[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2014.10.10

最終回コンテンツの文化からコンテキストの文化へ

 メッセージアプリ「LINE」には、スタンプという機能がある。
 スタンプというのは、アイコンや絵文字をより大きくした画像だ。しかし絵文字とは異なり、文章の末尾に添付して相手に送るのではなく、スタンプ単体がひとつのメッセージとして送信される形式になっている。これによってちょっとした今の気分や感情を、文章を作成する面倒なしに気軽に相手に送ることができる。
 LINEは2011年にリリースされ、2012年ごろから爆発的に普及するようになった。この時期、LINE運営会社(当時はNHN Japan、現在はLINE株式会社)の舛田淳氏は、IVS 2012 SpringというIT系のイベントでこう語っている。
 「スタンプはもともと絵文字からスタートしたのだが、従来の絵文字よりもさらにカジュアルに気持ちを伝えられるものがないかということを考えた。テキストの最後にニュアンスとして付ける絵文字でさえも、時間がかかる。それよりもインスタントにカジュアルに送信一発で伝えられないか。そういう発想から、単体で送ることのできる大きい絵柄の画像を考えた」
 インターネットには情報流通としての役割と、人と人を純粋につなぐという役割がある。フェイスブックやツイッターは、どちらかといえば情報流通の場として機能していることが多い。ニュースや動画などに接する場として人々に活用されている。これに対してLINEは、つながりのメディアとしての位置づけが鮮明だ。日本の若者のクローズドな人間関係にうまくはまり込んだという市場ニーズもうまく作用し、一気に普及したのである。
 前出のイベントでは、LINE社長の森川亮氏もこう語っている。
 「やっぱりコミュニケーションが大切ということ。コミュニケーションて何のためにやるのだろうか。フェイスブックは情報伝達したり、意味を求めるコミュニケーションだけれど、LINEは気持ちを伝えるコミュニケーション。テキストよりもそのときの気持ちをさくっと伝えられる。知り合いとのコミュニケーションって、そういう伝達が大事なのではないか」
 人と人のコミュニケーションは、明確に言語化できるわけではない。卓越したプロの作家ならともかくも、普通の個人が相手に気持ちを伝えようとする時、自分の気持ちを文章によって過不足なく表現できるという人はそれほど多くはない。
 そこで非言語コミュニケーションの出番となる。
 当初用意されたLINEのスタンプには、ただ可愛いだけではなく、ちょっと恐い感じの「キモカワ」と呼ばれる種類のキャラクターがかなり多かった。舛田氏はこう語っている。
 「毒があるのは、さまざまなスタンプを用意してリサーチしてみた際、若い女の子は『これがいい』という反応だったからだ」
 「これらのキモカワのスタンプは、フェイスブックやツイッターには向かない。なぜなら『怒ってるウサギ』とか『困ってるクマ』というのは、それ単体では何の感情を表現しているのかはわかりにくく、送信側と受信側の人間関係の中でだけ意味を持ちうるからだ。つまりクローズドなメッセージングだから成り立つ感情なのだ」

 スタンプのコミュニケーションは、実は二層のレイヤーからなっている。たとえば「怒っている少女」というイラストのスタンプがあったとしよう。表層のレイヤーには、「怒り」という感情が添えられている。しかしだからといって、この「怒っている少女」を恋人に送りつける女性は、決して怒っているとは限らない。実はさらにひとつ下の深層のレイヤーに「恋しい」「好き」という感情も込められていることが多い。つまり相手との親密な恋愛感情のレイヤーをベースにして、そこに「怒っている」という別のレイヤーを加えることで、単に「愛してる」「好き」とストレートに伝えるのではなく、「愛してるからもっとかまってね」「怒ってる顔をしてるけどもちろん大好き」というような、重層的な感情を伝えることができるということなのだ。
 この相反する感情を表す二つのレイヤーが成立するためには、メッセージの送信者と受信者のあいだに「お互いにわかりあっている」という暗黙の了解がなければならない。たとえば、親しくもない若い女性の部下にいきなり中高年の男性上司が「怒っている少年」のスタンプを送っても、「上司に怒られている」と感じるか、そうでなければ「気持ち悪い」と不快に思われるだけだろう。
 この相互のつながりというコンテキストを前提として、非言語でおこなわれるコミュニケーションというのが、LINEの際だった特徴のひとつとなっている。
 これは非常にハイコンテキストなコミュニケーションである。

