佐々木俊尚2012.12.7
第1回「本」を再定義する
電子本は、紙の印刷本の劣化コピーではない。印刷本とはまったく異なる新しい媒体である。
2012年の現在、電子本は印刷本をいかに真似し、「本物そっくり」にできるかということに主眼が置かれている。たとえば多くの電子書籍リーダーアプリケーションで採用されている、ページめくりのアニメーション。ルビや縦書き、圏点(文字の横に強調のために付ける点)などの実装。これらはすべて、印刷本の再現を狙って行われている。「印刷本の美しさをどう電子書籍に持ち込むかが課題」と考えている人は多い。
もちろん、新しいメディアが登場してくるとき、つねに古いメディアの模倣から始まるのはごく自然の流れだ。それは歴史が証明している。
たとえば映画の黎明期を考えてみよう。
映画が発明されたのは1895年。フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフという装置を発明し、これをパリのホールで公開した時が映画の誕生日とされている。それまでにも静止画をスクリーンに投影したり、パラパラマンガのような手法で静止画を動かす手法は存在していた。しかしフィルムを一定周期で間欠的に動かし、動画を連続的にスクリーンに映し出すという手法は、このシネマトグラフで確立した。
「最初の映画」として知られているのは、リュミエール兄弟が撮影した「列車の到着」や「工場の出口」「赤ん坊の食事」といった1分足らずの短いフィルムだ。
これらの映画は、ただ目の前の光景をカメラで撮影しただけだ。そこにはストーリーもコンテキスト(文脈)も演出も何もない。この単なるスケッチだった映画を、もう少し進歩させたのがジョルジュ・メリエスである。
奇術師だったメリエスは、リュミエール兄弟がシネマトグラフを初公開したとき、その場に出席していてこの新しい表現媒体に衝撃を受けた。そして自分でも映画を撮るようになり、その後たくさんの作品を制作・公開し、映画史に名を残した。「シンデレラ」「悪魔の悪ふざけ」「月世界旅行」などの物語性を持った作品の数々である。
いずれも15分程度と現代の映画に比べれば短いけれども、多重露光や映像の合成などのトリッキーな手法が早くも採り入れられている。
しかし根源的に見れば、これら19世紀末の時点での映画はまだ「電気紙芝居」の域を出ていない。つまりは演劇の映像化というようなレベルでしかないのだ。
リュミエール兄弟やメリエスの作品では、カメラは1点に固定されていて、移動しない。たとえばメリエスの「シンデレラ」を観ると、途中で何度かシーンが変わるけれども、カメラの位置は演技をしている人たちからほぼ同じ距離、同じ方角に固定されたままになっている。
これが何を意味するのかといえば、カメラは「劇場の中で、客席から舞台上の役者の芝居を観ている」という位置に固定されているということなのである。
あまり知られていない話だが、メリエスはもともと演劇人である。父親に出資してもらって劇場を買い取り、奇術だけでなく演劇を演出し、みずから出演もしていたのだ。こうした経験から、おそらく新しいメディアである映画を演劇の延長線上にとらえていたのではないかと思われる。
だから映像にはトリックが多用されていても、メリエスの映画を観るという行為そのものは、「演劇を観ている」という感覚にきわめて近い。当時の映画はサイレントなので、無言劇を観ているようなものといった方が良いだろうか。
ウェブ技術の世界にUI(ユーザー・インターフェイス)とUX(ユーザー・エクスペリエンス)という言葉がある。たとえばタブレット機器を使う際に、タッチスクリーン画面を直接触ってスワイプ(指をすべらせること)やピンチ(指でつまむこと)などの操作によって画面を動かすその方法がUI。マウスやキーボードを使った入力などもUIの一種だ。料理を食べるときであれば、皿やスプーンやフォーク、箸などがUIにあたる。
もうひとつのUXは、そうした操作によって利用者の側が得られる主観的かつ総体的な感覚のようなものだ。タブレット機器を使って「パソコンと比べてなんと直感的でわかりやすいんだろう」と感じること、それがUXだ。ナイフとフォークを使って食事していた欧米人が、東洋の箸を初めて使う。最初は2本の箸が離れずに使いづらいが、ある日コツを体得すると、「なんてこった、ナイフとフォークよりずっと機能的で使いやすいじゃないか!」と感動する。この主観がUXだ。
