『ノー・ファンタジー』刊行記念インタビュー 上田岳弘「漂流する時代、ファンタジーという生命線」
上田岳弘さんが2024年からすばるでコンスタントに発表してきた六本の短編群が一冊にまとまり、単行本『ノー・ファンタジー』として刊行されました。
上田さんにとって三冊目となるこの短編集は、AI関連企業を売却した男、離婚歴のあるシングルマザー、FXで生活する元証券マン、幼馴染の母子の血の繋がらない父になることを願う小説家など、東京に暮らす男女の人生にフォーカスしながら、それぞれが生きていくために選び取った「ファンタジー」の諸相に切り込む意欲作です。
「今この時代」の病理と希望を活写したドキュメントともいえるこの作品について、収録短編を発表順にそれぞれ紐解きつつ、執筆と前後して小説家としてのターニングポイントを迎えたという上田さんの「現在地」について詳しくお聞きしました。
聞き手・構成/タカザワケンジ 撮影/城英悟
書きこぼした「男性の実存」を拾う
――上田さんが小説家としてデビューされてから今年で十三年。新刊『ノー・ファンタジー』は、これまでの創作の軌跡を振り返る意味でも重要な作品集だと思います。最初から全体の方向性や収録本数をイメージされていたのでしょうか。
上田 担当編集者から、だいたい何作くらいで一冊にまとめるかという提案を最初にいただいたので、それに合わせて一編ずつ書きながら全体の構造を組み立てていきました。
まず考えたのが、作家としての問題意識として、今の社会における「男性性」について大きな書きこぼしがあるんじゃないかということです。特にここ数年、社会全体が激しく変化する中で、こぼれ落ちてしまっている男性の内実を小説という形ですくい上げることができないだろうか。それが今回の短編集を書くうえでの大きな動機でした。
――執筆の順番と単行本の収録順はシャッフルされているのですが、最初に書かれたのは「トキシック・フライデー」(二〇二四年十月号掲載)ですね。今からほぼ二年前。タイトルにある「トキシック」は「トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)」というキーワードから取られたものですね。
上田 「トキシック・マスキュリニティ」という言葉は、今の世の中で、唾棄すべきもの、無条件で排除すべき悪として処理されがちですよね。でも、果たして本当にそれだけで片付けてしまっていいのだろうか。もちろん、トキシック・マスキュリニティを批判的に捉えることが間違っているとは思いません。ただ、単純に叩いて排除するのではなく、その歪みの背景にあるものを、もっと高い解像度で捉え直す必要があるんじゃないかと思ったんです。
――作中では、アメリカでのウィル・スミスのビンタ事件がトキシック・マスキュリニティの発露として触れられています。また、非モテ男性をからかう「インセル(非自発的な禁欲者)」というネットスラングが、現代的な孤独や犯罪心理と接続されていたりもします。こういった抽象的で大きなテーマが、東京に暮らす「ごく普通の男性」のちょっとした「毒」のある日常のなかで語られています。
上田 「トキシック・フライデー」の主人公は僕よりも少し下の三十代後半から四十代前半あたりの世代です。今の日本で、特に東京という都市で男性として生きることについて考えた時に、よく言われる「生きづらさ」という言葉が適当かどうかはともかく、その実存を描くための切り口として「トキシック」という言葉、その切り口から入っていくべきだと直感したんです。
今回はどの作品もある種シミュレーション的に書いている部分があるんですが、そのシミュレーション度合いはこの作品が一番強いかもしれない。おそらく男性なら誰にでも、僕自身の中にもあるはずのインセル的なものに対して、どう対応したらいいのだろうかというシミュレーションですね。