 そもそもコンテキストとは何だろうか。コンテキストはそのやりとりが行われる背景事情や共通認識、価値観のようなものを言う。他者とコミュニケーションをする際に、きわめて高度で濃密な文脈や背景事情をお互いに共有しているという状態が、ハイコンテキストだ。
 この言葉を最初に使用したアメリカの文化人類学者エドワード・ホールは、以下のように説明している。ハイコンテキストなコミュニケーションでは、情報のほとんどは身ぶり手ぶりのような身体のコンテキストの中に含まれているか、あるいは個人が内側に持っている。明確に言語化された部分には情報がきわめて少ない。しかしローコンテキストなコミュニケーションでは、情報のほとんどは明白に言語化されている。
 つまり何かを語るときに、口に出された明瞭なことばのやりとりだけで成り立つのがローコンテキスト。これに対して、口に出していることばの背景にあるコンテキストまで考慮に入れないと、コミュニケーションが成り立たないのがハイコンテキストというのがホールの説明だ。欧米の文化はどちらかといえばローコンテキストであり、日本や韓国、中国などの東アジア諸国はハイコンテキストだというのはよく言われていることだ。
 そしてインターネットは、きわめてローコンテキストな文化として成立してきた。しかし楽天執行役員の尾原和啓氏は著書『ITビジネスの原理』(NHK出版、2014年)で、ローコンテキストはインターネットというコミュニケーションツールの内在的な性質なのではなく、ネットがアメリカで生まれ、アメリカのローコンテキスト文化が色濃く投影されてきたからではないかと指摘している。

 私はインターネットというのは、ハイコンテクストなものとハイコンテクストなものをダイレクトに結びつけることができるものだと考えています。本来そういう性格を持っていたものなのだけれど、それは不幸なことに、ローコンテクストの国、アメリカで生まれてしまった。

 アメリカは多民族国家で、文化の共通基盤が少なく、共有される文脈の少ないきわめてローコンテキストな文化である。ここから出発したインターネットは、グローバル化の中で英語を共通言語として使う方向へと進み、さらに非ネイティブどうしが使うための言語として英語がさらにローコンテキスト化していくという循環が起きている。
 しかしいったんそのイメージを取り払い、「インターネットとは何か」をゼロからとらえ直せばどうだろうか。そもそもインターネットというのは、マスメディア的ではない細かい情報圏域を形成しやすい構造を持っている。これはわたしが『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)で「ビオトープ」と表現したもので、わかりやすく言えばディープだったりマイナーであったりするような同じ趣味の人同士が容易につながることができる特質をインターネットは持っているということだ。
 たとえばアシッドジャズのようなマイナーな音楽は、どこの国であっても愛好者は一定数いるだろうが、数はそれほど多くない。しかしそうした人たち同士がネットによって国境をまたぎ、YouTubeの音楽動画やブログ、音楽サービスSpotifyなどを通じて「グローバルだがディープ」という情報圏域を形成していくことができる。これはまさしくハイコンテキストなビオトープである。

 いまは英語中心のインターネットも、今後アフリカやアジア、南米の新興国の利用者が増えていけば、英語以外の中国語やスペイン語などが台頭し、マイナーな言語ももっともっと使われるようになるだろう。その時になにが起きるか。尾原氏はこう書いている。

