書評

80年代生まれの中国の女性作家は現代日本の生き辛さと親和性を持つ

桜庭一樹

 中国現代文学やC−POPに親しむ今日この頃だ。とても楽しい。
「好きだなぁ!」と思う作品の作者を調べると、八〇年代生まれの女性だった、ということが続いている。例えば短編小説「円寂」(『中国現代文学』十一号)の作者の笛安、「折りたたみ北京」の郝景芳、「百鬼夜行街」の夏笳、『花开忘忧』『如愿』の作詞家の唐恬、昨年の『春晩』(『紅白歌合戦』のような旧正月の大晦日の音楽番組)でフェイ・ウォンが披露してヒットした『世界贈予我的』の作詞家の袁晶など。
 わたしとは齢が一回りぐらい違うし、住む国も違う。どうしてこんなに好きなのか、我ながら気になる。
 彼女たちは〈八零后〉と呼ばれる中国の新世代だ。一九七九年から始まった一人っ子政策の申し子。改革開放後の高等教育を受けた最初の世代。そして経済成長期に育ったデジタルネイティブでもある。
 つまり、近代化された個人主義的な価値観を持ちながら、親たちが守る封建的な社会との間に挟まれて苦労した世代じゃないだろうか。……あぁ、それなら、七〇年代生まれで、新自由主義の日本で大人になった自分がこんなにも共感する理由がわかってくる。だってあなたたちは時々まるでわたしみたいだし、でもそれでいて……。
 さてこの本の作者、張天翼も八零后の女性作家だ。
 収録されている短編小説の中にいるのは、発音の同じリーリーという名の様々な女性たちだ。昔ながらの強固な集団の中にいながら、個人と個人の関係をひっそりと育むものの、程なくそれを失ってしまう。
「ただ座りたいだけなのに」では、都会の学校から二十時間以上かけて実家に帰省する女学生が、大量の乗客で阿鼻叫喚の列車内で苦しむ。車掌の青年との間に助け合いの絆が生まれたと見えたが、ある理由で無惨に消える。「床の上の血」では、一卵性親子のような母娘がおり、経血のイメージによる赤い糸で固く結びついているが、母の再婚による家父長制的な新家庭の中でブツリと切れてしまう。「春の塩」では、恋人どうしが結婚と出産を機に、まるで鍋に放りこまれた二つの具のように、年配家族などの集団に回収され、相手を見失う。
 作者が繰り返し描くのは、大切な人と二人で心を通わせることができたのに、集団の中で、相手との同期を容赦なく断ち切られることの孤独と諦念だ。わたしは二つの要素から強く感情移入して読んだ。
 一つは、自分自身も日本で暮らしながら感じていることを投影しての共感だ。女性が個人の幸福を追求したり、思想信条の自由をもったりすることの困難さ。例えば小説を書いて自己表現したり、こんなふうに書評を書いて意見を表明したりして自活すること自体が、封建的な価値観を持つ親の生き方を否定したり、彼らが所属する昔ながらの社会集団に反逆したことになってしまったりする。個人の自由と集団内の義務の相容れなさが生む、解決困難な大量の諸問題。驚くほど共通している。
 二つ目は、異文化としての中国でわたしがいま感じている驚きについてだ。中国では大切な人を〈同化人トンファレン〉として〈関係グワンシー〉という集団に歓迎する。個人としてだけ付き合うのは〈客気クーチー〉(水臭い、距離、冷酷)であり、集団という鍋の中で境目がわからないほど溶け合う〈フェンビーツー〉が愛だ。……これについてはまだ詳しくなく、今まさに「?」「?」とパニックに陥ったりもがいたりしているところで、正確な説明ができているかどうか自信がないが。とにかくわたしは、誰とでもその人と一対一の個人的な関係を大切に思うから、仲良くなったという理由で集団に回収されていくことが心苦しい時もある。こんなふうに感じるのは外国人だからか、と頭を抱える経験が何度かあったから、張天翼の作品はそんなわたしの気持ちを楽にしてくれた。あっ、なんだ、やっぱり苦しいこともあるんだね、と。しかもこれをテーマにする作家もいるぐらい、現代人が感じがちなことなんだ、と。
「雪山」は最も好きな作品だ。個人と個人の絆が失われても、最後にひっそり再び繫ぎあわされる物語だからだ。主人公は、中学生のときに目の前で急病によって亡くなった友人の母と再会する。この母に当時の主人公は世話になった。友人の死は主人公のせいではないが、村の大人たちに責め立てられて辛い思いもした。最後に友人の母のある感情を主人公が黙って受けいれて、相手を癒すことで、二人の心は奇跡的に再同期する。このリーリーは収録作の中で唯一、相手を失わなかった。
 彼女の最後の選択には、ある静けさ、相手を思いながらも、声高に伝えるのではなく、沈黙というお湯の中にそっと沈めて温めてあげるような控えめな愛がある。これは〈ウェンロウ〉という性質だが、日本語に訳すのが難しい。〈優しさ〉〈柔和〉〈包容〉など複数の単語を合わせないと意味を正確に表せないのだという。
 わたしも中国の朋友から温柔の心を受けて涙した経験がある。この中国式温婉表現の柔らかさを巧みに描けることこそ、八零后の女性作家の聡明さではないか。温柔とは誰かと一対一になったとき発揮される静謐な秘密の温情だから。きっと〈関係〉の中にいても孤独を受け入れる胆力があるから、中国人の強さだけでなく、優しさという美点も繊細に描けるのだろう。
 一方「ただ座りたいだけなのに」に登場する青年車掌は、自分が持たざる者であるからこそ、一見、恵まれているように見える女学生を性的に貶めて溜飲を下げようとする。弱者という自認が、自身に対して性加害の許可を与えるという狡猾さがやるせない。
 この短編集は中国で『如雪如山』として刊行されて非常に話題になり、国内最大の読書サイトで国内フィクション一位に選ばれた。日本でも広く読まれることを願う。