日本の文学の歴史を振り返れば、かつての自然主義文学、それこそ田山花袋の『蒲団』のような作品が描いていた泥臭い自意識や男の醜悪さこそ、まさにこの系譜だったはずです。しかし、最近の文芸シーンを見渡してみると、そういった男性の内面の弱さや歪み、割り切れなさが、アップデートされた形ではあまり描かれていないと思っていました。短編集の最初に書く一編として、勢いをつけるためにも、あえてちょっと過激なテーマの作品を書いてみようと思ったんです。
――「トキシック」という、毒を含んだ言葉がタイトルに冠されている一方で、物語の導入部分にはユーミン(荒井由実)の『ルージュの伝言』が引用されていますよね。主題歌だったスタジオジブリのアニメ映画『魔女の宅急便』の牧歌的なイメージを想起させる曲でありながら、そこにはギャップがあると。
上田 『ルージュの伝言』という歌は、昔から面白い曲だなと思って気になっていたんです。歌詞をよく読むと、やっていることは浮気の告発だし、実はすごく怖い歌なので(笑)。それなのに、メロディーはとても軽快で、浮気という行為自体もどこかライトで前時代的なものとしてパッケージされている。あのかわいらしさと背中合わせの重さを書いてみたいというアイデアは、以前から頭の中にありました。
――毒(トキシック)と、金曜日(フライデー)というどこか軽薄な響きの組み合わせ。そこから読者が思わぬ場所へと誘導されるようなミステリアスな展開は、ホラー小説かと思うほどです。
上田 掲載号でちょうど「旅」をテーマにした特集が組まれていて、その一編として執筆を依頼されたのが始まりだった記憶があります。以前に書いた「旅のない」という短編も同様の旅特集がきっかけでした。僕は昔から、お題があった方が普段の枠を超えられるところあるんです。枠組みとか枷の圧力が想像力を刺激するというか。
価値基準の崩壊した世界を漂流する個人
――その次に書かれたのが、「生的同意」(二〇二五年三月号)ですね。否が応でも「性的同意」という言葉を連想させるタイトルです。ただ、上田さんは“性”ではなく“生”にフォーカスする。もっと根本的な、人間がこの社会において「生きていていいのだ」という合意を得ることについて書かれていますね。
上田 ちょうどその頃、世の中的に「性的同意」という言葉や概念が、法律の改正も含めて急激に議論されるようになったタイミングでした。
今の時代、良きにつけ悪しきにつけ、これまで僕たちの社会を支えていた価値基準がどんどん壊れていますよね。一流の大学を出て、一流の企業に入り、あるいは難関の士業や官僚のような社会的地位を得たとしても、その人生が自動的に肯定されるわけではない。誰もが自分の人生に絶対的な自信を持てずに、ふわふわと漂っている感覚がある。価値基準が崩れてきた時代だからこそ自由にふるまえる良さもあるけれど、同時にそのダメさもあるような気がするんです。
――主人公は自分の人生に対する主体性がなく、どこかふらふらと周囲に流されている若い男性です。そんな彼が、職場で「馬路さん」という極めて優秀でありながら、ぽっかりとした虚無を抱えた先輩エンジニアに出会います。馬路さんは自分を「早死の家系だから」と規定し、出世や長生きを最初から放棄しています。この二人の独特な関係性はどこから着想されたのでしょうか。
上田 ……そうだ、今思い出しましたが、かつての同僚で馬路さんのヒントになった人がいました。その人はものすごくプログラミング能力が高いのに、驚くほどやる気がない人だったんです。僕にとっては非常に印象深い人でした。
――「有能なのにやる気がない」という虚無感の正体はなんでしょう。
上田 その人について言えば、プログラマーという仕事がずっと現場にいるわけにはいかないということがあったのかもしれません。今は違うと思いますが、その当時は「三十五歳定年説」がまことしやかに囁かれていて、キャリアの早い段階で次を考えなければならなかったんです。
――「技術の寿命」という短さの中で生きるプログラマーのあり方が、蝉のような短命さ、そして「生的同意」というテーマに無意識のうちに結びついていたのかもしれませんね。
