賭け麻雀が合法化された世界や、労働コンプライアンスが過剰にもてはやされた世界、紙幣が忌み嫌われ電子通貨が主流となった世界などなど……。小説すばる連載作、『令和その他のレイワにおける健全な反逆に関する架空六法』(通称:架空反逆六法)で新川帆立さんが描くのは、六つの架空法律が制定された、ここではないどこかの「レイワ」。新川さん初のリーガルSF短編集がこのたび刊行されました。今回は、同年デビューであり、2021年『同志少女を、敵を撃て』で大注目を集めた逢坂冬馬さんとの対談が実現。新進気鋭のお二人が、執筆愛を熱く語ります。

聞き手・構成/タカザワケンジ 撮影/キムラミハル

現実と平行する六つの「レイワ」

――お二人がお会いするのは初めてですか。

新川 二回目です。日本推理作家協会のイベントで御一緒させていただきました。

逢坂 推協フェスでしたね。その前から新川さんのことは気になっていました。僕は2021年の11月に作家デビューしたんですが、そのときに西日本を中心に書店めぐりしたんです。行く先々に新川さんの『元彼の遺言状』の文庫版と二作目(『倒産続きの彼女』)が並んでいて、帯に景気のいい数字が書いてあるなと思いながら見ていました。しかもその年の1月にデビュー作が出たのに、11月にはもう二作目が出ているなんてすごい。書店の方に「『元彼の遺言状』ってどんな小説なんですか」と聞いたら「面白いことを全部やったような小説ですよ」と言っていたのが印象に残っています。

新川 私と逢坂さんは同年デビューなんですよね。『同志少女よ、敵を撃て』は発売してすぐに話題になって、年末には書店員さんたちが今年一番の新人は逢坂さんだとおっしゃっていました。嬉しかったですね。同時期にいい作家が出ると盛り上がりますから。

逢坂 さっそく聞きたいんですけど、新川さんの新刊『令和その他のレイワにおける健全な反逆に関する架空六法』は、何でこんなにタイトルが長いんですか? 

新川 法律っぽいタイトルはどうですかと編集者さんから言われたんですよ。たしかに法律って長いものが多いので、長いと法律感が出るんじゃないかと。公式の略称は『令和反逆六法』です。

逢坂 なるほど。新川さんの作品を読むのって『元彼の遺言状』以来なんですけど、今回はミステリではなくSFですね。それも架空の法律を素材にしたSF。各章ごとに登場する法律や、法律の成立過程は完全に架空のものですが、描かれている世界はゆがんでいるものの、どことなく現実に似ています。

 六つの短篇が入っていますが、僕が一番すごいと思ったのは二つ目の「自家醸造の女」。今の日本では、自家製のお酒をつくることは法律で認められていませんが、「自家醸造の女」の世界では個人がつくることが許されていて、むしろ奨励されています。太平洋戦争後にGHQの主導で禁酒法が施行され、酒造メーカーが潰れた代わりに一般家庭での醸造が黙認された。禁酒法廃止後も家庭での酒造りが文化として残されたという設定です。その結果、女性が家庭でお酒をつくることを強制されるようになっています。

 禁酒法の施行から家庭でお酒をつくるところまで、法律自体はフィクショナルですが、こういう法律があったらこうなるだろうなというリアリティがありますね。お酒は女性が家庭でつくるものだという常識があることで、美味しいお酒をつくる女性が賞揚される。お酒だから荒唐無稽に思えますが、料理に置き換えれば、いまだに女性の仕事だとされている現実がある。『令和反逆六法』のほかの短篇もそうですが、星新一的な歪んだ世界を堪能できる一方で、ふと自分たちの身の回りを見ると、そこにある歪みや滑稽さが見えてくる。そういう意味ではある種のディストピア小説でもあると思います。

