2025年3月5日発売の新刊から、冒頭の10章を特別集中連載! 『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』の著者が忙しい現代人へおくる、優しい読書エッセイです。
03:地下鉄で読む
2025年01月09日
どうすれば就職できるだろう。二〇代初めのわたしは就職のことで頭がいっぱいだった。大学の成績を上げ、TOEICの勉強をし、自己紹介書を書き、面接の準備をし、面接に落ち、落胆する、という過程を経て、ついにわたしも就職することができた。会社は携帯電話事業に参入したばかりだった。莫大な収益が保証されている「海」に飛び込んでいくには、若くエネルギーあふれる「釣り人」が必要で、その一人に(運良く)わたしも加わったのだ。
ひたすら就職だけを目標に、やれることは全部やってようやくここまで来たものの、社会人になってほどなく、疲労とストレスに苦しめられた。就職後の日常をイメージできていなかったせいだろうか。目の前で繰り広げられる会社生活にしょっちゅう驚き、しょっちゅう憤っていた。思っていた以上にハードで、無礼なまでに非合理的な会社生活に適応するだけでも、しばらく時間がかかった。
最初は、念願叶って就職できたことがうれしく、就職先が大企業ということで喜びもひとしおで、所属チームの同僚もいい人ばかりで本当にありがたいと思っていた。とはいえ、二、三カ月のあいだ一日も休めない状態で残業したり、仕事が多くて(時には、やることもないのに)深夜に退勤したりといった生活は、たやすいものではなかった。上司の顔色を気にして、やるべき仕事もないのに席についていなければならず、ただ黙々と指示されたとおりに仕事をし、やめと言われたら手を止める日々。わたしは徐々に無気力になっていった。
仕事以外の日常がなくなると、やがて会社が生活のすべてになった。たまに、自分でも驚くほど、家より会社のほうが落ち着くと感じることもあった。そのうち、朝会社へ向かう地下鉄の中で立って窓の外の暗いトンネルを眺めていると、ひとりでに「ちょうど一週間だけ入院するくらいのケガをしないかな」と考えるようになっていた。
ギリシャ神話に登場する悪党の一人にプロクルステスがいる。アテネのケフィソス川のほとりで宿屋をしていた彼は旅人を残忍な手口で殺したのだが、そのやり方というのが、宿にある鉄のベッドに旅人を寝かせ、ベッドより身体が大きいと頭や脚を切り落として殺し、小さいと身体を引き伸ばして殺す、というものだった。プロクルステスに殺された人は例外なく身体が損傷していた。
入社二、三年目、わたしの生活は文字どおり揺らいでいた。身体はそのままだったが、まるで魂の一部が切り落とされたり、引き伸ばされたりしているようだった。朝出勤すると鉄のベッドに寝かされてジタバタもがき、やがて夜遅くに、本来の姿を失って損傷した状態で家に帰ってくる気分だった。
振り返ってみると、「楽しい趣味」程度にしか思っていなかった読書に大きな意味を見いだすようになったのも、ちょうどそのころだ。通勤の地下鉄の中で、わたしは、かつてないほど切実な思いで本を開いた。仕事しかしていない労働者、会社生活以外には何もない労働者から再び本来のわたしに戻るその時間は、とても貴重だった。暗いトンネルをぼんやりと眺める代わりに、本を読んだ。損傷した魂を、疲れた精神をよみがえらせるために、ひたすら読んだ。
そのころどんな本を読んでいたかはあまり覚えていない。エッセイが好きだった時期なので、ほかの人たちの考えていることを垣間見ながら通勤時間に耐えていたのだろう。自分とは違う人生を送りながらも同じようなことを考えている著者に不思議な気持ちを抱いていたかもしれないし、自分と同じような人生を送りながらも違うことを考えている著者に魅力を感じていたかもしれない。人生は「自分がどこにいるか」ではなく「自分がそこでどんな物語を綴るか」によって変わってくる、という事実に気づいたのは、おそらくそのころだったと思う。
大人の世界でもがきながら朝を迎え、やがて一日を終える、という生活をしていたそのころ、もしかしたらリュ・シファの『地球星の旅人:インドの風に吹かれて』を読んでいたかもしれない。神を信じているわけでもないし、インドへ旅に出る勇気もないけれど、この本が大好きで何度も読んだ。ウィットに富んだ洞察が楽しかった。そのころわたしは地下鉄の中で、自分は「歩む必要のない道」を歩んでいるのではないかと、毎日悩んでいたような気がする。
インドの旅だけに固執していたわたしは、ほかの多くのものを逃していたのかもしれない。だがそれらは、現世ではわたしが歩む必要のない道だった。それに、わざわざ歩む必要のない道まですべて行かねばならないということでもない。また、来世のために残しておくべき道もある。
地下鉄に乗っているわたしたちの前には、大きく二つの選択肢が用意されている。本を読むか、読まないか。地下鉄の中で本を取り出して開くという簡単な行動、たったそれだけのことで、今日からわたしたちの人生は「歩む必要のない道」から、ほんの少しずつ遠ざかっていくのだ。
※本記事は、3月5日発売予定『毎日読みます』の校正刷りから一部を抜粋した試し読み版です。実際に刊行される内容とは異なる部分がございます。
※※本書に登場する書籍の引用箇所については、原書が日本語の書籍のものは当該作品の本文をそのまま引用し、それ以外の国の書籍については、訳者があらたに訳出しています。また、作品タイトルについて、原則として邦訳が確認できたものはそれに従い、複数の表記がある場合は一つを選択しています。
プロフィール
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ファン・ボルム (황보름)
小説家、エッセイスト。大学でコンピューター工学を専攻し、LG電子にソフトウェア開発者として勤務した。
転職を繰り返しながらも、「毎日読み、書く人間」としてのアイデンティティーを保っている。
著書として、エッセイは『毎日読みます』(牧野美加訳、集英社)のほか、『生まれて初めてのキックボクシング』、『このくらいの距離がちょうどいい』がある(いずれも未邦訳)。
また、初の長篇小説『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(牧野美加訳、集英社)が日本で2024年本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞した。
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牧野 美加 (まきの・みか)
1968年、大阪生まれ。釜慶大学言語教育院で韓国語を学んだ後、新聞記事や広報誌の翻訳に携わる。
第1回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」最優秀賞受賞。
ファン・ボルム『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(集英社)のほか、チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』(クオン)、ジェヨン『書籍修繕という仕事:刻まれた記憶、思い出、物語の守り手として生きる』(原書房)、キム・ウォニョンほか『日常の言葉たち:似ているようで違うわたしたちの物語の幕を開ける16の単語』(葉々社)、イ・ジュヘ『その猫の名前は長い』(里山社)など訳書多数。
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