[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2013.4.19

第4回静的な「蔵書」から、動的な「蔵書」へ

 蔵書というのはかつて、インテリの象徴であるかのように見られていた。思想家や文学者といった人たちには、「本を買いすぎて家が潰れそうになった」「本に埋もれて紙魚(しみ)のようにして暮らしている」といったエッセイを書く人が非常に多かった。
 蔵書とはそもそもなんだろうか。「本を溜める」「本棚に並べる」という蔵書の行為をいったいどのように捉えればいいのか。
 おそらくそこには二つの意味がある。
 ひとつは、蔵書はその所有者にとっての知のライブラリになっているということ。つまりそこに並べられている本は所有者の「補助脳」のようなものであり、文章を書くときなどにつねに参照される知の泉であるということ。
 ふたつめには、所有者の知の履歴であるということ。自分がどのような本を読んできたのか、どのような本を読もうとしているのかというその思考経験の遍歴であり、そしてそれは同時にその人の価値にもなる。さらには「父親の書棚を見て子供が育つ」というような継承されるべき遺産でもある。
 しかしそうした蔵書への感覚と価値は、いまやいったん解体されなければならない。

 イスラム学の権威として知られる故井筒俊彦は、まだ慶應大学文学部の助手だった20代のころにアラビア語を学んだ。太平洋戦争前、日中戦争が始まっていたころの話である。アラビア人は東京にはほとんど居住しておらず、もちろんアラビア語の学校も、独習書さえもなかった。
 なんとしてでもアラビア語を学びたいと熱心に探してまわった井筒は、アラビア語がアラビア人よりも上手なトルコ人が東京にいるという噂を聞く。
 以下は、井筒が作家司馬遼太郎との対談『二十世紀末の闇と光』(『十六の話』司馬遼太郎、中公文庫所収)で語った話である。

 出会ったのは、もう百歳に近いお年寄りのトルコ人だった。彼はヨーロッパに滅ぼされたイスラムの帝国をふたたび再興しようとしていた運動家で、東京を拠点にして活動し、頭山満などの右翼の大物とも親交があった。
 老人は「自分は、アラビア語なんか教えた経験もないし、教える気も全然ない。自分の日本にいる目的は全然違うんだ」と固辞するが、井筒の熱意に根負けし、上野に構えていた自宅でアラビア語を個人的に教えてくれることになった。
 アラビア語の学習がひととおり終わったころ、老人は井筒に告げる。
「わしはもう、教えることはみんな教えた。おまえに、これ以上教えることはない。ただ、おまえはわしの息子だから毎日遊びに来い。だけど、もうじきわしなどとは比較にならないすごい学者が日本に来る。ちょっと例のないような大学者だ。おまえに紹介するから、そこへ行って習うがいい」
 そうして井筒が出会ったのは、ムーサー・ジャールッラーハというイスラム学者だった。
 ムーサー先生は大学者だったが金はなく、代々木の一軒家の押し入れの中で暮らしていた。部屋を借りたが家賃が払えず、見かねた大家が「気の毒だから、押し入れの上段を貸してあげよう。上段は布団をしまっておくところなので、その中で寝ていればいい」となんだかよくわからない好意を寄せてくれたのだという。
 家財道具などを持たず、蔵書もない。どうやってそれで学ぶのだろうと井筒が不審がると、ムーサー先生はこう言った。
「イスラームでやる学問の本なら何でも頭に入っているから、その場でディクテーションで教えてやる」
 ディクテーションというのは書き取りのことだ。つまり本の内容を口頭でしゃべるから、それを書き取ればいいというのである。実際、井筒がアラビア文法学の聖書といわれている『シーバワイヒの書』という1000ページもあるような本を習いたいと申し出たところ、先生はその内容だけでなく、その本の注釈書までをもすべて暗記していて、さらにそれに自分の意見も加えて口頭で教えてくれたのだった。