新川 深く読んでいただいてありがとうございます。まさにそれが狙いです。六つの短篇はいわゆるパラレルワールドもので、現実の令和と平行してあり得るレイワを六つ考えました。おっしゃるとおり最初に投げ込む石はまったくのフィクションですが、波紋の立ち方は現実に即して考えました。投げ込んだ石が突飛なものが多いので、法律とそれに振り回される人たちの様子も滑稽に見えますが、翻って見ると私たちの世界にも同じような法制度があるんですよね。タイトルではキャッチーに「健全な反逆」と書いていますが、これは現代に対する批判的精神を指しています。逢坂さんがそのことを指摘してくださったことに感謝です。

新川帆立×逢坂冬馬

仮想世界の視点で現実を描く 

新川 六つ短篇のうち「シレーナの大冒険」は、逢坂さんが『2084年のSF』(日本SF作家クラブ編)に寄稿した短篇小説「目覚めよ、眠れ」に近いところがあるんじゃないかと思ったんですが、どうでしょう。

逢坂 ああ。たしかにそうですね。

新川 「シレーナの大冒険」はメタバースの話なんですが、自分に都合がよく編集あるいは加工できる仮想世界があるとしたらどうなるかを書いています。そうなったら一定数の人間は現実を捨てて仮想世界に入りっぱなしになってしまうんじゃないか。

 一方、逢坂さんの「目覚めよ、眠れ」は「無眠社会」が実現した世界です。起きたまま眠ることができ、好きな夢が見られる。夢も仮想世界だと考えれば、着想自体は共通していますよね。ただ、どの程度の人間が仮想世界に入り浸るかというところが違います。私は一部の人間だけが夢中になって、大多数は冷ややかに見たり、潰そうとしたりするんじゃないかと思うんです。しかし逢坂さんの「目覚めよ、眠れ」はその逆で、大多数の人間が夢の世界を選ぶのではないかと書かれていますね。そこに私と逢坂さんの人間観の違いがあらわれていて面白いと思いました。

逢坂 たしかに近い問題意識を持っていたのかもしれないです。「目覚めよ、眠れ」には主に二つ課題がありました。一つは眠らなくてもいい技術がどのようなもので、実現したときに何が起きるか。実際に軍事産業分野で眠らない技術の研究が進んでいるんですよ。もう一つは夢の世界がすべて操作可能になったらどうなるか。一見快適なように見える夢の世界と、眠ることなく働き続けるしんどい現実空間。その二つが目の前にあって、どっちを選ぶかとなったらどうするだろう。そう考えて書いたのがあの短篇なんです。初めての短篇だったので、完成するまでに苦労しました。

新川 「シレーナの大冒険」も難しかったんですよ。今回の六編の中で一番大変でした。というのは、そもそも仮想世界自体がフィクションの世界なのに、さらに架空法律があるので、フィクションにフィクションを重ねることになるからなんです。現実か仮想か、読者が途中でわけ分からなくなるんじゃないかと思って苦心しました。

逢坂 なるほど。僕は視点がずっと仮想世界にあるのが面白かったですね。現実世界から書くほうが書きやすいはずだから。

新川 最初は私も近いところから少しずつ遠くのほうに行く道筋で考えていたんです。現実の世界から仮想世界へという流れで。でも、それではどうしても書けなくて、結局、遠い仮想世界から始めて近い現実に戻ってくる構成にしました。

 もう一つ難しかったのは仮想世界の人物をどう描くか。仮想世界の人物はプログラミングされたものなので、人間とすごく似ていますが、どこか人間とは違う”何か”なんですよね。「恋心」とか「恋愛」みたいなものもカッコつきのそれなので、人間サイドから見るとチープに思える書き方が正しい。でも、それが読者にただのチープと受け取られずに、作者の意図を伝えるにはどうしたらいいのか悩みましたね。

逢坂 伝わったと思いますよ。プログラミングされた存在のほうから書かれているので、プログラムされた存在だということが分かった後でも、でもこの子には自我がある、クオリアがあるんだと読者は知っている。その上での感情のチープさがあるわけだから、それが面白かったんです。こういう存在だからこそ、ところどころ人間とちょっとズレているんですよね。