上田 かもしれません。早め、早めに生き方を決めなければならないですから。普通はプロジェクトマネージャーなどの管理職にスライドして生き残りを図るのですがそれをやりたくない人だったんです。それが何か切ないなと思いながら見てました。
――「生的同意」には、馬路さんとはまた違うかたちで自分の命を冷めた目で俯瞰する若い女性が登場します。かつての恋人で、元地下アイドル。彼女がアイドルをめざした理由について「生きてていいんだと思いたかった」と語るのが印象的でした。
上田 今の若い人たちには、そういう自分のピークや寿命をあらかじめ客観的に見積もってしまう、過剰なメタ視点がありますよね。プログラマーとしての寿命、アイドルとしての全盛期の短さ、世代も性別も違いますが、どちらも終わりを自覚しながら、しんどさを抱えて生きている。実は僕たちは誰でもそうなんだと思うんです。そういった見方が生きづらさにつながっているというか、生きることをややこしく感じる自分もいて、その辺を表現したかったのかもしれないですね。
――性的同意はもちろん大事ですが、生きることにも同意を求めてしまうというのもまた現代的です。
上田 僕の書く短編はどれも日々感じていた時代の皮膚感覚が、ぎゅぎゅっと凝縮されて小説のなかに結晶化されている感覚がありますね。というのも、僕は普段、短編小説を書く時は、四日間で一気に書き切ると決めているんです。
――えっ、四日間ですか。その時点でリアルタイムに起きていた社会的なトピックと、長らく気にされていたことが結び付いて、化学反応が起きるようなイメージでしょうか。
上田 そうですね、これまでずっと溜めてきたものとか引っ掛かっているものを、できものを潰すみたいにプチンとやると、わーっと文章として溢れ出てくるという感じです。さっきの『ルージュの伝言』がそうだし、「生的同意」でいうと、マンジャロの問題(本来は糖尿病の治療薬GLP-1が、自由診療の美容外科でダイエット目的で処方される例が相次いで報告され、その安全性と有効性が懸念されている)もそうです。痩せるためにそこまでやるのか……と思ったことがしばらく引っ掛かっていたので。
イーロン・マスクと金鉱の王を結ぶ「漂流する価値」
――そのように濃縮された時代感覚が、三番目に書かれた「マンサ・ムーサ」(二〇二五年六月号掲載)にも感じ取れます。このタイトルを最初に目にした時、多くの人が「何のことだろう?」とまず検索したくなると思います。作中にも書かれていますが、中世マリ帝国の伝説的な王で、つい最近まで人類史上最高の富豪と言われていた人物なんですね。
上田 ちょっと前に「イーロン・マスクの資産総額が、人類の歴史上、あのマンサ・ムーサの富をついに七百年ぶりに塗り替えるかもしれない」というニュースを目にしたのが着想のきっかけです。今やスペースXが上場して、一時期は総資産が二百兆円を軽く超えましたから、歴史的な更新はとっくに現実のものになっていますけどね。
――現代の私たちが生きているのは、人類の歴史において実に「七百年ぶり」の凄まじい規模での富の偏在が起きている異常な時代なんですね。しかも、かつての王が有していたのは自国の土地から掘り出した「金」という実体のあるものだったのに対し、現代のイーロン・マスクのような大富豪たちの富は、株価という形のない数字の膨張によって生み出されています。この差異もまた、現代の「不確かさ」を際立たせています。
上田 凄い勢いで変化していて、この二、三年の間に起きたことにまったくアクチュアリティを感じなくなりました。ニュースの量も情報量も多すぎて、半年前の出来事すら誰も覚えていない。ベタな言い方をするとターニングポイントというか、そういう時代なんだと思うんですけどね。
――一種の集団的な健忘症にかかっているような社会です。この激動のターニングポイントにおいて、目の前を通り過ぎるイーロン・マスクのニュースにそのまま飛びつくのではなく、七百年前の金の王様の歴史を補助線として引くことで、現代という過剰な時代を徹底的に客観視する視点が上田さんですね。
