[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2013.6.14

第5回「場」としての読書

 コンテンツは、パッケージされている。本は電子書籍だろうが紙の本だろうが、タイトルがつけられて「ここにある一冊の本」という外殻が与えられることによって、コンテンツとして自立している。
 外界や他者と自分を分ける境界があるという一点において、人間と本は似ている。人間が「自分は他人と違う」と線を引いて感じるのと同じように、コンテンツも「自分は他のコンテンツと違う」という線引きがある。
 もし本に人間と同じような自意識や自己認識みたいなものがあったら、きっと「僕は村上春樹さんが書いた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という一冊の本。他の本とはちょっと違うと思うね」と内心思ったりするのかもしれない。

 ではかりに人間やコンテンツに「外殻」がなくなったら、どうなるだろう? 人間の場合、それは新たな世界認識をもたらすという指摘がある。つまり自分と外界の境界線が不明になり、自分が宇宙とつながっているように感じるというのだ。
 それを指し示す事例が、アメリカの神経解剖学者ジル・ボルト・テイラーの経験したできごと。彼女は1996年12月10日、自宅で脳卒中を発症し、脳の左側にゴルフボール大の血栓ができた。後々まで名プレゼンテーションとして伝説になったTED(Technology Entertainment Design)でのトークで、彼女は発症の瞬間のことをこんな感じで語っている。

ーー左目の裏に痛みを感じた。起き上がってエクササイズのローイングマシンに乗って運動しようとしたが、まるで自分の手が怪獣のかぎ爪のように見える。身体を見下ろしてみると、奇妙な恰好に思えた。身体はマシンの上にあるというのに、意識は現実認識から離れ、どこか遠くからエクササイズしている自分を見下ろしているようだ。

 マシンを降りて浴室に向かい、シャワーを浴びようとすると、自分の身体の境界がわからなくなっていることに気づいた。自分がどこから始まり、どこで終わるのかという境界がわからない。壁に手を突くと、壁の原子や分子と自分が混じりあっていると感じた。

 左脳から声が聞こえる。「おい、これはトラブルだ。誰かに助けてもらわなきゃ。たいへんたいへん!」

 声が聞こえなくなると、自分がいる世界は素晴らしいところだった。この空間の中では、ストレスがすべて消えている。身体が軽くなった。外界すべての関係とそれに関わるストレスのもとがなくなり、平安で満ち足りた気分になった。37年間の人生、その感情の重荷から解放されている。幸福だった。世界は平和で美しく、思いやりに満ちている。

 読み書きもしゃべることもできなくなっていたが、しかし情報は論理としてではなく、エネルギーとしてすべての感覚器官からいっせいに流れ込んでいるように感じた。においや味、指先の感覚、見えるもの、それらがすべて巨大なコラージュとして目の前にある。自分は大いなるシステムの中にいると感じ、いまこの場所、いまこの瞬間しか存在しなかった。


 ジル・ボルト・テイラーは言う。「左脳は、直線的、系統的に考える機能を持っている。全体の中から詳細を抽出し、それらを分類し、整理し、これまで覚えてきた過去のことと結びつけ、将来の可能性へと投影する。言語で考え、それによって外部の世界と内面を繋げている。『今日、バナナを買うのを忘れないように』といった継続的な脳の中の喋り声、それらの小さな声が、つまりは『私がある』ということだ。『私』はそれによって世界から切り離され、まわりの他者からも切り離され、ひとりの確固たる個人として存在する」
 彼女が失ったのは、そういう「世界との切り離された個人」という感覚だったということだ。
 ひとりの個人と他者を分けるものは何なのか? 原子レベルにまで分解すれば、人間の皮膚の内と外を分ける境界などほとんど何の意味も持たない。ジルのように意識も外界と融解していくと、いったい自分とは何なのかという根源的な疑問に対して、何の答も見いだせなくなってしまう。
 ジルが発見したのは、外界との境界のない人間のありかただった。こういう「世界とシームレスにつながっている自分」という概念は、古代から現在にいたるまで人々の頭をつねに離れない願望である。たとえばSF分野にそれは顕著で、1990年代のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画とか、アーサー・C・クラークのSF『地球幼年期の終わり』とか、世界と人間の一体化をテーマにした作品は非常に多い。
 そしてコンテンツの世界でも、このような「世界とシームレスにつながっている」という概念は成り立ちうる。つまり単体のコンテンツとして屹立しているのではなく、他のコンテンツと融合し、どこからどこまでがコンテンツの単体なのか、どこから先が別のコンテンツなのかという境界線がはっきりしない、そういうコンテンツのあり方だ。

