岩井圭也さんの最新小説『風車と巨人』の主人公は、ドキュメンタリー番組のディレクター・三田紗矢子です。彼女が取材を熱望するのが「不老因子」の研究で注目を集める大学教授・嘉山宗弘。しかし、取材の過程で「不正疑惑」が浮かび上がると、自らのカメラで真実を明らかにしようと、独自取材にのめり込んでいきます。嘉山は何を語り、三田は何を撮るのか。ドキュメンタリーの世界を通して「真実とは何か」をサスペンスフルに描き出した岩井さんの「会いたい人」は、ドキュメンタリー監督の山崎エマさんでした。

日本の公立小学校を舞台にした山崎さん監督の映画『小学校~それは小さな社会~』は、世界で高い評価を得ました(※)。イギリス人の父と日本人の母の間に生まれて日本で育ち、ニューヨークでドキュメンタリーを学んだ後現地で働き、現在は家族と日本で暮らす山崎さんの半生を綴った『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』(新潮新書)も話題を呼んでいます。世界を知るドキュメンタリー監督と、ドキュメンタリーが好きな小説家が出会い、真実と虚構について、ドキュメンタリーとフィクションの可能性について、語り合いました。

※映画の短編版が、第97回アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門にノミネートされた

岩井圭也×山崎エマ

構成/砂田明子 撮影/露木聡子 撮影協力/MATCHA&ESPRESSO MIYANO-YU

夢にまで出てくる苦しみや悩みが書かれていた

岩井 『風車と巨人』は、「岩井さんが好きなものは何ですか」という編集者との話し合いから始まったんです。昔からドキュメンタリーが好きだったので、じゃあ、ドキュメンタリーを書こうと。山崎さんの映画も大変面白く拝見しました。今日はよろしくお願いします。

山崎 読ませていただいて、この小説の著者──つまり岩井さんは、ドキュメンタリーを作ったことがあるんじゃないか、と思いました。主人公と私は全く異なるスタイルで、異なるタイプのドキュメンタリーを作っていますが、それでも私がドキュメンタリーを撮るようになってから感じ続けている葛藤や、夢にまで出てくるような苦しみや悩みが書かれていたからです。
 この小説に書かれているように、ドキュメンタリー制作は本当に大変で、特殊で、日本ではまだあまり知られていない仕事です。私は日本をドキュメンタリー大国にしたいと思っていますが、現場の人間だけの頑張りでは難しいんですね。だから「小説」という形で、しかもこれほどリアルに、ドキュメンタリーの世界を描いてもらえて嬉しかったし、面白かったです。シリーズ化してもらいたいくらい。

岩井 ありがとうございます。書くにあたって先例を探したんですよ。先人がたくさんいる分野は避けなきゃいけないという意識はあるんですが、ドキュメンタリーを撮っている人を題材にしたフィクションって、意外とない。ノンフィクション作家を扱う作品はあっても映像作家の話は見当たらなくて、よし、これは書くべきだと。

山崎 日本のドキュメンタリー作品は、ディレクターの色を出さないような作品が多いからかもしれませんね。もちろんそうではない、作家性が強いドキュメンタリーもありますが、私が育ったアメリカのドキュメンタリーに比べたら、格段に少ないと思います。

岩井 今回の本を書くにあたって、いろんな方に取材をさせてもらって感じたのは、映像はけっこう「チーム戦」だということ。ディレクターと編集が二人三脚で作っていたり、プロデューサーの発言権が大きかったりと、それぞれがそれぞれの立場からガンガン意見を言っている。『風車と巨人』にもベテラン編集マンを出しましたが、そういう作り方が作品を良くする一方で、責任の所在が特定しづらくなる一因かなと、僕なりに考えました。

山崎 それはめちゃくちゃ日本らしい状況で、監督が若くて、カメラマンなどスタッフがベテランだと、なかなか監督の言うことを聞いてくれない……ということを私も経験しました。アメリカでは反対に、作品は当然監督のもので、監督の思いがないと始まらないし、そこに向けてチームが集められるわけですが。私はいろんなやり方があっていいと思うんです。多様な作品が存在することが望ましいので、客観性を重視するドキュメンタリーがあっていいし、作家性の高いドキュメンタリーもいい。ただ、日本は後者が少ない中で、いよいよ作家性を問うような作品が小説として出てきたぞ! とワクワクしました。