このUIとUXの概念で映画黎明期を考えてみると、カメラで撮影した映像をスクリーンに投影して見るという技法はUIになる。メリエスの採用した多重露光や合成などのトリッキーな技法も、UIだ。しかしUXとしては、目の前で行われている行為をただ演劇的に鑑賞するという演劇的なUXから一歩も出ていない。リアル空間で舞台を目の当たりにするというUIから、それをスクリーン越しに見るというUIに変わっただけのことだ。
映画を観るという体験は、演劇を観るという体験とはまったく違う。映画のUXと演劇のUXは別物なのだ。
しかし1890年代ごろまでの映画は、まだ演劇のUXから脱し切れていなかった。
独自のUXへと到達するようになったのは、20世紀に入ってからだ。最初にその地平を切りひらいたのは、アメリカの監督デイヴィッド・W・グリフィスである。『国民の創生』(1915年)や『イントレランス』(1916年)などの傑作で知られている。
グリフィスはいくつもの新しい映画技法を編み出した。それまで俳優の全身もしくは半身がスクリーンに映し出されているのが当たり前だったところに、この時期の映画は俳優の表情を画面いっぱいに映すというクローズアップの手法を採り入れるようになっていた。このクローズアップを芸術的な表現の域に高めたのがグリフィスだ。それまでは俳優は演劇と同じように全身を使って感情を表現していたのが、表情だけで感情を伝えることができるようになる。そして観客の側も、演劇のころにはなかったほどに登場人物に感情移入できるようになった。
このクローズアップというUIの導入によって、映画は「観客が映画の登場人物の内面にまで入り込み、その心の動きをダイレクトに感じる」というUXを実現することができたということだ。
グリフィスは、クロスカッティングという技法も発明した。これはひとつの結末に向かって展開する複数の場面を交互に見せて、緊張感を高めていくという表現手法だ。
1911年の『女の叫び』という短編映画。鉄道の駅でひとり働いている女性が強盗に襲われそうになり、助けを呼ぶ電報を打つ。別の駅でその電報を受け取った列車運転士の恋人は、急いで彼女の救出に向かう。強盗がドアを蹴るシーン。中で彼女が怯えるシーン。恋人が切迫した表情で列車を出発させるシーン。そして強盗がついにドアを蹴破るシーン。列車が平原を猛スピードで走るシーン。強盗がついに彼女に近づいていくシーン。机の上にあった大きなファイルを強盗に投げつける彼女。煙を上げて爆走する列車。ナイフを取り出す強盗。恐怖に怯える彼女。ついに彼女のいる駅舎の前に到着した列車。ナイフを振り上げる強盗。
三つのシーンが次々と交互に展開されていく。それぞれのシーンをまとめて見せるのではなく、細切れに次々とつなげていくのが、クロスカッティングという技法だった。これによって映画の緊張はものすごく高まり、観客は手に汗握りながらストーリーを見守った。
こうしたさまざまな映画的技法の開発によって、グリフィスは映画を単なる演劇の映像的再現から、独自の「映画」というメディアへと押し上げていくことに成功したのだ。
グリフィス以前の映画は、単なるトリッキーな映像を子供だましで見せる幼稚な娯楽だと考えられていた。言ってみれば、祭りの縁日の見世物のような扱いだ。しかしグリフィスの映画によって、映画は単なる見世物から芸術として鑑賞に耐えうるメディアへと進化し、そしてこれが映画の文化的立場を著しく上げることへとつながっていった。
グリフィスの作り出した映画技法は、いまにいたるまで映像表現のひとつとして確立している。
グリフィスの時代になってようやく、映画は映画としてのUXを確立した。グリフィスは「映画は演劇よりも小説に近いものだ」という言葉を遺しているという。たとえばクロスカッティングの技法などは、小説の世界では以前から使われていたものだ。つまりはグリフィスは映画を演劇から独立させ、小説表現など他のメディアの技法をうまく取り込むようなかたちで、新しい表現のUXを作っていったといえるのだ。
電子本に話を戻そう。電子書籍のUIは、タブレットや電子書籍リーダーといった機器、液晶や電子ペーパーといった素材、そして最近ではタッチスクリーンを指で直接操作するという動作などによって構成されている。しかし現在のところ電子本のUXは、ページをめくり読み進めるという印刷本の模倣の域を一歩も出ていない。
