不思議な夜だ。車道で寝ていたひっしーとふたりで歩いていたら、コインランドリーに住んでるらしい鮎太もいっしょになって、こうして三人で歩いている。

 鮎太は長い腕のひじの先をぶらぶらと力を抜くように揺らしていて、右手の中指におもちゃみたいな水色っぽい半透明のリングをつけている。鮎太が腕を振るのに合わせてリングは街灯の色を吸い込むようにじんじん光る。

 リングめがけて光が降ってきているみたいで、春井は思わず「わあ」と口にした。言うというより、口から漏れたみたいだった。むかしユウにお菓子のおまけのドラえもんのリングをあげたらすごくよろこんでくれたことを思い出して、うれしくなった。

「ええやろ、これ」

 鮎太は笑っているらしいのに口角が上がらなくて、むしろ下がっている。ええやろ、これ、という言葉がなかったら、ちょっと不機嫌に見えるかもしれない。こういう人もいるのだと春井は最近わかってきた。言葉と表情が必ずしも繋がっているわけではない人が、どうやらたくさんいるのだということが。

 春井は笑うのが得意だ。自分が困っていたらユウが困るし、自分が笑っていたらミエちゃんの機嫌がよくなるからと、笑う練習を一日に何時間もしたことがある。一度笑ってばかりで気持ち悪いと言われたことがあるから、悲しい顔も練習してうまくできるようになったし、こういうのはケースバイケースなんだよって、ユウに表情を教えたこともある。

 鮎太はリングを春井とひっしーに見せびらかすように夜空に掲げた。

「マイ、プレシャァァァス」

「え?」

「それなに?」

「知らん? ロードオブザリング。指輪にとりつかれたかわいそうなスメアゴル。藤田さんがDVDいらんからって、持ってるやつくれるんよな」

「スメ……?」

「あー。知らんか。しゃあないなあ。最近の若者やなあ」

「鮎太はさあ、何歳?」

「ぼく? 一七」

「オレらと同じじゃん」

「あー、やっぱそう? そんな感じかなあ思っててん。タメやんぼくら。へえ」

 もう一度、へえ、と言う。鮎太は空気に重さがあるか確かめるみたいに腕を前後に振り、足踏みするようにゆっくり歩き、口角の下がった笑みを顔に浮かべ続けている。

「たのしいなあ! はじめて夜ふかししたときみたいな感じ。わかる?」

「あの、鮎太、声が」

「あー。声大きかった? ごめんなあ。藤田さん難聴やからデカい声でしゃべるん癖みたいになってんのかも」

 鮎太はしぃぃっとひとさし指を口にあてる。

「夜中やで? 静かに?」

 自分でツッコんで笑っている。

「元気だな。ハハ」

「うん。ぼくは元気や。ひっしーは?」

「ハハ」

「なんそれ。春井は?」

「えっと?」

「元気かって」

「元気? 元気って……」

 どういう感じ……だっけ?

 言葉の意味としては春井にもわかる。でも、自分自身にあてはめようとすると、途端にわからなくなった。

「あの、僕は、頭痛がしたり、頭のなかがずーんと重たかったり、一日中ねむかったり、左のみぞおちの下のあたりがウッとなったり、そういう日が、けっこうよくあって。だから、元気とは、っていう」

「それ、大変やなあ」

「みんな、そんなものなのかなって」

「ちゃうんちゃう?」

「ちゃうんちゃう……?」

「違うんじゃないかって」

「えっと。じゃあ、鮎太は、けっこう体調がいい日が多いってこと?」

「春井と比べたら元気ぴんぴんやと思う」

「ぴんぴん」

「苦労してんねやな」

「そうなのかな」

「ひっしーは、元気?」

「ハハ」

「それええて」

「うーん、興味ないよね。オレが元気とか、元気ないとか?」

 ひっしーがエナジードリンクの缶を爪でぺリコンとはじく。

「自分のことやのに?」

「だからなんだよな」

 春井には、ひっしーの言っていることがなんとなくわかる気がした。こういう話をするまで、自分の体なんてずっとそんなものだと思っていた。でも、この「なんとなく」も「そんなもの」も、「興味ない」とは、どこか違う気がする。

 突然ひっしーが鮎太のシャツの裾のあまったところを指でつまみ、顔を近づけてすんすんとにおいを嗅いだ。

「なんや急に」

「ほら」

 ひっしーはお菓子でも渡すみたいに鮎太の腕を持ち上げて春井に近づけた。なになに、と鮎太はくすぐったそうで、春井はさっきのひっしーを真似してすんすんとにおいを嗅いでみる。