 病床に伏せった井筒を見舞いに来てくれたこともあった。部屋に上がってもらうと、先生は「おまえ、ずいぶん本を持っているな。この本、どうするんだ」と訊く。井筒は「もちろん、これで勉強する」と答えた。
「火事になったらどうする?」
「火事で全部焼けちゃったらお手上げで、自分はしばらく勉強できない」
 するとムーサー先生は呵々大笑した。
「なんという情けない。火事になったら勉強できないような学者なのか」
 別の時に、先生はこういうことも訊いた。「おまえ、旅行するときはどうして勉強するんだ」
「必要な本を持っていって読むんだ」
「おまえみたいなのは、本箱を背負って歩く、いわば人間のカタツムリだ。そんなものは学者じゃない。何かを本格的に勉強したいんなら、その学問の基礎テクストを全部頭に入れて、その上で自分の意見を縦横無尽に働かせるようでないと学者じゃない」
 ムーサー先生の暗記力はすさまじく、ある本を借りてこいと命じられ、イスラム研究も行っていた右翼思想家大川周明のところから600ページもあるアラビア語の本を借りて持っていったところ、わずか1週間でほとんど全部暗記してしまったという。
 先生はこう言い放つのだった。
 「おまえに、こんなことをやれとはいわないけれども、イスラームでは古来学者はどんなふうにしていたのか、知っておいてもらいたいから教えてやる。できたら、その何分の一でもいいから、真似してみるがいい」

 本は、蔵書しているだけでは意味はない。そこから知識を引き出し、自分なりの価値を加え、新たな知見へと再構成されていかなければならない。蔵書というのは参照されるべき知識の泉であり、そこから湧いて出る水を飲まなければ、何の価値もないということだ。
 だから理想の蔵書は、ムーサー先生のようにすべて頭の中に入っている状態ということになる。自分の意見を組み立てようと思考をめぐらせる時に、頭の中の蔵書であればすぐに検索され引き出され、思考の中に組み込んでいくことができる。つまり書籍が構造化されたデータベースとして脳内に保存され、それが神経パルスの速度で検索可能な状態になっているということだ。
 もちろん現実には、すべての本を暗記できるわけではない。そして同時に、いくら大金持ちであってもすべての本を蔵書できるわけではない。脳の記憶野に限りがあるのと同じで、自宅の本の置き場所と書籍購入費用にも限りがある。
 司馬遼太郎は、資料集めの鬼として有名だった。ウィキペディアの司馬のページにはこんなふうに紹介されている。
「資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集めた。司馬が資料を集め始めると、関連する古書が業界から払底したという逸話があった。当初は、軽トラックで乗り込み、古本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読購入し、関係者らと荷台に乗せていったという。『坂の上の雲』執筆に際しては、神田神保町の神田古書店街の古書店主らに依頼し、『日露戦争』という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしが古書店に行っても資料がなかったという逸話も残る」
 1冊の本を書くために読んだ本の総量が1トンを超えたとか、信じられないエピソードもある。これだけの予算と時間と場所を用意でき、さらに圧倒的な執筆への執念があれば、このようなこともできるということなのだろう。しかしイスラム大学者ムーサー先生の暗記にしろ、司馬の資料集めにしろ、常人に理解できる範囲をはるかに超えている。
 暗記力もそこそこで、普通の民家に置ける程度の書棚しか持っていない人間にとっては、蔵書が知の泉であるというのはしょせんは幻想にすぎない。自宅に数千冊ぐらいの本が並んでいたとしても、その程度の数の本から得られる知見など限られているのだ。