岩井 そう言っていただけて嬉しいです。書いた甲斐がありました。

リアルでは体験できない「凝縮した真実」を、映画で体験してもらいたい

岩井 僕は山崎さんの『小学校』を観て、ものすごく作家性が高い映画だと感じました。『風車と巨人』の中に、「実景」と「雑感」という、取材で知った言葉を出しています。映像の文脈を伝えるために使われる素材が「雑感」で、作品の核になる本質的な素材が「実景」。ドキュメンタリーの世界では、「雑感ばかり撮ってないで実景を撮れ」と言われることがあると聞きましたが、『小学校』はまさに「実景」しかない作品だなと。どうやったら意味のある映像ばかりを撮れるんだろうと感動しましたね。

山崎 ありがとうございます。『小学校』は学校に毎日行って、150日、700時間、撮影させてもらったんですね。たとえば「カーテンが揺れている」場面一つを、何パターンも撮りました。で、編集のときに、表現したい感情にふさわしい映像を選んでいく。選択肢が多いほど嬉しいので、現場では、とにかくたくさんの映像を撮ります。

岩井 たとえば子供たちが給食を黙食している場面が印象に残っているんですが、あれもたぶん、100回、200回と撮った中のワン・シーンを使っているわけですよね。どういう基準で、「これだ」と選ぶんですか? 言語化が難しいかもしれませんが。

山崎 難しいですね(笑)。おっしゃるように、給食の場面も、それから掃除の場面も、100回以上は撮ったと思います。今日は配膳しているところだけを撮ろう、今日は廊下に並んでいるところだけを撮ろうといった感じで、100回なら100回撮りためた映像を、編集で人の流れや感情、ストーリー、光の具合などを考えながら凝縮していくのが私のやり方です。

岩井 Aの日に撮った後方からの映像に、Bの日に撮った横からの映像をつなぐ、ということもありますか?

山崎 給食の場面ではありました。そういう映像は真実ではない、と感じる人がいるのもわかりますし、そう感じてもらってもいいと思っています。でも私は、昨日の給食も、今日の給食も、給食として見せるぶんには意味は変わらないと思っています。というのも、私が求めているのは「凝縮した真実」なんですね。リアルでは一日で体験できないことを、映画では体験できるようなドキュメンタリー作品を目指しています。

岩井 凝縮した真実、という言葉を聞いて、ものすごく腑に落ちました。僕は「あやめちゃん」の最後のシーンで、嗚咽するくらい泣いたんです。映画を観て涙が滲む、くらいはたまにありますが、声をあげて泣いたのは十数年ぶりで、自分でもびっくりしてしまった。自分の娘と重ね合わせて観たということもありますが、凝縮されたものが押し寄せてきたんだなと、お話を聞いてよくわかりました。

岩井圭也×山崎エマ

「嘘が許されない」研究とドキュメンタリーは似ている

岩井 フィクションの書き手である僕は、「事実の重み」に対して、超えられない壁みたいなものをずっと感じています。もちろん、ドキュメンタリーにも監督、あるいは編集の意図や視点は当然入っている。なんだけど、撮れている映像自体は事実です、というベースがある。ものすごく強い武器だと思うんです。

山崎 隣の芝生は青く見えるのかもしれませんね。事実の強さはあると思いますが、同時にこれほど難しい、責任の重いことはないと思っていて……。さきほど「実景」が撮れていると褒めてくださいましたが、悔しいことのほうが多いんです。私は目撃したけど、ちょうどカメラマンが隣の教室にいたから撮れなかった場面とか、起承転結の、「起承転」までは撮れたのに「結」がないから使えなかった映像とか、取材者との関係性で世に出せなかったこと……そういうことばかりを思い出します。だから野球だと、3割打つとすごいバッターですが、ドキュメンタリーは1割いけばいいかな、くらい。難しいことをやるから魅力があるとは感じていますが。

岩井 そうなんでしょうね。だからこそ、今回僕が書いた小説のラストのような展開が起こりうると考えたんです。僕は理系で大学院でバイオの研究をし、メーカーに研究職として就職しました。研究畑を長く歩んだ人間として思うのは、ドキュメンタリーと研究の世界は似ている。事実を積み重ねて、編集して、世に出すという点でよく似ているんです。で、研究をしていると、悪魔がささやく瞬間があるんですよ。「数字変えちゃえよ」と。そんなことをしたら大きな代償を払うことはわかっているんですが、抗えない人もいるだろうなと。それはどんな人だろう……と、今回の小説では考えていったわけです。

