて波飛沫が上がった。エモトは必死で水をかき、陽太郎のからだを強引に引きよせる。陽太郎はエモトの背におぶさって、舷側の梯子まで運ばれていった。
デッキに上がるとエモトは、陽太郎のバサバサの髪をタオルで拭いた。
「なにをしてるんだ! 危ないじゃないか」
「平気だよ。だってぼく水ん中で息ができるんだ」
陽太郎はタオルで拭かれるのを嫌がって、顔を無理に左右に振っていた。
「バカ言うな。俺はな、もうすぐ船を降りるんだ。次に港についたらって、そう決めている。最後の弟子が事故になんか遭って、気まずい思い出を作らせないでくれよ」
「なんで降りるの?」
「これ以上トランペットを吹いていてもしかたがないからだ。こっちにこい」
陽太郎はエモトに手をひかれるがまま、階段を下りてキャビンへと連れてこられた。ドアの前に、深刻な顔をした初老の男が立っている。エモトが男に向かって片手を挙げた。
「ああ、ディレクター」
「あんた、大丈夫か」
「この通り。あ、この子は俺の子じゃないよ。デッキで知り合ったんだ。シャワーを浴びさせたら、フロントデスクに連れていく」
ディレクターはエモトがさした陽太郎を見やって「ああ」とだけつぶやき、エモトの顔をまっすぐに見つめた。
「いやね、心配だったから来たんだよ」
「なにが?」
ディレクターはばつが悪そうに、しばらく口の中をもごもごとさせていた。
「団員たちがね、どうも、あんたの様子が変だっていうから。デッキや部屋でひとりでブツブツつぶやいていたり、急に子どもを追い返せと言ったり。それでさっきは突然海に飛びこんだと聞いて、あわてて様子を見にきたんだ」
「いや、ディレクター、そんな」
「団員たちは、あんたが泥酔したあげく海に落っこちたか、自殺したに違いないってそう言ってる。『たろう! たろう!』って、犬かなにかの名前を叫びながら泳ぎ回っていたそうじゃないか」
「いぬ?」
エモトは青ざめて、ディレクターの顔を見つめた。
「とにかく休んで、幸い今夜は演奏がないし、もし明日のラストディナーショーも体調が悪ければ言ってくれ。もうすぐ港だ、ツアーのプログラムは終わるし、無理はしなくていいからね」
ディレクターはそう言って、逃げるように廊下を去っていった。船底から湧き上がってくるような、船の稼働音がいつになくエモトの頭の中に響く。
陽太郎はいつのまにかエモトの部屋に入り、タオルを頭にかけて、ベッドの端にぽつんと座っていた。いつものベージュのシャツを着て、裸足をブラブラとさせて。服も髪も、もう濡れている様子はなかった。
「どうしてだ!」
エモトは部屋の隅に濡れた服を投げ捨てながら叫んだ。陽太郎はエモトの怒鳴り声に一瞬からだを硬直させたが、すぐに笑ってエモトを見つめていた。
「どうしておまえの姿は、俺にしか見えない」
エモトは冷蔵庫の上からウイスキーの瓶をつかみ、一気にのみほした。勢いよく瓶を投げつけると、陽太郎のすぐ左の壁に命中した。その時、陽太郎の左半身が、ビリビリと点滅するように薄くなっていった。
「ついに頭がおかしくなってしまったか」
エモトの声が震えている。
「幻覚が見えるだなんて」
エモトはそうつぶやき、陽太郎を避けるように、ドアまで少しずつ後ずさりした。その時、
「汽笛が聞こえたから」
と、鼻のつまった細い声がエモトの耳に届いた。薄くなった陽太郎のからだは、今にも消えそうになっていた。
「幻聴まで聞こえる!」
「海の上にいて、汽笛が聞こえたから……」
「消えろ! お願いだから消えてくれ!」
エモトは陽太郎に背を向け、キャビンの壁に向かって両手を振り上げた。
「出ていってくれ。行け! 早く行くんだ!!」
団長は叫び声を上げ、腕を振り上げたまま椅子を蹴り倒した。
陽太郎は両手で額を押さえた。全身はもうほとんど消えかけていて、頭の上にあるはずのタオルの感触も、少しずつ薄れていくようだった。