つまり電子本はいまだ、独自のUXを実現していないということであり、映画でいえばしょせんはメリエスの時期ぐらいにしか達していないということだ。
電子本についてのさまざまな試みは、これまでにも行われている。たとえば文章に音楽や映像を加えたり、ゲーム的要素を持たせたりといった試みがそうだ。しかしこれはあくまでもUIの変化でしかなく、「本を読む」という体験そのものを超えるところまでは達していない。言ってみれば映画の黎明期に、メリエスが多重露光や映像の合成などのトリッキーで人の目を惹く技法を映画に採り入れたのとたいして変わらないレベルといえる。
とはいえ、ここまで読んでこう思う人も多いだろう。「いや、本の本質は『文字を目で追って読み進める』ということだ。それ以上の余計な要素なんか本には必要ない。そういう余計なものを加えてしまったら、もう本ではなくなる」
おっしゃる通り。しかしここで、映画の黎明期をもう一度考えてみてほしい。映画は演劇を模倣し、演劇を映像としてスクリーンで観るというかたちからスタートし、その後グリフィスや、さらにもう少し後の時代のソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインといった人たちによってさまざまな映画技法が開発され、オリジナルのUXへと進化していった。
これによって演劇は消滅しただろうか? もちろん消滅していない。映画と演劇は1910年代ぐらいから分離していき、演劇は演劇のままで歩みを進め、映画はそこから離れて別の文化となって進化していった。
それと同じように「文字を目で追って読み進める本」も、独自の新しいUXを持つ電子本とは別に進んでいくことになるだろう。
ただし「演劇と映画」がそのまま「印刷本と電子本」のアナロジーになるわけではない。演劇は一回こっきりのライブ文化であるのに対して、映画はコピー可能で何度でも同じものを上映できる複製文化だ。しかし本の世界では印刷本も電子本も同じようにコピー可能な複製文化である。だからここで演劇と映画の話からは外れ、もう少し「本」の本質に向かって森の奥へと踏み込んでいこう。その森の中でわれわれは、本というものの本質をもう一度捉えなおすことになる。
電子本の出現は、実は「本」の再定義をうながしている。私はこれからの本は、二つの方向に分かれていくと考えている。
その分岐の軸となる重要な概念は、「ウェブ化」だ。つまり将来、本は「ウェブ化する本」と「ウェブ化しない本」に二分されて行く。
ウェブ化とはどのような意味だろうか。それは構造化とリンクだ。
まず構造化について。
インターネットの世界では、さまざまな文章や動画、音声はすべてマークアップ言語によってウェブ空間の中に組み込まれている。マークアップ言語というのはかんたんにいえば、さまざまなデータを「意味」と「内容」に分離して記述する手法のことだ。たとえば読書感想文があったとする。普通の原稿であれば、ワープロソフトなどで順序立ててその本についての内容と評価を書いていくだけだ。しかしそのようにただ書かれた文章は、コンピュータからは意味が読み取れないし、また後で整理するのも難しい。そこでインターネットの中で扱いやすいように、HTMLやXMLなどのマークアップ言語が開発された。
マークアップ言語の考え方を具体例として示すと、次のようになる(これは実際のマークアップ言語そのものではなく、かなり単純化している)。たとえば読書感想文をこう書くのだ。
<著者>村上春樹</著者>の書いた<書名>1Q84</書名>を読みました。この本は<評価>とても読みやすく面白い</評価>本。私の中では<点数>100点満点</点数>です。
このように、内容を示す語句にそれぞれ「著者」「書名」「評価」「点数」といった意味を表すタグをつけておく。そうすれば生徒の書いた読書感想文がたくさん溜まってきた時、「書名」タグを検索するだけで、生徒全員が何の本について書いたのかという一覧リストを簡単に作ることができる。しかもそのリスト作成は、パソコン上で自動化できる。「書名のタグを検索してそのタグをもとに感想文を並べ替える」という作業は、文章の中身を読み解けない機械にも行えるからだ。