新川 それならよかったです。「シレーナの大冒険」と「目覚めよ、眠れ」とを比較して面白いと思ったのが、私はどうしてもブラックユーモア的な味つけをしてしまうんですけど、逢坂さんはシリアスで美しい世界として描いていて、それも書き手のキャラクターの違いなのかなと。

逢坂 登場人物個々の内面に寄り添って書こうとするからかもしれません。「目覚めよ、眠れ」の主人公は「無眠社会」が実現し、生産効率が飛躍的に上がった世界で、無眠技術に適合できず睡眠を取らずには生きられない若者。そんな世界であっても、そこに適合しきれない人を書きたいので、自然とあんな感じになったんですよ。

新川 適合しきれない人を書きたいというのは私も同じなんです。『令和反逆六法』でも短篇ごとにいろんな世界をつくっているんですけど、主人公はその世界の規範に適合しようとして、しきれてない人たちです。世界とのズレが滑稽でちょっと切ない。身につまされるみたいなところが、小説で描くのにいい部分だなと思うんです。私の場合はちょっとアイロニカルに登場人物を見ていて、逢坂さんの場合はストレートに人物に寄り添っていくのかもしれませんね。

新川帆立×逢坂冬馬

当事者性を乗り越えるための思想

逢坂 『令和反逆六法』の六つのアイデアはすぐに思いついたんですか。

新川 編集者さんに毎回お題をもらいました。メタバースとかアニマルライツとか、いただいたお題の周辺を調べて、法律をつくるとしたらこういう立て方だろうと考えるところから始めました。法律はただではできないと言うか、その法律をつくろうとした誰かがいるはずなんです。そして、その法律が成立し得るのはどういう社会なのか、所管省庁はどこか、内閣立法か議員立法か、立法するときにどういう反対意見があったのか、などなど、小説には書いていない部分まで自分なりに詰めました。その上で、この世界にどういうキャラクター、ストーリーを走らせると面白いのかなと考えていきました。

逢坂 手間がかかっていますね。大変じゃなかったですか。

新川 楽しかったですね。私、もともと短篇を読むのも書くのも好きでデビュー前から書いていたんです。だからさっき逢坂さんが短篇執筆に苦労されたと聞いて驚いたんです。デビュー前に短篇は書いてなかったんですか。

逢坂 僕は長篇を書きたいほうなんですよ。「目覚めよ、眠れ」も、もともとは長篇でやりたかったアイデアでした。ただ、これはちょっと長篇にならないなと頭の中でお蔵入りしていたんです。でもいざ書こうと考え始めたら長くなってしまって、バッサバッサ切ってようやくあの形に仕上がりました。本当は、眠らない技術を軍隊が開発した話とか、書きたいと思っていた台詞や場面もだいぶ切りました。

新川 たしかに世界観は短篇にはもったいないぐらい大きいお話ですよね。長篇にするかなと思っていたというのは納得がいきます。

逢坂 短篇に書いたものを後で長篇に、というやり方もあるので、もしかするといずれ今度は長篇として書くかもしれません。

新川 話は変わりますけど、『同志少女よ、敵を撃て』を読んですごいと思ったのは、逢坂さんが当事者性から自由に書いていることです。ソ連の女性狙撃兵が主人公でフェミニズム小説でもある作品なので、男性作家は書きづらいと思います。しかも第二次世界大戦の独ソ戦の話だから、時代も背景も違う。当事者性をどうやって乗り越えたのでしょうか。

逢坂 それはよく聞かれますね。女性が書いたと思われることも多くて、高校生直木賞に選んでもらったとき、選考会場にいる高校生たちに激励の言葉をお願いしますと言われて、電話でいろいろ話したら「男性だったんですね」と感想を言う高校生たちがいた(笑)。

