書評

家族という心の檻から出る

高頭佐和子

「逃げればいい」と、主人公に対して何度も言いたくなった。だが、力を奪われて動けないのだ。息ができなくなっていることに、気がつけないのだ。かき消されてしまうような小さい悲鳴を、著者は耳をすまして聞き取るように、丁寧に書く。読んでいると、その苦しみが痛いほどに伝わってきて、私は言葉を失う。
 コールセンターで働く派遣社員のたまきは、高校教師の両親と暮らしている。妹・由梨ゆりは、親の反対に逆らって結婚し、息子の公彦きみひこを産んだが、離婚して実家に戻ってきた。顧客に怒鳴られ続ける日々の中、甥の存在は救いだったが、由梨と一緒に家を出ていった。
 奔放な妹と違い、環は親の言う通りに生きてきた。三十代半ばを過ぎた今も、給料は両親に渡し小遣いをもらっている。子どもの頃、従わないと父は環を無視し、そこにいないかのように踏みつけられた。同級生たちのように遊びや旅行にいくことも許されなかった。父の言いつけは、母を通じて伝えられるので逃げ場はない。言われるままに幼稚園教諭になったが、うまくやれず病気になった。
 妹は、公彦を置いて夜に男の人と会っている。母は、結婚も出産もせず、幼稚園教諭に戻ることもしない環を責め、妹のようにデキ婚でもすればよかったのだという。言う通りに生きてきたのに認めてもらえず、自分がどうしたいのかもわからず、心身は綻びていく。父の言葉がきっかけとなって、環はある行動を起こしてしまう。
 環が幼い頃から、母が言うことを聞かせようとする時にするという「頑張るの顔」が印象的だ。目を見開いて唇を横に伸ばすその表情は、体を押さえつけられる痛みの記憶とともに、大人になった環の心も縛っている。誰かに心配された時には、環自身も「頑張るの顔」をしてみせてしまうのだ。
 家族は、安らげる居場所であるはずだが、心を閉じ込める檻にもなるものだ。固く閉められた鍵を開けてそこから出ていくことが、環にできるだろうか。少しずつ光が射してくるラストに、希望が見えている。

