内容紹介
逆境に置かれても挫けずに我が子へ愛を注ぐ母と、その愛を受けて健やかに成長する子の姿を描き、今もなお愛され続ける名作児童文学『小公子』。
この物語を日本で初めて翻訳したのは、明治の女性文学者、若松賤子(しずこ)だった。
江戸末期、会津藩士の父のもとに生まれたカシ(のちの賤子)は、幼子の頃、戊辰戦争で九死に一生を得るが、のちに母を亡くし、横浜の生糸問屋へ養子に出されて孤独な少女時代を過ごす。
転機となったのは、明治八年。
養家を離れ、十一歳でアメリカ人女性宣教師メアリー・キダーが創立した女子寄宿学校フェリス・セミナリーへ入学。
新しい校舎、新しい仲間たち、新しい学び。
そこはカシにとって、会津を離れて以来、初めての心安らぐ「ホーム」となっていく。
「わたしは、翼を広げ、空を駆けるように飛ぶための準備をしなければならない」
カシは、女性の自立と子どもの幸福こそがこの国の未来を照らすと信じ、命を燃やしていく――。
一人の女性として、妻として、そして三人の子の母として。
激動の明治を懸命に生ききった三十一年の生涯に新たな光をあてる感動長編!
プロフィール
-
梶 よう子 (かじ・ようこ)
作家。東京都生まれ。2005年「い草の花」で九州さが大衆文学賞大賞受賞。2008年「一朝の夢」で松本清張賞を受賞しデビュー。2016年『ヨイ豊』で歴史時代作家クラブ賞作品賞受賞。著書に「御薬園同心水上草介」シリーズ、『本日も晴天なり 鉄砲同心つつじ暦』『噂を売る男 藤岡屋由蔵』『吾妻おもかげ』『広重ぶるう』などがある。
刊行記念インタビュー
書評
明治維新を駆け抜けた女性翻訳家の一代記
評者・東えりか
最初に『小公子』を読んだのは十歳前後であったと記憶している。当時自宅に毎月届く「少年少女世界の文学」(河出書房)を楽しみにしていたのだ。この全集で私は広い世界と小説の面白さを知ったと言っても過言でない。実家にまだあるというので母に翻訳者を確認してもらうと「川端康成だ」という。そうか、私は川端康成訳で『小公子』と『小公女』を読んだのか。
原題は『リトル・ロード・フォントルロイ Little Lord Fauntleroy』”小さなフォントルロイ卿”とでも訳すのだろうか。著者はフランシス・ホジソン・バーネットというアメリカ人の女性作家である。この作品を明治二十三年に本邦初訳し、『女学雑誌』に連載したのが本書『空を駆ける』の主人公若松賤子である。
著者の梶よう子は「桜田門外の変」における人間模様を描いた松本清張賞受賞作『一朝の夢』でデビュー。江戸幕府の薬草園を舞台にした「御薬園同心 水上草介」シリーズ(集英社文庫)や浮世絵師の世界に光を当てた『ヨイ豊』(講談社文庫)など幕末の市井の人々を描いた作品を多く発表している。また『墨の香』(幻冬舎時代小説文庫)や『ことり屋おけい探鳥双紙』(朝日文庫)、『葵の月』(角川文庫)など凜とした女性主人公を描いた作品も人気が高い。
だが意外にも明治時代を舞台にしたものは少ない。本作では明治維新という時代の大変換のあと、女性たちがいかに生きたかを梶よう子らしいテンポのいい文章で活写していく。
明治維新直後、女子教育への熱が高まっていた。明治四年には初めて、数え八歳の津田梅ら女子留学生五名が渡米したことは広く知られている。主人公のカシ(若松賤子)も女性の教育と英米文学翻訳に命をかけたひとりであった。『空を駆ける』は梶よう子が満を持して放つ女性の一代記だ。
幕末に会津藩士の娘として生まれ、愚直なほどの会津の精神を叩きこまれたカシは過酷な戊辰戦争を辛くも生き抜いた。
早くに母と死別し、父の命によって横浜の生糸商人の番頭、大川甚兵衛の養女となる。
ただ横浜での暮らしがカシの運命をひらく。教師のメアリー・エディ・キダーとその夫ローセイとの出会いだ。医師で宣教師のジェームス・カーティス・ヘボンとその妻が開いていた私塾でキダーの生徒となり英語とキリスト教を身につけた。