 方々で言っていることではあるんですが、『同志少女よ、敵を撃て』を男性の視点で書くとフェティシズムになってしまう。若い女性が銃を持って戦うことが男性目線だとフェティッシュな対象なんです。それだけは避けなかったので、戦争とジェンダーというテーマを前面に押し出して、女性主人公で書き切ろうというのが目標でした。そうなればフェミニズム小説になるのは当然で、なるべくしてああなったんです。でもたしかに男性の自分が、戦争とジェンダーというテーマで女性が主人公の小説を書けるのかという不安はありました。

 でも「男性だからフェミニズム小説は書けません」と言ってしまったら、それは戦争とジェンダーというテーマに対しての後退ですよね。「いや、書けます」と。じゃあ、どうやって書こうか。そのときに浮かんだのが、女性も男性も内面はそんなに変わらないんじゃないかという仮定です。つまり、女性の悩みは、女性特有の内面に起因しているんじゃなくて、女性が置かれた環境に起因しているのではないか。環境にギャップがあるからジェンダーギャップもあるんだよねと。そう考えたらだいぶ考えが整理できました。

 社会において女性が直面する理不尽さは、内面に普遍性があるにもかかわらず平等に扱われない実情に起因している。そう考えたら僕にも女性主人公の内面が書けるはずだと思ったし、実際に『同志少女よ、敵を撃て』は戦争小説としては珍しく大勢の女性読者に読んでもらっています。高校生直木賞のときも女子の票がすごく集まったそうです。

新川 私も、男性だから女性の話が書けないとか、女性だから男性の話が書けないというのは嘘だと思っています。作家なら当然書けるでしょうと思うんですね。じゃあ、なぜ逢坂さんに質問したかというと、逢坂さんのように自分の属性とまったく違う小説でデビューすると、おのずから自分と違う属性の人物を書けることの証明になるから、羨ましいなと思ったからなんです。

 私のデビュー作は自分の属性に近い女性弁護士が主人公だったので、作者がモデルじゃないかとか、どこまで実話ですかとかと言われてすごく嫌だったんです。その点、『令和反逆六法』は男性主人公の話もあって、書いていて楽しかったですね。逢坂さんと同じで、私も性別による内面の違いよりも、むしろ個人差のほうが大きいと思っているので、キャラクターの性格をよく考えれば性別関係なく書けると思っています。

逢坂 YouTubeに上がっていた新川さんのインタビュー動画をいくつか見ました。デビュー前はファンタジーを書いていて、もともと遠い世界のものが書きたかったそうですね。でも最初は身近な法曹の世界のほうが書きやすいから『元彼の遺言状』でデビューした。これからはそこから徐々に遠ざかっていきたいとおっしゃっていました。そうすると、今回の『令和反逆六法』は法律という身近な素材を使いつつ、SFという遠いジャンルに挑戦されているわけです。とくに「シレーナの大冒険」はかなり遠いところまで行きましたよね。

 だから、『元彼の遺言状』のシリーズがホップステップジャンプのホップだったとしたら、ここで今、ドーンとステップを踏み切ったのかなと。新川さんは次にジャンプしてどこに行くのかなど思いました。SFなのかファンタジーなのかは分からないけど。そういう意味ですごく大きなステップですよね。

新川 ありがとうございます。逢坂さん、めっちゃ優しいですね(笑)。

新川帆立×逢坂冬馬

作家性に向けて書いた「接待麻雀士」

――「近い」ところの話に戻して恐縮なんですが、新川さんの経歴に元プロ麻雀士とあるのが気になっていた読者は多いと思います。今回、「接待麻雀士」という短篇で麻雀を題材にされています。認知症予防を建前に賭け麻雀が合法化された世界で、接待麻雀を仕事にする女性が卓を囲んで勝負する話です。逢坂さん、読まれてどうでしたか。