 古代、多くの本は朗誦されることを前提として書かれていたという。「読む」という行為は、口に出して語ることであり、文字は読まれてこそ命が吹き込まれると考えられていたのだ。そして読まれる文字はただ音として発するだけでなく、読み手が身体を震わせ、文章の抑揚にあわせて全身を動かし、歌うように読んだ。「読んだ」というよりは「詠んだ」と表記する方が正確だ。音楽と文章はこの時代にはほとんど一体化していて、分離していなかったのだ。
 後世のイスラム教に強い影響を与えたとされる11世紀の神学者アブ・ハミド・アル=ガザーリは、コーランを読むとき、そこに書かれている聖なることばを理解するためには、悲しみが必要だと説いた。泣くように読むべきであり、もし自然に泣けないのなら、泣くように努めるべきだと説いたのだ。
 そしてガザーリは、読むことと聞くことは、同じぐらいに聖なる行為だと言っている。朗誦が前提の時代には、「読む」「聞く」は同等だったということなのだ。それは21世紀の現在における本の概念とは、だいぶ異なっている。私たちは本は黙って読むものであり、本を音読することはほとんどなく、また音読される本を聞く機会もあまりない。英語圏と違って日本には朗読イベントのような文化はほとんどないので、ますますそうだ。「オーディオブック」のような音読コンテンツを利用している人もどちらかといえば少数派だろう。

 哲学者イヴァン・イリイチも、『テクストのぶどう畑で』(岡部佳世訳、法政大学出版局)で、かつての修道士はまるで餌を口の中で反芻するウシのように読書し、瞑想していたと書き、12世紀の神学者聖ベルナールのこんなことばを紹介している。

 あなたは食物を反芻する正真正銘の動物になりきらなくてはなりません。そうすれば書かれたものは、『知恵ある者の口の中に、好ましい財宝がとどまる』(『箴言』二一、二一)という状態になることでしょう」「その言葉の甘美さを楽しみなさい。私はそれをくり返し、くり返し噛むのです。すると私の体中の器官は新しい力を得て、腹は満ち足り、全身の骨が賞賛の叫びを上げるのです。


 この時代に聖書を読むという行為は、儀式でもあった。読む人もそれを聴く人も、読む人が発する音の前に平等だった。全員が、聖書の声の空間の中に取り込まれて、そこはひとつの「場」と化していた。これはまさに、ジル・ボルト・テイラーが脳卒中の際に経験した感覚である。自分が世界とシームレスにつながり、世界と一体化しているという感覚だ。
 しかし黙読が発明されたことで、この状況はがらりと変わる。読書は、読み手と聴き手すべてが参加して神の声を全身で聴く「場」ではなくなる。そのかわりに、読書は思考を深め、抽象的な概念を考えるための手助けとなるものになっていく。書物は朗誦されるものではなくなり、歌と一体化したものではなく、全体が緻密に編集され、ロジックで構成されたひとつの構造体へと変化していく。
 これをイリイチは、音楽のデジタル化になぞらえて説明している。1970年代末までのレコードの時代には、録音された音楽をくり返し聞くことは可能だったけれども、その中からある特定の小節などを選び出すような手軽な方法はなかった。ところが音楽がCDに収められるようになると、経過時間や再生している場所のマークなどをオーディオの画面で表示できるようになった。つまり音楽が「構造化」されたということだ。

 これは書籍や雑誌などの紙コンテンツから、ウェブや電子書籍などのデジタルコンテンツへの変化にも重なってくる。紙のコンテンツの時代には、そこに印刷されていた文字や写真やイラストは、ただ読み進める時間の経過とともに目に入ってくるだけのもので、後から参照しようとするとたいへん面倒だった。単なるシーケンシャル(直線的)なメディアだったのである。しかしランダムアクセスできるメディアであるウェブは、すべてHTMLという規格によって構造化されている。検索もできるし、サイト全体のツリー構造がどうなっているのかを参照するのも簡単だ。
 同様に、12世紀に起きたのは、「本」というコンテンツがシーケンシャルに朗誦されるものから、検索したり論理構造を読みなおしたりできるランダムアクセスなメディアへと変貌するという事態だった。つまり朗誦され、全員が一体となり、渾然と何もかもが融合していた非構造的な本から、緻密に編集されてロジックで校正された構造化された本へと変わったということである。
 この変化は、本を「読む」ということの意味を大きく変えた。イリイチは書いている。「神学および哲学の本は、〈物語〉を再現する手段ではなく、〈思考〉、すなわち思考構造を実現する手段となる。この〈思考〉は、何よりもまず出来事の語られた記憶ではない。それは考え抜かれた理性の概略である」。皆で物語を共有するためではなく、ひとりの読者という個人が思考するためのツールに変化したのである。
 そして本は、本の中に描かれるひとつの「世界観」を文字で映し出すものになる。本そのものが世界観なのではなく、世界観はどこかの空中に浮かんでいる抽象的な存在で、本はそれを文字で表現したものになるということだ。これはわかりにくい概念かもしれないが、本の書き手ならだれでも直観的に理解できるはずだ。

