インタビュー

堂場瞬一

堂場瞬一「新聞が潰れたあと、記者たちはどう生き延びるのか」

書評

堂場瞬一が見たメディアの行く末

内藤麻里子

 うわあ、あの「日に本ほん新報しんぽう」が倒産している‼
 こんな衝撃で始まるのが『絶遠の春』だ。『警察サツ回りの夏』(二〇一四年刊)、『蛮政の秋』(一五年刊)、『社長室の冬』(一六年刊)と続いた〈メディア三部作〉のその後の物語である。
 とはいえ信頼の堂場作品なので、最初は暢のん気きに構えていた。シリーズの主人公、日本新報の記者、南みなみ康祐こうすけが事態を打開する活躍をするに違いないと。なんならこの作家のサービス精神に、こう来たかと期待が高まった。というのも、本書の少し前に出たデビュー二十五周年記念作品『鋼鉄のレガシー』が、読者を喜ばせようという発想にあふれていたからだ。なにせ出版社が異なる警察小説の人気シリーズから、主要キャラクターが一堂に会して豪華な共演を見せたのだ。
 ところが堂場は、そんな浅はかな予測を鮮やかに一蹴した。そこには衝撃の展開が待っていた。それこそ、倒産を上回る衝撃だった。
 そもそもメディア三部作は、旧来のメディアである新聞の行く末を、現状に少し先んじて見つめるシリーズだった。
 ここ二十数年でネット社会は急激に進んだ。人権、コンプライアンス意識など社会環境も劇的に変わった。その中で、変化の荒波にもまれる男たちの物語がこの三部作だった。ことに第三部となる『社長室の冬』では、部数減に歯止めがかからず、経営危機に陥っていた日本新報に身売り話が持ちかけられていた。相手は本社がアメリカにあるネットニュース専門サイト「AMCジャパン」だった。この時は条件面で折り合わず、買収話は流れたのだが、それでも新聞の先行きに一いち縷るの光を投げかけていた。
 ところが今回の『絶遠の春』では、冒頭で紹介したように日本新報の「最後の日」から幕が開く。あの“一縷の光”はどうなったのか。『社長室の冬』から十年、社会情勢、メディア状況を見つめてきた堂場瞬一が、おそらく一つの答えに至ったからこそ三部作のその後を書くことにしたのではないだろうか。
 だから全国紙が斃たおれた後の記者の身の振り方の物語として、まったく独立した小説ととらえてもいい。メディア三部作を知らなくても問題ない。
 先ほど「新聞の行く末を、現状に少し先んじて見つめる」と書いたが、倒産前の日本新報はひどいありさまだ。支局の統廃合、夕刊の廃止は、現実の社会でもある程度進んでいる。それに加え、ストレートニュースに専念するため文化部、生活部を廃止している。そりゃそうなるかとは思うが、これは文化や暮らしにかかわる分野で、新聞がその一翼を担っていたチェック機能が失われることを意味する。
 ともあれ日本新報の南康祐は、社会部記者として「最後の日」を迎えていた。元同僚で妻の(酒さか井い)優ゆう奈なは系列の日新にっしんテレビに移籍している。とりあえず共倒れを免れた南は、ネットメディア「日新ネットSエス」を有志と立ち上げた。日本新報の魂を継承しつつ、新たに生まれ変わったことを示す意味を込めてのネーミングだった。社長以下十四人。社会班三人、政治班三人、経済班二人に経理、総務、広告担当スタッフを加えた小所帯だ。
 人手は圧倒的に足りず、日々アップするニュース本数も少ない。取材環境を整えるため、警視庁の記者クラブに入ろうとするが難しい。会員数も思ったように伸びない。給料を捻出できるのか、心配は尽きない。かつての新聞社時代との対比で語られていくネットメディアの世知辛さに身につまされる思いがする。
 さて、こんな苦境にいる日新ネットSに、あるタレコミがもたらされる。それは起死回生の特ダネになる可能性を秘めていた。政治担当と社会担当の記者気質の違いやら、スタッフ個人の事情やらが絡みながら、それでも南たちは地道な取材を重ねる。さらなる事実も突き止め、いよいよという熱が最高潮に達した時……。
 この時、私たちは一瞬呆然ぼうぜんとさせられる。しかし堂場は手を緩めることなく、容赦なく奈落に突き落とすような現状を突きつける。いや、予兆はあったのだ。かつて日本新報を買収しようとしていたAMCジャパンの社長は、青雲の志を語っていた。ところが、本書に登場するその後のAMCのありようがなにやら違う。でも、ネットにはありがちなことだからと、読み流していた。
 堂場はネットニュースの行く末に何を見たのか、是非その目で確かめてほしい。それは新たな道を模索する旧メディアにとって本当につらい、つらすぎる現実だ。フェイクニュースや噂が流布され、真実はどこへいくのだろう。行きすぎや不作為、不祥事の監視は誰がするのか。暗澹あんたんとした気持ちどころか、虚無感すら味わわされた。

「小説すばる」2026年10月号転載