たかとう・さわこ●書店員

「青春と読書」2025年5月号転載

可視化されにくい 暴力の鎖から解き放つ

石井千湖

 「あなた」はなぜ逃げないのだろう。牢獄のような家から。『長くなった夜を、』は、見えない鎖に繫がれた人の話だ。  
 作者の中西智佐乃は、二〇一九年「尾を喰う蛇」で新潮新人賞を受賞。二〇二三年、「尾を喰う蛇」と表題作を収める『狭間の者たちへ』を上梓した。『長くなった夜を、』は二冊目の単行本だ。主人公の「あなた」――関本環は、三十八歳の派遣社員。企業のコールセンターで顧客のクレーム電話に対応している。実家で両親と妹の由梨、甥の公彦と暮らす。シングルマザーの由梨は毎日帰宅が遅く、三歳の公彦の寝かしつけや保育園のお迎えは環の担当だ。父の教えを従順に聞き、母を手伝い、給料はほとんど家に入れる。生真面目な環の日常が崩壊していく過程を語る。
  「あなた」という二人称は、語られる対象と読者をダイレクトに接続する。「あなた」と呼びかけられた時点で、読んでいるわたしは半ば強制的に環になるのだ。環の視点で見る世界は、あまりにも息苦しい。家庭環境は一見「普通」だ。両親の職業は教師。父は一年前に胃がんの手術をして自宅療養しているようだが、母は嘱託で高校に勤めている。同業で共働きなのだから、対等な関係になってもよさそうなものだが、母は何をするにも父にお伺いを立てる。家父長制的な家族なのだ。由梨は両親に反抗して一度家を出ていったが、幼い子供を抱えて離婚したので戻ってきた。  
 父は「言うことを聞かなければ無視する」という透明な暴力で家族を支配する。環が子供のころのエピソードで、帰ってきた父の足元に突っ伏して許しを請うても〈手を踏んで家の中に入っていった〉というくだりが生々しい。それから、自分が本当に存在しているのかどうかすらわからなくなった環は、痛みによって存在を実感できるように自分を殴る。壁に何度も額を打ちつけても両親は何も言わない。手にしたはさみを自分の顔に突き刺そうとして初めて、母が環を止めて、父は大声を出す。異様だ。
 父の意思を察して内面化する母の〈頑張るの顔〉も恐ろしい。例えば、幼い環が教えられたことを守れないとき、〈両肘を握り、身体の横に強くつけ、目を大きく見開き、唇をぐいと横に伸ばす頑張るの顔をした〉という。環が大人になっても、母は自分が何かに耐えていることをアピールしたいとき〈頑張るの顔〉をする。お母さんも頑張っているのだからあなたも頑張りなさいという「呪い」を継承する顔である。
 環は父の望むとおり幼稚園教諭になったが、職場にうまく適応することができず、身体を壊して退職した。そして、母のすすめでコールセンターに入った。日給八四〇〇円で見知らぬ人の苦情を聞く生活。環を支えているのは、三年間抱っこしてきた公彦の温もりだった。ところが、由梨は公彦を連れて再び家を出て行ってしまう。
 父は母を介して環に幼稚園教諭に復帰するよう求めるが、トラウマがある環はなかなか動けない。母が〈なぁ、やる気あるんか? 環ちゃんのお友達はみんな、結婚して、子どもを産んで、それでも一所懸命働いているのに、あんたはそのままで恥ずかしくないんか〉と詰問する場面にぞっとする。母は〈こんなんやったら、由梨みたいにデキ婚でもすれば良かったんや。それやったら、まだ普通に近づいた!〉とも言う。さらに不気味で戦慄するのが、その後の父の〈もう三十八やったら悪くなっとるから早くしなさい〉というセリフ。〈悪くなっとる〉というのは、子宮のことなのだ。「モームリ!モームリ!」という退職代行会社のアドトラックから流れる歌を思い出した。家族をやめることも、代行してくれるところがあればいいのに。
 この両親に特別悪意があるとは思わない。恥ずかしくない職業に就いて結婚して出産するという、自分たちの価値観において「普通」のことをできるようになってほしいだけだろう。「普通」に育たなかった娘たちに苛立ち、「普通」の親になれなかった自分たちに苛立っている。その矛先が環に向かう。無視される恐怖と煩わしさに負けて、ある時期から自分の頭で考えることをやめた環は、どうしたらいいのかわからない。どんなに理不尽でも父は正しいという教育によって、逃げたいと思う力すら奪われている。癒やしだった公彦と引き離され、心の回復も不可能になった環は、過食嘔吐を繰り返すようになっていく。
 本書は『狭間の者たちへ』と対をなす作品と言っていいだろう。「狭間の者たちへ」と「尾を喰う蛇」の主人公はともに男性で正規労働者だが保険営業と介護士で、過酷な仕事のわりに生活するのがやっとの収入しか得られない。それでも家父長にならなければという抑圧があり、抑圧から逃れるためか逸脱していく。「狭間の者たちへ」の主人公は通勤電車で触らない痴漢行為に耽り、「尾を喰う蛇」の主人公は老人を介護する際に力をほんの少し強めに加える。いずれも弱者相手の陰湿な暴力だ。新人賞を受賞したときのインタビュー(「新潮」二〇一九年十一月号掲載)で、中西智佐乃は今後書きたい題材をいくつか挙げたあと〈しかしやはり「暴力」と「貧困」というテーマは、絶対に出てきてしまうと思います〉と語っている。その暴力と貧困は社会の構造的なものから出てくるのではないかという問いや、可視化されにくい暴力と貧困を圧倒的なリアリティで描いているところが作品に共通する特色だ。
  『狭間の者たちへ』の登場人物と違って、環の暴力は徹底して自分に向かう。暴食の描写は精細で胸が塞がるけれども、奇妙な魅力もあって読まされる。自分には何もないと思っている環が、困難に直面するコールセンターの同僚に手を差し伸べるくだりもいい。一つひとつの苦しみを蔑ろにせず掬い取ることで、「あなた」は何でもない人間ではない、確かにここに存在する、ということを伝えて解き放つ。

「すばる」2025年6月号転載