逢坂 僕は麻雀ってパソコンでしかやったことないんですよ。ルールは簡単なんだけど、何回やっても役が覚えられない。だから「接待麻雀士」も正直言って細かいところまではよく分からないんですが、麻雀という題材そのものが面白いですよね。麻雀漫画を読んでいても思うことなんですが、麻雀って「この人は何を目指して戦っているのか」を描ける数少ないゲームだと思うんです。高い点を目指してリスクを冒していくのか、それとも計算高く小さい役でも上がっていくのか。勝利条件は何なのかが常に揺らいでいて、参加者それぞれが勝利を目指しているんだけれど、目指している勝利の次元が全然違うことがある。そしてそのことにゲーム終了後に気づかされたりする。

新川 そうなんですよ。私は阿佐田哲也さんの『麻雀放浪記』が大好きなんですけど、あれって麻雀が分からなくても面白く読めますよね。麻雀が分かる人が読んだらより面白いんですけど。でも、戦争小説もそうだと思うんですよ。私は軍事に詳しくないので、細かい戦局とか銃や武器がどういうものかはよく分からないんです。でも『同志少女よ、敵を撃て』は面白い。「接待麻雀士」は実際にできるイカサマ術を自分なりに考えて、実現可能な形で書きました。接待麻雀をする人は参考にしてもらうといいかなと思います(笑)。実行するにはかなり練習しないとですが。

逢坂 「接待麻雀士」は勝敗論の話だと思いましたね。その人が固執している勝利とは何か。目の前の勝利か大局的勝利か。主人公が目指している勝利が問われている。

新川 実は「接待麻雀士」は自分の作家性に向けて書いたものなんです。「接待麻雀士」の主人公は麻雀を打てればいいという人で、ほかのことにはまったく興味がない。それでいいのかという。

 私も小説を書くのが好きなので、何でも書きたいんです。書くのは楽しいし、もっとうまくなりたい、面白い小説を書きたいという気持ちは常にあります。でも「あなたは作家として何をしたいの?」と聞かれると答えられない。小説を書くという、いわば芸事にだけいそしむ人生でいいのだろうか──みたいな気持ちで書いたんです。逢坂さんは作家として何をしたいかっていう目標はありますか。

逢坂 ない(笑)。それは断言できます。コンスタントに書き続ければ、それがイコールゴールだから。というか作家としてのゴールはないと思いますね。

新川 作家は書き続ければいいというのはもちろんそうなんですが、そう思うことできょうさくになってしまうんじゃないかという不安もあって。生活の中ですべての判断軸が、これは小説に書ける/書けないになってしまって、人生のすべてが小説に飲み込まれてしまうような気がするんですよ。それってどうなんだろう。それが人間らしい暮らしだろうか。もう広く言えば、社会の構成員としてどうなのか、という若干の悩みがあるんです。

逢坂 新川さんは人生を真面目に考えているんですね。こう言うと語弊があるかもしれないですが、僕は自分の生活を向上させたいという欲求がないんですよ。

 新川さんを見ていて思うのは、ものすごくタフだということ。僕が二作目で四苦八苦しているのに、どんどん新作を出している。「何なの、この人は」と思ってます(笑)。推協フェスでお会いしたときに「今、累計で何冊出しているんですか」と聞いたら「六冊です」って返されて「六冊?」って思わず聞き返したんだけど、やっぱりそこは尊敬するんですよ。

新川 あんまりたくさん書かないほうがいいと言われることもありますよ。書き過ぎると読者がついてこないし、埋没しちゃうから。自分の作品が自分の作品に埋もれるという謎の現象が起きるらしく。でも書いてしまいますね。

逢坂 断然書いたほうがいいです。僕の場合は「次回作はどうですか」って本当によく言われるんですよ。「書ければ書いてるよ」って内心思ってる(笑)。でも、それは作家のスタイルによると思うんです。僕は自分の作品が自分の作品に埋没するなんてことは夢にも思ってなくて、むしろ忘れ去られることが一番の恐怖です。まだ刊行点数一点だから。