 さらにいえば、そうやって蔵書されている本も、ただそこに並んでいるだけではなんら意味を持たない。なぜなら、それらの本はデータベースとして構造化されていないからだ。
 19世紀のドイツの哲学者ショウペンハウアーは、「思索」(『読書について 他二篇』岩波文庫所収)という文章でこう書いている。
「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。何か一つのことを知り、一つの真理をものにするといっても、それを他のさまざまの知識や真理と結合し比較する必要があり、この手続きを経て初めて、自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に駆使することができるからである」
 大量の蔵書がそこにただ存在しているだけではなく、その蔵書の数々になにが書かれているのかが、頭の中で整理されていなければならない。つまり、つねに引き出し自由自在な状態に置かれていなければ、それらの本はただ死蔵されているだけになってしまう。
 しかしたいていの書棚の本は、構造化されていない。自分の所有している本それぞれに何が書かれていて、どのような構成要素を持っているのかまでをきちんと把握しているような人は、かなりの少数派だろう。

 蔵書を知の泉として使うためには、つねに検索可能であり、参照可能である必要がある。さらに内容が構造化されていれば、なお良い。その意味では、いまの図書館の検索機能でもかなり貧弱だ。図書館の蔵書はジャンルや題名、著者名、出版社名などのパッケージ部分でしか検索できない。内容の細部までは検索できないのだ。
 本が知の泉となっていくためには「つねに検索可能であり、参照可能である」という条件が満たされる必要がある。
 これを可能にするためには、書籍は電子化され、アンビエント化されなければならない。アンビエントというのは「環境」「われわれを取り巻くもの」というような意味で、つねにそこにあって手に届く状態を指している。
 ウェブの検索エンジンは、インターネット上の知をアンビエント化している。オープンなウェブサイトはつねに読者に向けて開かれており、検索できて参照できる。
 いまインターネットの世界では、スマートグラス(眼鏡)やスマートウォッチ(腕時計)と言われるような身体装着可能な機器も登場し始めており、身体との融合が進んでいこうとしている。このような進化の先には、クラウドに置かれている知が、身体とリアルタイムでシンクロナイズしていくということも起きる。たとえばスマートグラスを顔にかけ、ウェブ検索システムが目線の片隅で行えるようになれば、見聞きすることについての情報を瞬時に調べられるようになる。
 これは人間の知のあり方を、根本から変えることになるだろう。つまり「知っているだけ」という単純な知識には意味が無くなり、いかにしてそこから先に鋭い分析や深い洞察ができるのかということが知の定義になっていくからだ。
 ではこのようにオープンなウェブとしての本は実現可能なのだろうか? それはそもそも本と呼べるようなものなのか?

 その回答はいったん置いておいて、蔵書の第二の意味である「読者の知の履歴」について考えてみよう。
 あるひとりの読者はどのような本を読んできたのか。またその読者は、これからどのような本を読もうと「積ん読」しているのか。蔵書の棚をみれば、そのようなことがたちどころにわかる。
 これはその読者の知性のコンテキスト(文脈)であるということが言える。読んできた本、読もうとしている本によって、その人がどのような人なのかを推し量ることが可能だからだ。
 アメリカの歴史研究家ティモシー・ライバックは、米議会図書館やブラウン大学、各地の個人宅などに保管されていたアドルフ・ヒトラーの蔵書1300冊を徹底的に調べ、ページに残された書き込みから独裁者の人間性を浮かび上がらせ、『ヒトラーの秘密図書館』(日本語版は文藝春秋)という著書にまとめている。どのような本を読み、その本にどのような感想を持ったのかというのは、まさにその人の人間性そのものであり、その人のコンテキストであるということなのだ。
 ライフログということばがある。直訳すれば「人生の記録」。人がどのような場所を移動し、何を見て、他人とどんなコミュニケーションを取り、どんな買い物をしたのかというさまざまな行動履歴を記録することをライフログという。いまインターネット企業のサーバーにはこのような人々のライフログデータが大量に蓄積され、それらを解析することによって再利用しようという動きが進んでいる。これをビッグデータ技術という。この分野の進歩は凄まじく、フェイスブックやツイッターのようなソーシャルメディア上での人々の発言や、他人のどんな写真に「いいね!」を付けたのかといった非構造的なデータも解析し、そこからマーケティングに活用できる分析を引き出すというようなことが行われるようになってきている。
 このライフログは、われわれの人生のコンテキストである。そしてビッグデータ技術は、このコンテキストを解析し、われわれの求めているものや意味を抽出させるというようなところへと進みつつあるということなのだ。
 アマゾンで本を買うと、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というお勧めが表示される。これも協調フィルタリングという手法を使ったビッグデータ技術の一種である。
 つまりビッグデータ技術によって、われわれが過去に購入した本の履歴の意味が抽出されるだけでなく、そこから「次にわれわれがどのような本を買うことになるのか」という、積ん読予測までもが抽出されることになる。
 ビッグデータ技術によるお勧めで本と出会い、その出会ったこと自体が自分自身のライフログとして、ふたたびビッグデータに回収され保存されていく。
 これはすなわち、蓄積されるビッグデータとその解析結果が、読者の知のコンテキストになっていくということだ。
 つまりはコンテキストこそが「蔵書」なのである。
 ここで蔵書の再定義が行われなければならない。膨大な書籍の中から、読者のコンテキストに沿った的確な本が拾い上げられること。それこそが未来の「蔵書」にほかならない。
 死蔵された静的な蔵書ではなく、動的に組み替えられていく蔵書。