上田 「生的同意」の話でも触れましたが、これが答えだよというのがない時代です。みんなが今、必死で求めている共通のものといったら、お金と承認くらいでしょう。宗教のような目に見えないものがあまり力を持たなくなった時代、あるいは家族からのこうしろという抑圧も減ってきている中で、お金を稼いでいる人が勝ちだという価値観が唯一の答えでしょうか。あるいは、ユーチューバーやティックトッカーのように、インプレッションを集めた人が勝ちだという価値観でしょうか。そのどちらも決して良いとは思えないよね、とずっと思っていました。そのことを、マンサ・ムーサという存在をフックにして描きたかったんだと思います。
――人生に求めるのがお金と承認というのは何ともさもしい話ですね。ただ、それはあくまで表面的なことで、潜在的に何か別のものを求めているような気もしますが。
上田 いや、それがわからない。わからなくて漂流しているのが私たちなんだと思います。ビットコインのことを書いたのも、その富を得たところで救いにはならない。世間で価値があるとされているものが、実はそうでもないんじゃないか、というのが僕のいつも思っていることで、小説でもついそれを書きたくなってしまうんです。そして、その違和感を入り口に書いていくと、お金であれ承認であれ、まだ求められている状態は、何も求めるものがなくなるよりもまだしもましなのではと思えてきます。
――「マンサ・ムーサ」の主人公は地味に個人的なルーティンを守りながら生きるFXトレーダーです。彼はかつて証券会社に勤務していた時代、熾烈なノルマを達成するために、自分の精神や身体を一種の「歯車」として機能させるよう自らルールを作り、人間性を削ぎ落としていった過去を持っています。これこそまさに、現代の資本主義経済の中で生き残るために、自らをシステムに最適化させていかざるを得ない現代人そのもののポートレートだと感じました。
上田 僕は新卒で就職しませんでしたが、もしも普通に就職をして、大企業のサラリーマンとして働いていたら、そのまま一生懸命働いたとしても結局うまくいかず、ということになっていたかもしれない。先ほど申し上げたように、そうだった場合を小説でシミュレーションしているということもあるのかもしれません。
――主人公と対極の位置にあるのが「俺たちの人生は安全すぎるから定期的に自分をリスクにさらす必要がある」と考える登山家であり予備校講師の木本です。
上田 客観的にはそうなんですよね。けれど、主観的にはそう思うのは難しい。今、僕は四十七歳なんですが、大学の同級生たちと飲むと、役職定年や企業年金の話になる。
――(笑)。でも、四十代後半になると、組織の中での自分の最終的な到達点が見えてきてしまうのかもしれません。しかもこの日本の経済状況の先行きが見えない中で、老後の不安を感じるのもわかるような気がします。
上田 僕は全く違う生き方をしてきて、ベーシックインカム的な世の中に近づいたと仮想した時にあるべき精神性として、石でも磨くみたいに、ひたすら小説をハイペースで書くということを習慣化して、ビジネスも興味を持てるものにひたすら没頭しようとしてきました。なので彼らの実感は共有できないですが、普通に考えれば社内の切実なサバイバル問題です。誰もが知る一流企業で働いていたとしても、それが標準な状態であればそこからの後退は避けたいはずですからね。けれど、どうしても現代社会はどんな個人にも強烈にメタ視点を埋め込んでくる。
――「マンサ・ムーサ」は、かつての友人が残した遺品をめぐる物語として、ちょっといい話に着地するかと思いきや、そうはならない。やがて読者も「お前の人生は本当にそれでいいのか」という「毒」を浴びることになります。
上田 メタ視点が自身に問いかける毒ですね。短編集は三冊目ですが、今回が一番、毒の濃度が高い気がしますね。
――私たちが見ている世界、リアルな世界とは何かというのを突きつけられたような気がしました。単行本のタイトルが『ノー・ファンタジー』だから余計にそう思ったのかもしれませんが、自分が対峙している現実がとても寄る辺ないものに思えてきてしまうというか。
