小学六年生になるまで自転車に乗れなかった。自転車が欲しいと伝えた際に、親から「自転車? 乗れるの? 乗れるんなら買ってあげる」とトリッキーな提案をされた。練習するための自転車がないのに、どうやって乗りかたを覚えればいいのか。結局、近所に住んでいる同級生の自転車を借りて練習した。何度も転び、膝や肘、時には顔面をすりむき、大げさでなく泥まみれ血まみれになった。膝には今も傷跡が残っている。借りた自転車も傷だらけになったはずだが、件の同級生に怒られた記憶はない。いい人!

 そうまでして乗りかたを覚えた自転車に、その後ほとんど乗らなかった。中学は自転車通学が禁止されていたし、高校へはバスで通ったからだ。二十歳の時車の免許を取って、いよいよ自転車になど乗らなくなる。

 そんな私が毎日自転車に乗るようになったのは大阪に越して、子どもを保育園に送迎するようになってからだ。二歳までは前の座席に、それ以降は後ろの座席に乗せていた。

 朝の「送」の時には一緒に歌いながら保育園に向かうことが多かった。息子のためというよりは、その後仕事に向かう自分の心を鼓舞するためである。その頃は公募の新人賞に応募していたので、落選を知った翌日は涙目で元気の出る歌をうたっていた。「スポンジ・ボブ」のオープニングなんかは謎の勢いとパワーがあってすごくよかった。

 夕方の「迎」の時は、息子が保育園でのできごとについて話すのを聞く。発表会の練習をしたとか、同輩とのおもちゃとりあいバトルで負けたとか、そんな話だ。せっかく一生懸命に喋ってくれているのに、あまり真剣に聞いてあげられない時もよくあった。帰ったら洗濯ものを畳まなきゃとか、夕飯どうしようとか、そんな些細なことで頭がいっぱいだったせいだろう。

 四歳頃になると、息子はひとりで自転車に乗るようになった。自転車の乗りかたを教えたのは夫だ。自身の泥と血の記憶が鮮明に残っていた私は夫に「かならずヘルメットと膝当ては着用させてくれ」と頼んだ。そのことを親に話したらお前は過保護だと言われたが、どうしてもケガをさせたくなかった。そのおかげか、あるいは夫の指導の賜物か、息子は無傷のまま比較的スムーズに自転車の乗りかたをマスターした。

 そうは言ってもやっぱり小学生の自転車の運転はあぶなっかしい。自転車二台で外出する時には、何度も何度も振り返って、ちゃんとついてきているか確かめた。ペダルを漕ぐスピードも遅くて、これなら歩いたほうが速いんじゃないかな、と思ったこともある。

 小学六年生ぐらいになると、自転車二台で外出する機会はほとんどなくなった。私はまた自転車に乗らなくなったが、息子は友人と自転車で遊びに行くことが多くなった。

 先日、これまで一度も行ったことのない某回転寿司チェーンの店に行ってみたい、と言われた。調べてみると、その店は家からすこし遠い場所にある。自転車で行こうということになったが、道がわからない。Googleマップのナビに頼ろうとしていると、息子が「道、なんとなくわかるかも」と言い出した。ほんとか? と疑いつつ、息子の後ろについて走ることになった。小学生の頃と逆だ。

 中学二年生になった息子の自転車は、すこぶる速かった。必死で漕がないと見失ってしまいそうなスピードで、ぐんぐん進んでいった。でも、振り返って私が遅れているのに気づくと、ちゃんと止まって待っていてくれた。

 私は方向音痴なので裏道などにはいるとすぐ迷子になるのだが、息子はそうではないらしい。頭の中に地図があるようで、私の知らない裏道を、たくさん知っていた。

 ガシガシと必死でペダルを踏みながら、ああそうか、と思っていた。ああそうか、小さかったあの子はもういないんだ、と。

 いつまでも自分が先導しているつもりでいた。守っているつもりでいた。教える立場にいるつもりでいた。でも、もうずいぶん前にそうではなくなっていたのだと気が付いた。

 すこしさびしくて、その何倍も嬉しくて、涙が出そうになったけれども、泣きながら自転車に乗ったらあぶないので、ぐっとこらえた。具体的に言うと、口を全開にし、極限まで舌を突き出した。こうすると涙が止まると耳にしたような気がしたからだ。

 結論から言うと、涙はとまらなかった。ただ泣きながら変顔をしている不審な中年女が誕生しただけだった。後であらためて調べたら涙を止める方法は「舌の先を軽く噛む」だった。ぜんぜん違うじゃねえか。