年の瀬の(こご)えるような朝、私はキッチンで(りん)()の皮を()いていた。あ、と思ったときにはもう、左手の親指に、右手で持った包丁の刃が当たっていた。真冬の冷たい水道水で手を洗ったばかりだったので、指先がかじかみ、痛みはおろか包丁が当たった感覚すらなかった。思いのほかざっくりと切れ、絆創膏を巻いても、しばらくは血が滲んだ。

 心がかじかんでしまったときも、同じことが起きる。たとえば愛用のマグカップを割ってしまったとき、SNSで攻撃的な言葉に触れたとき、人とのかかわりで雑に扱われたと感じたとき。ひとつひとつは声をあげて痛がるほどではないけれど、日々の暮らしのなかで溜まってゆく小さなかすり傷。ほうっておくと、あちこちにできたかさぶたがうろこ状に重なり、がちがちに固まって、外部からの刺激に鈍感になる。一見痛みに強くなったようにも思えるが、そういうときこそ一番危ない。正面から受けたら大けがになりそうな攻撃に対し、通常時ならどうにか身を引きかすり傷程度で済むところを、逃げ遅れてざっくり串刺しにされたりする。

 だから、どうも最近心がかじかみかけているな……と感じたとき、私はあえて、自分を覆うかさぶたを剝がすことにしている。その作業におすすめの一冊が『神様のボート』だ。いなくなった恋人との再会を信じ、「彼のいない世界になじむわけにはいかない」と引っ越しを繰り返す母と、そんな母を見つめながら成長する娘の物語。ほんのひとときボートのロープを桟橋のビットに結びつけ、すぐにまた、あてどない漂流に戻るような親子の生活は、静謐でありながら、ほんのすこしのきっかけで粉々に壊れてしまいそうな危うさがある。薄いお砂糖の殻でウイスキーをくるんだ、ボンボンキャンディのような物語。歯を立てるとしゃりっと崩れ、あふれ出したウイスキーが、心のあちこちにひりひり()みる。忘れかけていた傷の場所を、「ここだよ、こっちにもあるよ」とそっと教えてくれる。

『神様のボート』江國香織/著(新潮文庫)

 もう一冊は、世界中から愛されているベストセラー『星の王子さま』。砂漠に不時着したパイロットが、小さな星から地球にやってきた王子さまと出会う物語。ページをめくるごとに心のかさぶたが剝がれ落ち、わけしり顔の大人になった私を、敏感で扱いづらい子供だった私に戻してくれる。

 大人になったら、ちょっとくらいの傷で大騒ぎはできない。だけど、痛いと感じることだけは、忘れてはいけないと思うのだ。

 

『星の王子さま 80周年記念・愛蔵版』アントワーヌ・ド・サン=デグジュぺリ/著 青木智美/訳(玄光社)