山崎 主人公の三田がやったことについて、自分だったらどうするだろうと考えましたし、この本を読みながら、高校生のときに見たアメリカのドキュメンタリー映画を思い出しました。『My Kid Could Paint That』という作品で、私はすごく影響を受けています。
 4歳の子供が描いた絵が高額で売れるようになり、天才画家として全米で有名になるんです。監督は彼女と、彼女を支える家族のドキュメンタリーを撮り始めるんですが、撮影の途中で、実は親が描いてるんじゃないかという疑惑が持ち上がる。そこからドキュメンタリーの方向性がどんどん変わっていって……と、細部は記憶が曖昧なので興味のある方にはぜひ観ていただきたいのですが、つまりドキュメンタリーってシンプルなものではない。岩井さんのこの本もそうですが、素敵な人だな、世に広めたいな、というポジティブな理由で撮り始めた人を、知れば知るほど予期しない側面が見えてくることは当然あるし、知ったことや撮ったことを全部世に出すわけでもない。そういった過程が『My Kid Could Paint That』はあらわになっている映画で、久しぶりに見返してみたいと思いました。

岩井 すごい作品ですね。撮れてしまった、ということなんでしょうね。真実と思われているものの裏側には僕もすごく興味があって、やはりドキュメンタリーは面白いし、研究と似ているなと。嘘が許されない二大巨頭だなと。

山崎 でもどうでしょう。森達也さんが『ドキュメンタリーは嘘をつく』という本を書いているように、何が嘘で何が本当かは奥深くて、議論の余地があると思います。

岩井圭也×山崎エマ

編集された発言が巻き起こした、「ドキュメンタリーとは何か」論争

山崎 一方でドキュメンタリーは、「事実を描いている」という信頼の上に見られ続けないと危ないジャンルだとも思っています。10年ほど前にアメリカでは、ドキュメンタリーとは何か、という議論が起きました。きっかけになったのは『ザ・ジンクス(The Jinx)』というテレビシリーズで、殺人の容疑がかかった大富豪をインタビューで追い詰めていくんですが、ある時、彼がトイレで、殺人をほのめかすような発言をぽろっとするんです。ピンマイクを外し忘れていたことで、偶然撮れてしまった発言だった。
 ドキュメンタリーのラストにその発言が使われたので、見た人は当然、彼はクロだと思うし、実際に逮捕・起訴される。しかし裁判で、トイレの発言が編集されていたことが明らかになります。発言の意図は変えていないと制作側は主張しましたが、大きな議論になった。そんな事件がありまして、ドキュメンタリーの信頼が薄れることはよくないと私は思ったりしました。
 ただ、日本は事実やリアルに囚われすぎているようにも感じます。それはピュアで素敵な考え方ですが、日本でドキュメンタリーの幅が広がらない理由なのかなとも思うんです。

岩井 なるほど。そもそもアメリカではドキュメンタリーがすごく盛り上がっているんですね。

山崎 ネットフリックスをはじめとする配信が黄金期を作りました。私がニューヨーク大学を出て、仕事を始めた頃がピークで、ドキュメンタリーをやっていると言うと「クール!」と必ず言われて。ハリウッド映画と同じくらいドキュメンタリーは身近なもので、シリアスな作品からエンタメのような作品まであるし、リアリティーショーやフェイクドキュメンタリーが流行ったことで、フィクションとノンフィクションの境界が曖昧になってもいます。最近はピークを越えて、業界がちょっと困難になってきていますね。

岩井 そうした多様なドキュメンタリーを、アメリカの人はどう受け止めているのでしょうか。事実に対しては、日本より鈍感だったりしますか?

山崎 基本的に「作られたものである」という認識が、ドキュメンタリーに対してもありますね。切り取られているし、カメラが回っているし、ピンマイクもついているし、何らかの合意のもとで作られたものであると。しかし、そこに本物や事実のエッセンスがあるからドキュメンタリーでありノンフィクションである、という理解で見ている視聴者が多いと思います。

内面を書ける小説と、解釈の余地を残すドキュメンタリー

岩井 すごく面白いです。事実の捉え方にはいろいろあるということですね。先ほど述べたように僕は「事実の重み」に敬意を払いながら、それをどう超えていくかをフィクションの書き手として日々考えていますが、その「アンサー」とまでは言えないかもしれないけれど、現時点での到達点が、今回の小説だと思っています。