上田 僕が上京して大学に入った一九九八年は、まだバブルの影が少し残っていたので東京はどこか楽しそうな街でした。その明るさがだんだん消えていった。「トキシック・フライデー」に、東京からメロディーが消えてリズムだけが残った、と書きましたが、それは僕自身の実感でもありました。
今はもうそのリズムすらなくなり、どういうノリで楽しめばいいのか、どう生きていけばいいかという方針を決めることが難しい時代だと思います。
――「マンサ・ムーサ」の登場人物のように、お金の番人にかしずくように自分を変えていくしかないと思っている人が多いのかもしれません。「生的同意」における、生きていていいんだと自分をいかに肯定するのかという問題と、底流で繋がっているような気がします。
上田 今回、『ノー・ファンタジー』と銘打っておきながら、ファンタジーがないと生きていけないのは確かなんです。どうやって自分を慰め、自分を高ぶらせていくのかにはどうしてもファンタジーが必要です。そのことを僕自身が考えながらこの短編集を書いていたような気がします。

秩序に回収されない「下品さ」、小説という一縷の希望
――「生的同意」の次に書かれたのが表題作「ノー・ファンタジー」(二〇二五年九月号掲載)です。これは掉尾を飾る「ソー・ファンタジー」と対になっているので、先にその二作の間に書かれた「もっと下品な男」(二〇二五年十二月号掲載)についてうかがえたらと思うのですが、これは昨年刊行された短編集『関係のないこと』に収録された「下品な男」とも繋がりがありますね。この“下品”という言葉には何を託されたのでしょうか。
上田 「上品なもの」というのは、往々にして社会的な体裁を取り繕ったものであり、「下品なもの」の中にこそ、人間の剥き出しの本性が宿っている。シンプルに区分けするとそうなります。下品さだけでも上品さだけでもバランスが悪いと思うのですが、今の世の中は、あまりにもお行儀の良い「上品さ」に傾きすぎていると感じます。
たとえば、現代のSNS空間を観察していて非常に奇妙に思うのは、殺人事件と日常のマナー違反が、同じ熱量、同じ怒りのテンションで告発され、糾弾されていることです。
――確かにそうですね。他人のデリカシーのない行動や飲食店での軽率な悪ふざけが、重大犯罪と同等か、時にはそれ以上の社会悪として徹底的に叩き潰される光景を目にします。
上田 「そんなわけないだろ」と言いたくなりますよね。殺人という絶対的な一線を越える行為と、ペーパーナプキンを多めに持ち帰ったことに対する怒りが同列で語られるのは尋常ではありません。お行儀の良さという均一な正しさが世界を覆い尽くした結果、人々から寛容さや物事のグラデーションを理解する知性が失われてしまったように感じます。
――「もっと下品な男」には破綻が確定した会社を買い取ってくれる買取屋が登場します。主人公はコンサルタントで、上品なガラスの城のような最先端の家に住む買取屋を訪ねる。そして年齢も性別もわからない謎の存在である「彼人」との奇妙な対話が展開しますが、そこでシェイクスピアの『ベニスの商人』のシャイロックの「肉1ポンド」のエピソードが引用されます。上田さんにとって、やはりシェイクスピアというのは重要な存在なのでしょうか。
上田 実は当初、「もっと下品な男」ではシェイクスピアについて触れようとすらもしてなかったんですよ。自動筆記というか、イメージだけがあって勢いよく書き進めていった時に出てきたという感じですね。
ただ、シェイクスピアが無類に好きだということはたしかです。あの独特の「コスモ(宇宙)観」。シェイクスピアの劇世界は、一対一の個人的な人間関係から見ると、突飛でおかしなことばかりが起きるんですが、宇宙的な視点から眺めてみると正しい。その二重の構造が、僕にとって魅力的なんです。
――人間同士のミクロな狂気や過ちが、遠く宇宙から見ると調和しているということですか。
