
プロフィール
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山崎 ナオコーラ (やまざき・なおこーら)
作家。親。性別非公表。「人のセックスを笑うな」で純文学作家デビュー。今は、一歳と四歳の子どもと暮らしながら東京の田舎で文学活動を行なっている。著書に、育児エッセイ『母ではなくて、親になる』、容姿差別エッセイ『ブスの自信の持ち方』、契約社員小説『「ジューシー」ってなんですか?』、普通の人の小説『反人生』、主夫の時給をテーマにした新感覚経済小説『リボンの男』など。目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。
山崎ナオコーラ『肉体のジェンダーを笑うな』より
「父乳の夢」
ふわり。哲夫の坊主頭にレースのカーテンが引っかかった。夕方、庭に干してあったベビー服を取り込み、掃き出し窓を開けて部屋へ戻ろうとしたところだった。掃き出し窓のすぐ横に姿見を置いている。そこに、百合柄のレースのカーテンが額にかかる哲夫の顔が映った。マリア様みたいだな、と哲夫は思った。新婚旅行でイタリアへ行ったとき、教会に飾られていた宗教画の中のマリア様がこういう布を頭に掛けていた。いや、あの絵だけではない。多くの宗教画で、マリア様は頭に布を被っている。自分の頭に布がかかったのは何かの啓示かもしれない、と哲夫はぼんやり考える。大学時代に額が後退し始め、思い切って坊主にした。さっぱりして気分が良いが、坊主頭への偏見から恐れられがちで、その上、哲夫の顔立ちはごついので、初対面の人になかなか打ち解けてもらえない。それで、外出時につい可愛い感じの帽子を被ってしまう。堂々と坊主で過ごしたい。でも、頭に何かあると落ち着く。揺れ動く哲夫の頭にふわりとカーテンがかかり、もしかしたら自分もマリア様になれるのかもしれない、なんて夢が湧く。母親の象徴のようなマリア様に。自分も近づけるなら、近づきたい。
とはいえ、いつまでもカーテンを被っているわけにはいかない。哲夫は手でカーテンを払い、
「まだ、ちょっと、湿っているかなあ。風呂上がりに着せようと思ったんだけれども」
後ろ手に窓を閉め、五十センチの新生児用ロンパースを両手で広げた。ついさっき家に帰ってきたばかりの哲夫は、ネイビーのネクタイの先をワイシャツの胸ポケットに入れ、ズボンだけ黄色いタータンチェックのハーフパンツに穿き替えている。ネクタイが首にぶら下がっていると労働の邪魔になるので、哲夫はよく胸ポケットに仕舞う。仕事の邪魔になるネクタイというものを、なぜ仕事中に着ける習慣があるのか謎だ。哲夫は長ズボンも好きではない。半ズボンのスーツを作って欲しい。
「そう? 昼間、きれいに晴れ上がっていたから干したんだけれど。じゃあ、部屋干しする?」
哲夫のパートナーの今日子が言う。今日子は紺色に白いラインが二本入ったジャージの上下を着て、畳に敷いた布団の上であぐらをかきながら薫に母乳をあげていた。こういう格好の今日子を哲夫は見慣れていない。パンツスーツでかっこつけている姿の方が目に馴染んでいる。哲夫も今日子も三十四歳で、同い年なのだが、今日子の方が年上に見られがちだ。顔の形が上下に長いせいもあるかもしれないが、服装に威厳を持たせがちなのが大きな理由だろう。どうも、今日子は実年齢より上に見せて周囲の人の信用を得たい気持ちがあるみたいだ。これまでは、寝るときのパジャマの他は、家でもかっちりした服装をしがちだった。日曜日でも、襟付きのシャツにチノパン、というのが精一杯のリラックスだった。ジャージなんて持っていたのか、と哲夫は瞬きする。ショートカットの髪は、寝癖がそのままになっていて、前髪をちょんまげのように結んでいる。こんな髪型も、子どもが生まれる前は見たことがなかった。
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