 そもそも人はどのようにして本を選ぶのか。私は3年前に刊行した『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー21)でこう書いた。
「本という装置。その本を取り巻くコンテキスト。なぜ私たちは歴史の中のこの場所とこの時間に立っているのか。それをこの本はどう説明してくれるのか。その本を介して、私たちはどんな世界とつながり、どんな人たちとつながるのか。その向こう側にあるのは新しい世界か、それとも懐かしく暖かい場所なのか、それとも透明な風の吹きすさぶ荒野なのか----それは本とそれをとりまく読者のつくる圏域によってさまざまでしょうが、本を介してそうした世界に私たちはさらに強くつながるようになるのです」
 本が的確に選ばれるためには、その本のパッケージではなく、本自身のコンテキストを共有させる仕組みが必要になる。
 そこにはソーシャルメディアとビッグデータという二つのアプローチがある。大ざっぱにいえば「友人がお勧めしているから読む」か、「自分の読書履歴などから解析する」かである。そしてこの二つのアプローチは、技術の進化によってだんだんと融合する方向へと進んでいる。
 たとえば音楽の世界では、この二つを融合させた音楽のサービスが登場してきている。日本ではまだサービスインしていないが、パンドラ(Pandora)やスポティファイ(Spotify)といったサービスがそうだ。月々決まった金額を支払えば音楽をいくらでも聴けるというもので、「聴き放題サービス」「音楽ストリーミング」「サブスクリプション(定額配信)」などいろんな呼び名がある。ある種の有料ラジオのようなものと捉えればわかりやすいかもしれない。

 エンタテインメントビジネスのコンサルタントなどを行っている榎本幹朗によれば、パンドラでは当初、純粋なビッグデータ技術ではなく、プロミュージシャンの「耳」感覚を活用して音楽の解析が行われていたという。
 それはミュージックゲノムという技術で、2000にものぼる判断基準を使い、楽曲の構造を解析し、その曲の持っているDNAのようなものをプロミュージシャンが耳で聴きながら確認していく。
 さらにその後ビッグデータの技術が向上したことで、いまパンドラでは次のような解析が行われているという。

(1) 音楽理論による解析
(2) ログ解析
(3) 波形解析
(4) ウェブ解析
(5) オンエアリスト解析
(6) ソーシャル放送[非同期型]
(7) ソーシャル放送[同期型]