上田 しかも宇宙から見てるほうが正とされている。正とされているんですが、時に間違いが生じて人が死ぬ。その構造が僕には面白い。作中にも書きましたが、『ベニスの商人』で裁判官が「アントニオの肉を1ポンド得る権利がシャイロックにあることを認めるが、それを得るのに、血液を一滴たりとも失わせてはならない」というのはまったくおかしな話なんですよ。でも別軸で見ると正しい。その別軸から見た世界であり、作者のシェイクスピアから見た世界でもある。
――二つの世界がともにあり、果てしないギャップがあるというのは、まさに上田さんの小説世界――人類史的な視点と、現代人の日常生活とが同居している――と呼応していますよね。では、いよいよ表題作「ノー・ファンタジー」と、それと対になる作品「ソー・ファンタジー」(二〇二六年三月号掲載)についてうかがいます。
上田 そろそろ短編集としてまとめることを考え始めた時、これらの作品群を貫く共通の「横串」として浮かび上がってきたのが、先ほどもお話しした、ファンタジーが信じられない時代の実存でした。そこで、横串となるテーマに正面から向き合ってみようと書いたのが、表題作の「ノー・ファンタジー」です。現代社会において、ファンタジーというものが完全に機能不全に陥っている。その現実を象徴するような作品を書こうという目論みでした。
――「ノー・ファンタジー」は、空港という、旅の始まりと終わりが交差する人工空間から始まります。主人公はそこである女性を待っていて、行き交う人々のなか、彼だけがどこへ向かうでもなくその場に留まっているという状況が象徴的でした。
上田 空港というのは、本来すべての人間が強烈な「目的地」を持って移動する場所ですよね。だからこそ、特に用事もないのにそこをぼーっと歩いていると、周囲の人々が全員、目に見えない矢印を掲げて歩いているかのような奇妙な錯覚に囚われることがあります。冒頭の空港のシーンは、僕自身のそんな身体的な実感から生まれています。
――主人公が定期的に逢瀬を重ねている同級生のシングルマザーにとって、日常は単調で義務的な主旋律で満たされている。しかし、海外出張を終えて成田空港で主人公と落ち合いホテルで過ごす時間は、主旋律から逸脱した、不規則な心臓のビートのような別の時間を生きています。それを彼女は「千葉モード」と呼んでいますが、この「逸脱したいけれど、絶対に日常のテリトリーの中では逸脱できない」という二重生活のリアリティは非常に切実です。
上田 人間が退屈で過酷な日常を維持していくためには、何かしらのファンタジーや、生を突き動かすメロディーが必要です。しかし、それを心から信じきることができないというのが現代の僕たちの実存なんじゃないかと思います。
であれば、その日常から逸脱した時に、なにがしかの癒しがないとやっていけないのは当然で、それがファンタジーを即物的なものにしてしまっている。夢がないからこそ、逆説的にファンタジーを支えているという構造があると思うんですね。
この「ノー・ファンタジー」の諦念と対をなすのが、最後に置いた「ソー・ファンタジー」です。「ノー・ファンタジー」と「ソー・ファンタジー」は合わせ鏡のようでもあり、パズルのようでもあるという関係性が、この短編集の大きな駆動力の一つになるのではないか、とセットで考えました。
――「不倫」や「秘密の恋」がファンタジーとして機能していた時代もありました。しかし現代は、SNSの監視社会化と過剰な道徳観によって、不倫に対する社会的制裁が異常なほど過酷になっています。この「ノー・ファンタジー」の男女が結ぶ、日常を寸断した「千葉モード」という限定的な交際は、きわめて細々とした、生存のための最小限のファンタジーであるように見えます。
上田 社会の解像度が上がりすぎてしまったんでしょうね。見えなくていいはずの裏側の構造や、他人の醜い動機までがすべて可視化されるようになってしまった。昔なら「この人、ちょっと怪しいけれど好きかもしれない」というロマンチックな曖昧さを維持できたはずの人間関係が、今やネットやSNSを通じてすべて言語化され、パターン化され、一対一の特別なストーリーではないことが露呈してしまう。だから、誰も物語のなかにいま一つ浸り切ることができない。「ただの搾取だ」「ただの現実逃避だ」と、賢く冷めてしまう。