このように文章や動画などのコンテンツを、機械に読み解くことができるかたちに変換することを、「構造化」と呼ぶ。言い換えれば構造化というのは、全体の中でそのコンテンツがどのように組み込まれ、またコンテンツ同士がどのようにつながっているのかをすべて見渡せるように整理していくことだ。これによって世界はよりクリアに可視化されたかたちで認知され、コンテンツと自分の位置関係も明瞭になる。
そしてリンク。ウェブの世界では、さまざまな文章や動画、音声などのほとんどには永続的なリンクが存在している。リンクをクリックすれば、必ずその元の文章や動画に飛ぶことが保証されている。永続的なリンクだから「パーマリンク」という言葉もある。
この構造化とリンクが、ウェブ化の本質だ。これらがあるからこそ、ウェブサイトはグーグルなどの検索エンジンで検索することができ、愛読しているブログが更新されれば通知してくれるサービスが存在し、ツイッターやフェイスブックで情報共有することができるのだ。
このウェブ化というとらえ方でいえば、現時点では電子本はウェブ化はされていない。
オライリーレーダーという米国のネットメディアで、ヒュー・マクガイヤーが「本とインターネットの境界はなくなっていくだろう」というコラムを書いている。この中で彼は電子本を「インターネットの内側にあるのか、それとも外側にあるのか」という観点から考察し、こう述べている。
「電子書籍の特定のページやパラグラフ、画像、表などに対してリンクできない。電子書籍に対する標準的なリンクのシステムが存在しないので、電子書籍のタイトルそのものやその中の章に対するパーマリンクが存在しない。そしてみんなが望んでいる書籍本文のコピーアンドペーストもたいていの場合できない。たとえば『モントリオールについて1942年に書かれた本』というような横断的な検索ができない。同じ出版社の中でさえも」
電子本は、デジタル配信されているという点では印刷本よりもずっとウェブに近い場所にまでやってきているが、構造化とリンクが存在しないためウェブ化はされていないということだ。だからまだ電子本は「インターネットの外側」にいるということなのである。
念のために付け加えておけば、電子本は実は内部的には構造化されている。電子書籍フォーマットのグローバル標準として知られるEPUB形式は、マークアップ言語で書かれた本文や目次など複数のデータを圧縮してひとつのファイルにしてあるだけだ。だから内部ではウェブと同じ構造になっているのだが、しかし圧縮してひとつにまとめてあるため、ファイルの外部からは内部の構造にアクセスできないようになっている。マクガイヤーはこれを評して「本が表紙カバーにくるまれているように、EPUBも自己完結的だ」と的確に表現している。
マクガイヤーはいつか電子本がウェブ化されていく可能性として、「書籍のAPI」という考え方を提示している。
APIはアプリケーション・プログラミング・インターフェイス。ウェブやアプリケーションソフトなどが、自分の持っている機能を外部のアプリケーションから利用できるようにし、その手続きや手順などを定めたものだ。たとえばグーグルの地図サービス「グーグルマップ」はこのAPIを外部に公開していて、だれでも自分の作ったアプリケーションにグーグルマップを組み込むことができるようになっている。たとえば「名所旧跡マップ」というアプリケーションを作ろうと思えば、API経由でグーグルマップを利用し、グーグルマップ上の名所旧跡の位置に自分の書いた文章や撮影した写真を貼り付けるといったことが可能だ。
このAPIを電子本に導入するというのが、マクガイヤーの考えだ。EPUBのように自己完結的にパッケージにくるまれている電子本を、外部からAPI経由でページ情報、文字テキスト、目次、画像、表などにアクセスできるようにする。これによって書籍は構造化され、ウェブ化していく。そして書籍とインターネットの境界は消滅していくだろうというのが、マクガイヤーの結論なのである。
これは非常に魅力的な未来像だ。このウェブ化の先に、いったい何が生まれてくるのかをこれから予測し、考察していかなければならない。それは本連載のひとつの目標でもある。
少し話を戻そう。先に、未来の本は「ウェブ化する本」「ウェブ化しない本」に二分されて行くだろうと書いた。ではウェブ化されない本はいまの本のUXのまま歩んでいくのだろうか? つまり印刷本が電子本になっても、いまの電子書籍アプリケーションが印刷本をなぞっているようなページめくりアニメーションや、ルビ、縦書き、圏点などといったUXとUIがそのまま維持されていくのだろうか?