 書き終えてあらためて思うのは、フィクションの良さは、誰の話でもないからこそ、誰の話にもなれるところ。私の人生でもこういうことがあったな、という普遍性を持ち得るのではないかということです。それからもう一つが、個人の内面を書けるところ。

山崎 そうですね。うらやましいですね。

岩井 内面を書けるってめちゃくちゃ有利なことだと思っていて。言葉でイエスと言っていても本心はノーということはよくあるわけで、そういう人間の「本心」を描写し切れるのが小説の強みだなと思います。
 一方で、そこまで描写できないことによって多様な読みや解釈の余地を残す良さが、ドキュメンタリーにはありますね。

山崎 それを今回、本(『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』)を書いて痛感しました。映像ではあえて曖昧にしてはっきりさせなかった部分を、はっきりさせていく覚悟を持たなければならなかった。私の映画はナレーションがないので──ナレーションなしで作家性を込めたいからそういう映画を作っているんですが──、映像と言葉の違いもあったと思います。

岩井 この新書で映画の裏側もよくわかりましたが、山崎さんの人生も読めてよかったです。なぜドキュメンタリー監督になられたかとか。

山崎 私の原点は、「今日、学校でこういうことがあってね」と、何でもないことを親に面白可笑しく喋っていた子供の頃にあります。目の前で起きていることを、自分を通して伝えることが、昔から好きだったんですね。10代にモダンバレエをやっていたことも影響していると思います。何かを伝えたい、自分の視点で伝えたい。ただベースは実際に起きたことや目の前の課題に関心や興味が向いていて、高校生の頃に映像と出会って、これだ、と。

岩井 僕も小学4年生の頃から作家になりたいと思っていました。読んでいた雑誌のミステリー連載が終わっちゃったんです。もっと読みたいから、じゃあ、自分で書こうと思ったのが始まりで。

山崎 すごい!

岩井 でもその後、理系に進んで、長くエビデンスガチガチの世界にいたら、その反動のように小説を書き始めて、今に至るという感じですね。

『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』
山崎エマ/著(新潮社)

「寝ても覚めてドキュメンタリー」の山崎さん、「趣味は小説」の岩井さんのこれから

岩井 そういう僕のような人間からすると、日本で生まれて公立小学校からインターナショナルスクールに進んで、ニューヨーク大学を出て就職して、日本に戻ってきて……という山崎さんのキャリアは特殊に感じますが、本に書かれている内容はすごく普遍的だった。新しい文化に出会ったとき、人は戸惑いながらどう馴染んでいくか、という誰しもが経験することが書いてあるので、誰もが楽しめる本だと思いました。

山崎 ありがとうございます。この本は、タイトルの「それでも」がポイントかなと思っています。私は日本に居心地の悪さを感じていた時期が長かったし、アメリカに行って、日本にはもう帰らないと思っていた時期もあったんです。
 それでもいろんな文化やシステムを比べられる環境にいたことで、日本の社会の強みや弱み、当たり前と思っていたことの価値に気づかされました。だからアメリカ人の夫との間に生まれた息子を、日本の公立小学校に通わせたいと思っています。すべて同意してもらえなくても、何か一つでも、気づきのある本になっていたら嬉しいですね。

岩井 ちなみに山崎さんはフィクションをやってみたいという気持ちはありますか? 実は僕はいま、ノンフィクションに取り組んでいるんです。ものすごく大変だけど、両方やることは自分の糧になると実感しているところです。

山崎 そうなんですか。それは楽しみですが、私は、フィクション的要素があったほうが伝わるテーマや人物に出会ったら、考えるかもしれませんね。最近はハイブリッドな作品も増えてきていますし、拒んでもいないけど求めてもいない、というのが正直なところです。
 もうね、私は寝ても覚めてもドキュメンタリーなんですよ。仕事も趣味も情熱もすべてドキュメンタリーで、最近、ドキュメンタリースクール「DDDD Film School」を仲間と立ち上げました。他者の考えや異なる文化を伝えるドキュメンタリーは、分断や無関心に対抗するツールになると信じています。

岩井 僕も似ています。趣味が小説なんですよ。他にありませんか? と聞かれて思いつくのは「子育て」か「家事」。それらは当たり前のことなので、いつも趣味は小説に落ち着くと。そんな生き方をしていますが、おっしゃるようにノンフィクションとフィクションの融合も進んでいるので新しい表現方法も模索したいですし、今日お話を伺って、狭い世界に閉じこもることなく、いろいろやっていきたいと思いました。

岩井圭也×山崎エマ