――そんなファンタジーなき袋小路の時代において、虚構であるはずの「小説」という物語を書き続けることは、作家にとってきわめて困難な、難儀な作業ではないですか。
上田 いえ、それこそが小説家の仕事なのだと思っています。「ソー・ファンタジー」の主人公は小説家で、僕とはキャラクターが違いますが、小説家という点では共通する部分もあります。それは、すべてが高解像度でつまびらかになってしまった世界で、それでもなお、ファンタジーをつくることができるのが文学ではないか――と考えている点です。経済性や道徳性から離れ、今必要なファンタジーを作る試み。そこに一縷の希望があると思いますね。
――「ソー・ファンタジー」の主人公である小説家は、毎週水曜日だけ幼馴染の母子と3人で過ごすのがルーティンになっていますが、やがてその子どもの血の繋がらない父になることを願うようになります。この作品集を最後まで読み終えた時、どこか「ほの明るい希望」のようなものがじんわりと胸に残る感覚があったのは、上田さんのおっしゃる一縷の希望ゆえなのかもしれません。
上田 最後の作品には、絶対に希望を残したいといつからか思うようになりました。村上春樹さんの短編集『神の子どもたちはみな踊る』の最後が「蜂蜜パイ」で締め括られるように、読者が本を閉じた時に「読んでよかった」と思ってもらえるような救いを用意したい。昔は全然そんなことを思わなかったので、自分でも不思議なんですが。
――その象徴が、「ノー・ファンタジー(No Fantasy)」の“ノー”に点を打つと“ソー”になる、「ソー・ファンタジー(So Fantasy)」になるという、鮮やかな反転です。
上田 ネタバレになるので詳しくは言いませんが、「ノー・ファンタジー」と「ソー・ファンタジー」は同じ世界を描いているので、そのことに気づくと、読後感もまた変わるんじゃないかと思います。
――残酷でもあり、でも、生きるためには必要なことなのかもしれないと思ったり。
上田 怖い話なんですよね、実は(笑)。でも、その残酷な構造に気づいた後であっても、なおこの世界には美しさや肯定すべき光がある。そう信じられる小説になっていればいいなと思います。Taleにはもはや乗れない現代人がそれでも抱く、抱かねばならないFantasyとは何なのか、それをリアリズムから逸脱しない範囲で僕なりに突き詰めたつもりです。
百年後を見据えた、小説という巨大な「オブジェ」
――さて、ここからは新刊『ノー・ファンタジー』についての話を踏まえながら、上田さんの創作の今までとこれからについて、少しお聞きしていきたいのですが。まず、今年十一月に長編小説『キュー』が舞台化されますね。上田さんと白井晃さんの共同脚本で、演出は白井さんが手がけられます。そもそも『キュー』が書かれたのは約九年前、二〇一七年から二〇一八年にかけてでした。それが今舞台化されるというのがすごく興味深いですね。当時はまだ生成AIや、それを可能にした大規模言語モデルの実用化は、一般人にとってSFの夢物語でした。しかし上田さんはその先にある「人間の意識の同質化」や「個の消失」をすでに予見していて、「肉の海」と名付けた。その概念自体はすでに二作目の中編「惑星」でも示されていますが、その後もたびたび登場し、『キュー』が一つの頂点になっています。
上田 「太陽」でデビューして以降、現実社会の外側、さらに外側、そのまた外側と小説で書く世界を拡張していった時に、一番外側を書こうと思ったのが『キュー』だったんです。外側外側と拡張していく中で、因果律さえ左右できるようになった場合の人間の在り方みたいなものを、念頭に置いて書いたものです。
――白井晃さんも、「九年前よりも、現在の方が格段に作品の解像度が高く、リアルに理解できる」と驚かれていたそうですね。