「行け! 早く行くんだ!!」
なぜこんなことになってしまったのか。陽太郎は無理矢理ほどかれた手を、所在なげにズボンのポケットの中に入れた。
夏休みの一番の思い出になるはずだった。正平と自分が、この日をどれだけ楽しみにしていたことか。
宇木島についたら、別荘の子ども部屋で正平とベッドの割り振りを決め、散々ボードゲームで遊び疲れた翌日は、午前中からバーベキューをするはずだった。いや、もっと言えば、朝食の前には正平の走りこみや腕立て伏せなどのトレーニングに、陽太郎がコーチ役でつきそう約束もしていた。それなのに。
宇木島の港へ入港するはずの三十分ほど前、船は突然に大きな音を轟かせ、立っていられないほど激しく揺れた。子どもたちの叫び声が響き、船員が激しく声を荒らげている。船の上はたくさんの親子連れで押し合いへし合いになり、陽太郎はなんとか両親の後についていくので精いっぱいだった。
さきほどから船の下からは、「こちらのボート、あと数人乗れます!」と叫んでいる若い船員の声が響いていた。父と母は、まず正平を柵のほうへ押しやり、続いて正平の母の腕に陽太郎をたくしてその手を離した。
「行け! 早く行くんだ!!」
父は、正平と陽太郎に向かって口元を引き締め、しっかりとうなずいた。
どれくらい眠ったろうか。エモトがからだをゆっくりと起こすと、キャビンの中は、ひどいありさまになっていた。椅子やテーブルはひっくりかえり、シーツは破け、床には割れた瓶の破片が散乱している。サブのトランペットケースの留め金も壊れてフタが開き、楽器が床の上に転がっていた。
ふらつく足取りでデッキに出ると、西の空の水平線に、太陽が身を沈めようとしているところだった。
割れるように痛い頭を押さえながら、あたりを見回す。デッキの上に人気はない。
エモトは、陽太郎がいつもぶらさがっていた柵の錆びたてすりを見つめた。
いったいあの子は、なんだったんだろう。
どこからも誰も答えるものはおらず、見渡せば、ただ海鳥が船の横を気持ちよさそうに飛んでいるだけだった。
「ワンッ! トゥーッ!」
ダダダダダダダダダダ! ドラムのカウントとフィルが入り、ホールでは華やかにディナーショーが始まっていた。
二拍三連の小気味良い管楽器のメロディが、滑らかに客席へと滑り落ちていく。客のノリはよく、満員のテーブルは賑やかに盛り上がっていた。
エモトはメインのトランペットと、箱形譜面台の下においたサブのトランペットを交互に持ちかえて、順調に譜面をなぞり、即興でソロをこなした。
次々と食器がさげられ、メインディッシュが運ばれて、演奏は終盤へと差しかかっていた。
エモトは立ち上がり、マイクスタンドの前に立った。
「今夜はモダンジャズの数々をメドレーでお送りしました。それでは、バラードでデューク・エリントンの名曲をお聴き下さい。『イン・ア・センチメンタル・ムード』」
譜面台の前へ戻って立ち、メロディを吹こうとトランペットを構えた。ピアニストがエモトのほうを見てうなずき、イントロを弾き始める。
エモトは、客席をゆっくり見渡した。「もう一回吹いてよ」と言ってねだった少年はいない。
エモトはマウスピースに口をあてて息を吸いこんだが、そのままゆっくりと口から離した。なぜだろう。指が石のようにかたまって動かない。力を入れても抜いてもまったく言うことを聞いてくれない。ここでメロディを吹くはずが、ピアノの音もすっかり立ち消えてしまった。ステージの異変に気づいたのか、会場がざわめきだす。
その時、たどたどしく細い音が譜面台の中から流れ出てきた。
音は少しずつ大きくなり、「イン・ア・センチメンタル・ムード」の旋律をたよりなくたどり始める。ピアノが安心したように、すぐに伴奏をつけた。
驚いたエモトは譜面台の下をのぞいた。バサバサの髪の小さな頭が、トランペットを上に向けてくわえ、小さな指を動かしていた。