 いいにおいがした。落ち着くにおい。熱と洗剤みたいなにおい。

「これって」

「な」

「なんなんさっきから」

「鮎太、コインランドリーのにおいがする」

「ええ?」

 鮎太は怪訝そうにシャツの裾を鼻にあてるけど、表情を変えない。

「においなんてせんけど」

「染みついてるんだ。もう」

「ほんまに? ふたりでうそついてるんじゃなくて?」

「ホンマにホンマにぃ」

 ひっしーは鮎太をまねた下手な関西弁で言ったかと思うと、突然ぴたっと立ち止まって、真顔になった。真顔というか、なにかをさぐる目つきに見えた。そう見えたかと思うと、なんだかひるんでいるような、血の気の引いたような感じで、大きく息を吸って、肩が膨らんだ。

 ひっしーの目線の先で、ぶらーん、ぶらーん、と光がゆれはじめた。

 曲がり角の向こうにだれかがいるようだった。その人の手からアスファルトの上まで、ひとすじの光が一定のリズムでゆれていて、そのきっさきが見えていた。

 光が伸びてきて、だれかはこちらに近づいてくる。春井も鮎太も立ち止まって息を呑んだ。

 脚を組むみたいに、もうひとすじの黄色い光が交差する。きっとふたりいて——

 ザザッ。

 実物を聞いたことはないのに、そのザザッを春井は無線の音だと思った。くぐもった声が続く。

 ひっしーが肩を叩いてくる。

 けいさつだ!

 口パクでそう言っている。

 にげるぞ!

 音は聞こえないのに、叫ぶみたいに。

 汗のにおいがした。ポテトチップスみたいな塩っぽい汗のにおい。ひっしーが光とは反対の方に駆け出すと、春井の体もつられてそっちへ動きはじめた。ひっしーの手を取っていた。

 さし出されたから、つい摑んでしまった。その驚きをいなすようにもう一方の手を伸ばすと、鮎太が摑んだ。

「なんで、逃げんねん。逃げたら追いかけてくるやろ」

 鮎太は小声で、ひっしーはもっと、足音に紛れるくらい小声で、

「見つかったら補導されるだろ」

「逃げて捕まる方がタチ悪いって」

「なんて説明すんだよ。オレらのこと」

「ぼくの友だちとか、言うたらええやん。泊まりきててとか。藤田さんも話合わせてくれるって」

「春井が、困るだろ」

「えっ、僕?」

「そうなんか?」

「まあ、うん」

 僕の、ためなのかな。そういうのより、ひっしーの顔は、こわがっていた。

 だから春井は、ひっしーを守るみたいに鮎太に、

「逃げよう」

 振り返ることなく夜の下を走った。

 三人ともしばらくは無言で、足音も控えめに、つま先で駆け続けた。ハァハァと息遣いだけが聞こえる。追手は? わからない。自分たちの息がもつれ合ってほかの音を遠ざけていた。

 はじめのうちは鮎太が道案内してくれていたが、鮎太も知らないところまでくると、ひっしーが先導してジグザグと入り組んだ住宅街に入った。知らない街のはずなのに思い切りがよかった。まるで、こうして逃げることに慣れているみたいだった。

 どこかの家のベランダに観葉植物の植木鉢が並んでいて、街灯のあかりを受けて大きな葉がぎらりとかがやいていた。脇道を見ると、遠くで一匹の猫がぼわぼわと夜の輪郭になって、何事かと驚くように立ち止まってこちらを見ていた。無人の電話ボックス。そのガラスに自分たちがうつっては消えていった。走れば走るほど汗がわいた。なんだか湿度を吸い込んだみたいに、体がねっとりしている。

 握りしめた前の手からひっしーの焦りが、うしろの手から鮎太の戸惑いが伝わってくる。春井はふたりに挟まれながら、どうしてか安心してねむい気がした。

 真ん中でよかった。先頭だったら、自分は、なにかを背負う余裕なんてなくてダメになっていたかもしれない。最後だったら、そんなに人を頼るのがはじめてで、わけがわからなくなっていたかもしれない。

 息がしんどくなってから何分も経ってようやく振り返ると、あの光はもうなかった。それから、数メートルごとにこまめに振り返っても、もうだれも追ってきてはいなかった。

「ひっしー、もう、」

 ハァハァと息が上がった春井の言葉を引き継ぐみたいに鮎太が、

「もう、おらへんで」

「あっマジ?」

 軽くてつやのある声。さっきまでの怯えた感じはもうない、自分の知っているひっしーだと春井はホッとする。

「でもまあ、もうちょい離れたいな」

 そう言ってひっしーは足を止めないから、春井も鮎太も走るしかない。

「ちょ。どんだけ走らすねん」

 鮎太は、呆れるのが半分、どこか楽しいのが半分みたいに笑っている。

手から伝わってくるひっしーの焦りは小さくなったように感じる。代わりに、春井の手のなかにあふれるこのどくどくとしたものは、楽しさなのかもしれない。鮎太の気持ちが手を伝ったのかもしれない。じゃあ僕も、こうして走っているのが楽しいのかもしれない。

 同い年の人とあそんでいる。そんなことを思えたのははじめてで、春井は顔中の筋肉をほころばせた。子どもなんだということを暗やみに見せるみたいに、うまく笑えているといい。

(続く)