私はこれらも変わっていくと考えている。
すでにその萌芽は出ている。
先ごろ、アップルのiPadむけの新しい電子書籍アプリ「iBooks3」が公開された。まだアップルが日本で電子書籍ストアをスタートさせていないことに加え、対抗する電子書籍最大手アマゾン・キンドルの日本発売と電子書籍ストアの日本語版開設がついに始まるという大ニュースがあったため、このiBooks3はほとんど話題になっていない。しかしこのアプリには、電子本の未来の可能性を考える上で非常に注目すべき変化があった。
それは、ページを送るのに「ページめくり」だけでなく「縦スクロール」も追加されたということだ。つまり横書きの本のページを左から右にめくっていくのではなく、ウェブサイトを見るようにスクロールさせながら読み進めていくという方法が加えられたのである。
いま読んでいる印刷本の綴じを、すべてばらしたとしてみよう。バラバラになったそれらのページを一直線に並べてみる。もし120ページの本をばらしてページを並べたとすれば、120枚のページは横一列に並んでいるはずだ。しかしこのiBooks3の縦スクロールでは、全ページが上から下へと縦一列に並んでいる。つまり本のページの配置が横から縦へとがらりと変わってしまっているのだ。
とはいえ、完全にページの概念を排除しているわけではない。ページとページの間には幅の広い黒い境目が表示され、ページからページへと移動したことが視覚的に認知できるようになっている。ページ番号も表示されていて、スクロールして次のページへと移動するとちゃんとページ番号も更新される。
このiBooks3の縦スクロールは、アメリカのネットメディアからはたいへん好評に迎えられている。テッククランチではたいへんな絶賛だ。「縦スクロールがこれまた素晴らしい。ページのある本? なんという物理的な世界。いつまで死んだパラダイムにしがみついているの? 未来へ行こう!」
またマッシャブルのクリス・テイラーはこう興奮して書いている。
「あっという間にこの読み方にはまってしまった。自然でスムーズだ。キンドルはすぐさまこの縦スクロールを取り入れないとiBooksに負けてしまうことになるかも」
テイラーは、以前のようなページめくりによる電子本の読書では、ページ番号があるために気が散ってしまって良くなかったということを指摘している。「全体で250ページでいま120ページだから、残り130ページか」と常に頭で計算してしまい、まるで読書がゲームのような感覚になってしまうというのだ。たしかに分厚い本を読んでいると、「いま何ページにいるのか」ということが非常に気になる。そしてこの感覚は、テイラーが言うように電子本になってますます増したような感があったのは事実だ。このあたりの感覚の変化を指して、「電子本は読みにくい」「最後まで読み切る本が減った」という指摘も少なからずあった。
その「感じ」の根源は現時点では明確ではないが、そもそもタブレット画面上でのページめくりという行為が、人間の感覚にはうまくあてはまらないUIだったのかもしれない。「紙の本でのページめくり」と「タブレット上でのページめくり」は同じUIでも、まったく異なったUXをもたらしているからだ。
しかしiBook3は、ページめくりというUIだけでなく、ウェブの技法であるスクロールというUIを加えた。これは新しいUXをもたらしており、すなわちウェブ化しない「文字を目で追って読み進めるだけの電子本」であっても、紙の本とは異なるUXが必要とされていることを端的に証明してしまっている。
このように電子本の世界は、印刷本の模倣とは異なる新たな地平なのである。これが私が冒頭で書いた「電子本は、紙の印刷本の劣化コピーではない。印刷本とはまったく異なる新しい媒体である」ということの意味なのだ。
今後の連載の道すじを整理しておこう。
今回は表現技法の変化について書いた。しかし電子本が登場することによって変化するのは、表現技法だけではない。
第一に、配信システムが、印刷物流からインターネットのデジタル配信へと変わる。
第二が、今回説明したような、表現技法の変化。
第三が、表現技法の変化にともなって起きる「本を書く」「本を制作する」という行為そのものの変容。これは書き手の側の変化だ。
第四が、そうした本の制作方法の変化や表現技法の変化によって、読者と書き手の関係が大きく変化してくる。
この四つの変化の様相をどう捉えるかが、電子本の今後を考える上で非常に重要な要素となる。次回からは、それぞれの要素についてメディアの歴史を踏まえながら、ひとつずつ考えていきたい。