――陽太郎。
陽太郎は目をつむり、一心に息を吹きこんでいる。
昔どこかで聞いたような、なつかしい音。硬直していたエモトのからだから、不思議と力が抜けていった。指が解けて動き始め、唇はやわらかくなり、少しずつマウスピースに息を入れ始めた。すると、世にもあたたかな音が、エモトのなじみの楽器から滲むように出てきた。
エモトはトランペットをまっすぐに構えて、メロディをたどった。甘くしなやかな音がするすると伸びて、今まで味わったことのない、痺れるような快感が全身を包んだ。バンドメンバーや客席が固唾を呑んで見守り、ため息を漏らしていた。
演奏が終わると、轟音のような拍手に包まれた。椅子に座り、驚きを隠せないといった顔で両手をあげてきたメンバーとてのひらを打ち合う。
ラストナンバーは豪快なラテンジャズで盛り上がり、ディナーショーは盛況のうちに幕を閉じた。その後、かたづけをしながら譜面台の下を何度のぞいても、サブのトランペットがポツンとたたずんでいるだけで、そこに陽太郎の姿はなかった。
ブブゥーーーーーーン
汽笛が鳴り、一週間の航海を終えたエレガンス・クルーズ号が入港した。
スーツケースを押さえてデッキの柵にもたれかかり、エモトはエントランスからスロープを下りていく乗客を眺めていた。
「団長。ぼくもう、行くね」
足下から小さな声が聞こえる。
「陽太郎」
エモトは床にしゃがんで、「そうか、天才少年は出発するのか」と、陽太郎の顔をのぞきこんで言った。陽太郎が大きく笑い声を上げる。エモトは、留め金の壊れたトランペットケースを開けた。
「これを持っていけよ。退屈な時に吹くといい」
「わあ! すげえな!」
陽太郎はそう叫んで照れ笑いをした。エモトからトランペットを受け取ると、嬉しそうに、ひっくり返し、ひっくり返ししてなでまわした。
「これに乗ってもいい?」
陽太郎は、壊れたトランペットケースを指さした。
「ああ、いいけど。こんなものに乗っていけるのか?」
「海に浮かべばどんなものでも」
陽太郎は得意気にそう言って、トランペットを両手で縦に回してみせた。
立ち上がって、二人でデッキを半周し、船の裏へと回った。空は青く澄み渡り、波は穏やかに寄せてきて、なにかをねだるように船を揺すっていた。
陽太郎は、真剣な面持ちでケースを海面に落とした。まっすぐに落ちていったケースは海中に沈むこともなく、新しい主人を頼もしく待ち構えるように船を見上げて漂っている。陽太郎は思い切りよく船から飛び降りて、ケースの上へと見事な着地をしてみせた。
「わあ! すげえな!」
エモトはてすりからからだを伸ばしてのぞきこみ、陽太郎の真似をして叫んでみせた。
「団長、ありがとう」
陽太郎は立ち上がって、トランペットを思い切り振った。大きな波が船を持ち上げて、ケースが沖へと流されていく。
エモトは大きく肩を上げて、陽太郎に向かって手を振っていた。太陽を反射して、水面があたり一面に光をちりばめる。
陽太郎はエモトと客船に向かって大きく手を振りながら、前にも同じことがあったなと思い出した。
黄色の救命ボート。隣には、正平と正平の母がいる。陽太郎は船に残された父と母に向かって、懸命に手を振っていた。陽太郎たちもその後しばらくして、大きな波をかぶってなにも見えなくなった。果たしてあの時は、陽太郎が沈んでいくのを父と母が見たのか、それとも、父と母が沈んでいく様子を陽太郎が見たのが最後だったのか。陽太郎にはわからなかった。できれば、自分が沈む様子を父と母が見ていなければいいと思った。
それが知りたい。
どうしても知りたくなって、陽太郎はもう少し海の上を漂っていることにした。
どこへ行ったらいいかもわからない。ただ、音の聞こえるほうへ行こうと決めた。太陽の光のすき間から時おり漏れ出てくるような、懐かしい音のするほうへと。