まもなくキダーとローセイ夫妻は横浜山手の丘に女性専用の寄宿学校「フェリス・セミナリー」(後のフェリス女学院)を創立。給費制度を設け、学費の払えないカシもこの制度によって学業を続けて第一回生として高等科を卒業し、和文教師として母校の教壇に立つこととなった。
教師となったカシは、女生徒たちが文学に親しめるようにと「時習会」という文学会を立ち上げた。これをきっかけに日本初の女性誌である『女学雑誌』に投稿が始まり、筆名を故郷の会津若松と神の僕の意味を持つ「若松しづ(賤)」とした。この『女学雑誌』の編集長であり、明治女学校の教頭、巌本善治と激しい文学論を戦わせながら、父を彷彿とさせる巌本をいつしか愛するようになり結婚した。
英語が読めるカシが幼いころから親しんだ物語は英米文学だった。これらの優れた作品を日本人の女性、子ども、家族に楽しんでもらえるように紹介したい。その思いの中で偶然に出会ったのが『小公子』であった。
この機会にと、若松賤子が翻訳した『小公子』(岩波文庫)を読んでみた。旧仮名遣いに少し苦戦したものの、慣れると口語体で書かれた闊達な文章に魅了された。主人公のセドリックの行動や、アメリカの庶民生活とイギリス貴族の家庭の違いなど、当時の読者は熱狂して読んだだろう。
冒頭には少年少女文学へ向ける賤子の熱い思いが綴られている。一節を引く。
――私は深く幼子を愛し、其恩を思ふ者で、殊に共々に珍重す可き此客人を尚一層優待いたし度く、切に希望いたします。(中略)近年少年文学の類がポツ〱世に見える様になつて来ましたが、これも真心より感謝して居ります、それ故、只今訳して此小さき本の前編を出しますのも、一つには、自分が幼子を愛するの愛を記念し、聊か亦ホームの恩人に対する負債を償ふ端に致し度いのみです。
この溢れるほど熱き思いを持つカシの短い一生を、梶よう子は見事に描き切った。新たな女性評伝の傑作である。在りし日のカシの姿を思い浮かべながら本書を楽しんでもらいたい。
初出「小説すばる」2022年9月号
新着コンテンツ
-
インタビュー・対談2024年09月06日インタビュー・対談2024年09月06日
奥泉 光×小川 哲「「単純な物語」を捨て、小説世界を構築する」
歴史の混迷を背景に、様々な登場人物が交錯し、語り、多層的な物語が紡ぎ出されてゆく。そんな最新作について小川哲さんと語り合っていただきました。
-
お知らせ2024年09月06日お知らせ2024年09月06日
すばる10月号、好評発売中です!
行楽の秋! 旅をテーマにした小説やエッセイなどがたっぷり。綿矢りささんの岩国紀行、梅佳代さんの能登ルポは必見!
-
新刊案内2024年09月05日新刊案内2024年09月05日
あのころの僕は
小池水音
降り積もった記憶をたどり、いまに続くかつての瞬間に手を伸ばす。各賞にノミネートされた注目作『息』の著者による最新中編。
-
新刊案内2024年09月05日新刊案内2024年09月05日
イグアナの花園
上畠菜緒
人より動物が好きでもいい。「友達の輪」に溶け込めない少女が心通わせたのは美しく優しい生き物たちだった。
-
インタビュー・対談2024年08月30日インタビュー・対談2024年08月30日
大根 仁(監督)「定型を廃したラブレターの先に」
「地面師たち」の監督・大根仁さんに作品との出合いや「原作もの」に携わる際の心構え、俳優たちのキャラクター造形について伺いました。
-
インタビュー・対談2024年08月30日インタビュー・対談2024年08月30日
綾野 剛(俳優)×豊川悦司(俳優)×新庄 耕(原作者)「失われた光、彷徨える肉体」
映像化困難といわれたクライム・サスペンスの主演を見事に演じきった俳優のお二人と、原作を手掛けた新庄耕さんとの対話が実現!