上田 テキストは一行も変わらないのにそうなるということは、社会全体の視界が僕の当時見ていた視界に近づいてきていることだと思います。、だから、作品をより高解像度で読める。
当時、僕が『太陽・惑星』や『キュー』で書いた「人間の同一性」や「個の溶解」といったテーマは、「そんな極端な未来があるわけない」と一蹴されていたと思います。あるいは単にSF的な、あくまで小説の中の出来事だと。けれど、SNSや生成AIの急速な普及を経た今となっては、誰もが「これは間違いなく自分たちの現実だ」と腹落ちするようになってきた。
――上田さんはITという最先端の技術領域の要素を、純文学のコードに組み込んだ先駆者といえると思いますが、ご自身としては「時代の先を予測して書こう」というような意図があるのでしょうか。
上田 いや、僕自身は「この先を書いてやろう」という意識はまったく持っていません。ただ、「いつか必ずこういう未来に到達するだろう」という直感する終着点から逆算して、現在のストーリーを構築しているだけなんです。その終着点も可変式であり、刻々と変わっていきます。
今、目の前にある風景だけを写生するように書く、瞬間最適の小説は美しいかもしれませんが、書いていて僕自身があまり面白くない。そうではなく、東京という都市や人類の意識が、百年後、あるいは千年後にどうなっているかというマクロなグランドデザインを描いた上で、「じゃあ、その手前にある現代はどう見えるか」と逆算して書く。その方が、圧倒的にダイナミックで強固な物語が作れますから。
――なるほど。今を見て今を書くのではなく、決定された未来から現代を逆算する。
上田 僕がデビューする前の二〇一二年前後、すでに小説として書くべきテーマや技法は、すべて先達によってやり尽くされてしまったのではないか、という強い閉塞感がありました。一人称の語りのトリックも、メタフィクションも、あらかた開拓されてしまったな、と。だとしたら、もう一度小説という表現を駆動させるための突破口は、未来からの逆算という時間軸のねじれを導入するべきではないか、という直感があったんです。
――上田さんのコンセプチュアルな考え方は、現代アートと重なりますね。提示された作品が、単なる読物としての面白さを超えて、社会に対する批評的な「オブジェ(立体造形物)」として機能している。
上田 実は『キュー』以降、リアリズム小説を突き詰めていく過程で、より構えの大きな作品を要請するように思えてきました。その状態でもっと長いものを書きたいと思って書いたのが、毎日新聞で連載していた『浮動』という長編です。今、単行本化に向けて改稿しているところで、『キュー』以降の到達点になるんじゃないかという確信があるんですが、原稿用紙で1200枚あります。
――鈍器本、確定ですね。
上田 おっしゃるように、巨大なオブジェのような小説になりそうです。でも、そういった大規模な不条理な物体を世の中にドスンと放り出して、十数年後に「ああ、あの本が言っていたのはこういうことだったのか」と、じわじわ理解される。そういうスパンで世界と対話できる自由が許されているのが、純文学というフィールド、小説というメディアの面白さだと思いますね。
(2026.7.3 神保町にて)
プロフィール
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上田 岳弘 (うえだ・たかひろ)
1979年兵庫県生まれ。2013年「太陽」で第45回新潮新人賞を受賞しデビュー。15年「私の恋人」で第28回三島由紀夫賞、18年『塔と重力』で第68回芸術選奨文部科学大臣新人賞、19年「ニムロッド」で第160回芥川龍之介賞、22年「旅のない」で第46回川端康成文学賞、24年『最愛の』で第30回島清恋愛文学賞を受賞。他の著作に『異郷の友人』『キュー』『引力の欠落』『K+ICO』『多頭獣の話』『関係のないこと』など。
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