 たとえば私はこの6月、『レイヤー化する世界』(NHK出版新書)という新著を上梓した。この本は、強力で巨大なプラットフォーム企業の台頭と、その上で産業のみならず社会構造や人間の構造までもが重層化(レイヤー化)していくことを説明している。この概念はもう何年も前から私の頭の中に存在していたし、これを一冊の本としてまとめようとずっと考えていた。
 だが頭の中にきわめて抽象的な状態でシンボリックに概念が存在しているということと、それが文字に書き起こされて表現されるということの間には、とても長い距離がある。その距離を埋めるために、膨大な量の文献や資料にあたって補助線がうまく引けないかと考え、PCのエディタアプリの前に座り込んで文章表現に悩む。そういう苦労を延々と続けているうちに、抽象的なシンボルでしかなかった概念に肉付けが行われ、文章として表現され、そして概念は天空から地上へと降りてきて、地面に着地しはじめる。『レイヤー化する世界』はそうやって書かれた。
 このシンボリックな天空に浮いている概念に、イリイチは「テクスト」ということばをあてている。「十二世紀末までに、書物はわれわれの時代に引き継がれている象徴的意味を帯びるようになる。書物は、先例のないある種のものの象徴となる。その文字に表わされているが、触れることのできない存在を、私は〈本の形をしたテクスト〉と呼ぶことにしよう」

 書物は、語の根付いている大地であるという性格を失った。この新しいテクストは、書物のページから作りごとが浮き上がって、独立した存在となったものである。この新しい本の形をしたテクストは、間違いなく物質的存在ではあるが、それは普通の存在ではない。それは〈文字どおり〉ここにもなく、そこにもなく、どこにもない存在である。ただその影だけが、唯一、形あるあの本、この本の中に現われるのである。


 このテクストの登場は、本のあり方を決定的に変えた。それは紀元前400年ごろのギリシャ語という完全な表音文字の発明と、15世紀の活版印刷の普及に匹敵すると彼は指摘するのだ。

 本は太古、口伝えで伝達される口承だった。それが書き文字に移り、記録されるようになった。そして書き文字の本を読み、読み手と聴き手が一体化した朗誦の時代が12世紀に終わり、本は黙読の時代に移る。これによって本は神の言葉や人々の集合的無意識の体現ではなく、書き手が自分の内面を描くというパラダイム転換を招く。読み手の側も、単に神の言葉を伝えてもらうのではなく、本の論理構造を読み解き、自分の思考を深めていくための材料として本を利用するようになる。
 朗誦の時代は神の時代だった。しかし黙読は自分との対話であり、内面を取り出す作業だった。そうやって読むことの内面化が自己意識を増幅させ、それが西欧における近代を生み出したということなのだろう。
 そしていま、近代西欧のつくったパラダイムは徐々に終わろうとしている。社会の構造も、人間のあり方も、そしてコンテンツの概念も。

 本連載の第3回でも書いたが、いま起きているソーシャルメディアの胎動は、再びわれわれの言葉に「自分の内面」だけでなく「人々の集合的無意識」を取り戻す道程となりつつある。それは近代から古代の民俗伝承への回帰であり、新たな書籍の概念を切りひらく可能性を秘めている。
 中世における聖書の朗誦に近い文化が、最近さまざまな分野で現れてきている。読む人や聴く人、コンテンツの発信者も受信者も、発せられる音や文字の前に平等であるという文化。全員が、ひとつの空間の中に取り込まれていくという文化。
 この新しくも古い文化がどう生まれてきているのかを、次回は考察しよう。舞台となるのは、21世紀の音楽の世界だ。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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