「すばる」2026年6月号転載

中国で絶大な人気を誇る若手実力派が描く、現代女性の悲哀と絶望

倉本さおり

 中国ではリーという音がよくある女性の名前リストの常連なのだそうだ。彼女たちはまた同じ字を重ねるかたちで呼ばれることが多い。適当なマンションの前に立って大声でリーリーと呼べば誰かが返事をする有様だという。
 立立リーリー粒粒リーリー瀝瀝リーリー儷儷リーリー麗麗リーリー莉莉リーリー……大学生から七十代まで、本書に収められた六人の「リーリー」の人生の断片は、韓国のベストセラー『82年生まれ、キム・ジヨン』で描かれた無数の「ジヨン」の悲哀と絶望にも通ずる。猛然と砂埃をあげる社会のなかでもみくちゃになるうちにならされてきた彼女たちの葛藤は、万華鏡を覗きこんだように束の間きらめき互いを照らしながらつらなっていく。
 例えば、養親に遠慮して「座席なし」の切符しか手に入れられないまま春節の帰省ラッシュの長距離列車に二十四時間以上も押し込められることになった女子大学生・立立の顚末(「ただ座りたいだけなのに」)。彼女の背後には儒教に根差した家父長制規範と一人っ子政策の影があり、文字どおりすし詰めの列車内の様相は急速な市場化が進んだ1990年代後半当時の中国社会の縮図だ。
 他にも、方言の飛び交うタクシーの車内があり、常連ばかりが集う公営プールがあり、どこも似たり寄ったりの台所があってショッピングセンターがある。そこには、母親が再婚相手と暮らす家でふいに生理となってしまい狼狽する娘がいて、仕事帰りの自分にとって唯一の息抜きといえる場所で痴漢に遭う女性がいる。妊娠・出産と引き替えにそれまでのアイデンティティが剝奪されていく過程に心身を病んでいく若い妻がいれば、息子を失ったことで社会の周縁へとはじきだされてしまった母親がいる。作中の言葉を借りるなら、〈病気が同じでも痛みはみんな違う〉のだ。
 本作は中国最大の読書サイト「ドウバン」で2022年国内フィクション部門第1位となった短編集の邦訳版だ。作者の張天翼は「現代女性を描く旗手」として目下絶大な人気を集める若手の実力派。その筆は緻密にして大胆、繊細ながら実にウィットに富み、なんてことはない生活の細部から社会構造そのものの歪みやくらがりを見事にたちのぼらせる。

くらもと・さおり●書評家

「青春と読書」2026年5月号転載