 これによってお勧めの精度が上がり、同じような曲や同じジャンルばかりではなく、想像もしなかったようなまったく知らない楽曲がお勧めされてくる新鮮な驚き(セレンディピティ)が演出されるまでになっている。つまりは自分の音楽のコンテキストが大きく拡大し、みずから意識をしていなかったところにまで及ぶということになるのだ。
 パンドラには「シードソング」という概念がある。自分がいま聴きたい曲名を入力すると、その曲が種となって芽が出て、木の枝葉がしげってゆくように音楽が紡がれていくというものである。
 これは前回も紹介したメディアアート「カンブリアンゲーム」を想起させる。カンブリア紀の進化の爆発のように、最初の画像イメージから参加者が次々にイメージを膨らませ、さまざまな画像をつなげていく参加型のアートだ。
 ゲームを発案した安斎利洋はこのイメージの連鎖を「星座作用」と呼んだ。古代の人が見上げて発見した星の配列のように、世界は無数の星座のようなイメージのつながりによってできあがっている。
 星座を美しく描き、演出していくという、これこそがパンドラのビッグデータ技術の要なのだ。
 前出の榎本幹朗は、ウェブメディアMUSICMAN-NETの連載『未来は音楽が連れてくる』で、こう書いている。
 「Pandoraを使っていると、お気に入り曲の種子たちがすくすくと育ってゆき、木々はやがて音楽の森となり、さざめく感動が日差しのように身を包んでくれる。木漏れ日から音楽の明るい未来があふれてくるようだ」

 本との出会いの道しるべ、そこをどう歩いて行ったかということこそが、その人の読書遍歴である。そしてこの遍歴こそが、その人のコンテキストであり、その人の知性そのものであるということなのだ。
 未来において、子は親の書棚を眺めるのではなく、親の歩いた読書遍歴の道のりをふたたび歩み、その道ばたで父が何を考えたのかに思いを馳せながら青空を眺める。そこにこそ意味があるということなのだ。

 音楽ストリーミングサービスのようなものが、電子書籍の世界に侵入してくるかどうか。すでに「毎月定額で本を読み放題」というようなモデルは模索され始めている。中国では、大量の電子書籍が読める状態になっている電書リーダーを販売するというビジネスがすでに実験されている。音楽にならい、いずれこのようなモデルが出てくる可能性は充分にあるだろう。
 その可能性はまた本連載の別の回で検討することになるだろう。ここでひとつだけ提示しておくとすれば、そもそも現在でも電子書籍は、読者によって所有されているのではなく、単に「読む権利」を付与されているのにすぎないということだ。つまり電子書籍は、販売はされていないのである。
 アマゾンのキンドルストア利用規約にはこうある。
「Kindleストアより指定された台数のKindleまたは対象機器上でのみ、お客様個人の非営利の使用のみのために、該当のコンテンツを回数の制限なく閲覧、使用、および表示する非独占的な使用権が付与されます」
「販売」ではなく、コンテンツ「使用権」ビジネスなのだ。
 加えて物理的なパッケージが存在しない電子書籍では、本というコンテンツに対するパッケージ的愛着のようなものは徐々に減少していくだろう。買ってきた本をさすったり眺めたりにおいをかいだり、といった行為はなくなっていく中で、「個」としての本の意味は変化していく。そうなった先に電子書籍に対する所有感が消滅していけば、そこには逆に「読書ストリーミング」のような概念が浮上してきてもおかしくはない。
 そして読書がストリーミング化していく中では、本一冊一冊は単体コンテンツとしての強度を保ち、マイクロコンテンツのように細分化されないけれども、しかし「本全体の空間」としてはオープン化され、ウェブと同じように開かれたものになっていくだろう。
 つまりそこでは、本という単体のコンテンツ強度は保ったままで、検索・参照可能になり、アンビエントな知に変貌していくということだ。
 そして、「知のライブラリ」であるという蔵書の意味は再構成される。
 同時に、蔵書による「知の履歴」としての感覚もいずれビッグデータ技術によるコンテキストへと再構成される。
 そこにいたって、「蔵書」の感覚と価値は、ウェブの技術によっていったん解体され、新たな枠組みへと進化することになるのである。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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