新川 私は忘れられる不安よりも、飽きられる不安ですね。

逢坂 でも、不本意なものを書かされるということさえなければ、多作であるということはすばらしいことだと思います。目指すべき作家像みたいなものは、後から誰かが言ってくれるんじゃないんでしょうか。僕はとにかく今、なんとか早い段階で二作目を出す。それもなるべく優れた小説を。その結果をどういうふうに読者の方が評価してくれるかだと思っています。

プロットからキャラクターが脱線

新川 逢坂さんはインタビューで、プロットをしっかり立てられるタイプだとおっしゃっていましたよね。どんなふうに立ててるんですか。というのは私、プロット立てられない人間なんです。プロットを立てられる人に、どうやって立てているかを聞いて回っているんですけど、もしよかったら教えてください。

逢坂 プロットを立てる前に、企画趣旨みたいな、演説みたいな文章を書いたりします。それは誰にも見せませんけど。それから、こういうことがあってこういうことが終わる、こういう趣旨の話だという、粗いあらすじみたいなものを立てます。その後に頭からもう一回考え直していきます。一から十まで物語をつくって、後は本文を書くだけという状態で書き始めます。

 プロットをどう書くか、という質問からは脱線しますけど、本文に入ると、不思議なもので絶対にプロット通りにいかないんです。必ずどこかで脱線が起き始めるんですが、そのときの脱線って大抵は筆が乗っている証拠です。キャラクターが自立しているかのごとく予定外の行動を始めて、自分なりの価値観を持ち始める。あるいは、書いていくうちに予定していなかったテーマが見えてくる。そういうときには、脱線したがっている方向に行くほうがだいたい正しい。一回脱線させてから修正して、もう一回修正して、こうすれば辻褄が合うなと。だから、連載はまだ書けないですね。書ける技量はないと思います。

新川 途中でキャラクターが変わってしまったりしませんか。

逢坂 しますね。その場合は変えます。そうなったときが、物語のためのキャラクターから、小説の登場人物になっていくという感じがあるんです。「あれ、本当に生きているわ、この人」という感じですね。笑うはずの人が泣き始めたり、右に行くはずが左に行き始める。なぜそうなるかというと、書いていくうちにその人の人物像が見えてくるからだと思います。「予定ではこうだけど、この人はこっちに行かないんじゃないか」みたいなことをふと感じる。そのときは、書いているときのリアリティというか、独り立ちし始めた人物像の決断を優先します。

新川 よく分かります。私、このキャラクターに謎解きをさせるつもりだったけど、謎解きのほうに行ってくれなくて、いつまでも謎が解かれないというようなことがあるので。今のお話に激しく頷いてしまいました。

――最後に若手作家の最前線にいるお二人に、作家としての信条をうかがいたいと思います。

逢坂 僕は会社員をしながら書いてきて、小説家になれなかった時間が長かったんです。何の得にもならないものを十数年書いてきて、なぜかと言えば、やっぱり楽しかったからなんですよね。だからまずは自分が楽しむことです。もちろんエンターテイメント作品として人に楽しんでもらいたいという気持ちはありますが、まずは書いている自分が楽しくないとどうにもならないですから。

 ではなぜ小説を書くのが楽しいかというと、世の中に対して思うところが常にあるから。でもそれを出力する方法は限られていて、僕の場合はそれが小説だったわけです。人によっては音楽なのかもしれないし、絵画なのかもしれません。

新川 私も基本的には書くのが楽しくて書いていますね。とくに今回の『令和反逆六法』は書いていて本当に楽しかったし、手応えがありました。ミステリではないのでこれまでの作品と違う、と思う方もいるかもしれません。でも、もともとはSFやファンタジーを書きたかったので、こっちがむしろ”素”の私なんです。この作品で変化したというよりも、やっと素の自分をお見せできる機会がいただけた。今、そんな喜びを感じています。

「小説すばる」2023年3月号転載