 日本人が日本語でハイコンテクストなコミュニケーションを楽しんでいるように、土着の人同士によるハイコンテクストなインターネットが生まれるのです。生まれるというより、顕在化すると言うべきでしょう。インターネットの主要ユーザが、英語に縛られたローコンテクストな人たちから土着の言葉、土着の文化を持つ、ハイコンテクストな人たちに変わるのです。そのとき、共通言語であったはずの英語は、急速にマイノリティになってしまうでしょう。

 濃密なハイコンテキストに沿って、さまざまなコンテンツが流れる。しかもそれは「ネット以前」の昔のハイコンテキスト圏域とはかなり様相が異なる。そのような従来型ハイコンテキストは、たとえば新宿西口の中古レコード店やジャズ喫茶などのような店舗に依拠していたり、紙の雑誌やラジオ番組などのメディアを中心に成立していた。前者は物理空間という制限があり、後者には雑誌流通という制限がある。グローバルに広がるような仕組みは持っていない。

 加えてこうした従来型ハイコンテキストは、コンテンツ中心の世界から逃れられないという制限がある。
 どういう意味だろうか。わたしたちは文化というものを、さまざまなコンテンツの集成であると当たり前のように考えている。映画文化という言葉を使えば、黒澤明やジャン=リュック・ゴダールや是枝裕和など名監督たちのさまざまな作品が綿々と積み重なってきた映画の歴史を思い起こす。音楽文化といえば、過去の名曲のヒットメドレーのようなイメージだ。
 しかし文化とは厳密に言えば、コンテンツとイコールではない。ウィキペディア日本語版は文化という言葉の説明を「総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のこと」と書いている。たとえば古代ギリシャ文化には、もちろんのことプラトンの著作なども含まれるが、プラトンの著作というコンテンツだけが古代ギリシャ文化ではない。古代ギリシャ人がどのように思考し、どのような感情を持ち、どのような生活を日々送り、どのような都市の風景の中で生きていたのかという、その総体が文化である。そしてこの「総体」というのは、すなわちコンテキストに他ならない。
 つまりは文化とは、実はコンテキストそのものであるとも言えるのだ。
 従来の考え方では、コンテキストはあくまでも背景事情のようなものであって、決して前景化しないBGMだった。前面に出るのはあくまでもコンテンツであり、「コンテキストに沿ってコンテンツが流れる」というような言い方で、コンテキストはコンテンツを媒介するための舞台装置のように捉えられていた。
 しかしこれを文化=コンテキストという概念で逆転的に捉えると、こういう説明が実は成り立つ。
 「コンテキストの共有のために、コンテンツが利用される」
 つまりは相対的な文化の感覚を人々が共有し、共鳴し、共感するためのツールとして、コンテンツが使われる。コンテンツを楽しむことが目的なのではなく、コンテンツはコンテキストを共有するための素材にすぎない。

 「re/cord」という米国のネットメディアに今年8月25日、「未来のコンテンツは目的地ではなく、旅である」と題した記事が掲載された。執筆したのは大手ネット企業セールスフォース社のシニアマネージャー、アレクサ・シュルチンガー。彼はこう記している。
 「ピューリッツァ賞を受賞するような素晴らしい記事を作れば、正しい読者が戻ってきてくれて購読代金を支払ってくれるだろうという考え方があるが、わたしはコンテンツをまったく別のとらえ方で考えるべきだと信じている。つまりコンテンツを目的地としてではなく、目的地にいたる『旅』としてとらえるのだ」
 たとえばある人物が、フェイスブックの友人のフィードで、なにかの記事を見つける。表示されている短い要約を読み、それをクリックして本文まで読むのに値するかどうかを判断する。そして記事を読み、それをフェイスブックでコメントをつけてシェアする。こうした一連の流れが、「旅」だとシュルチンガーは説明している。
 この旅では、読者が最終的に求めているものが目的地だ──それはたとえば良き生きかたの指針だったり、成功するための秘訣だったり、人生への深い洞察を得ることだったり、新しい世界観に触れることだったり。そういう不定形の抽象的な概念そのものが目的地となり、コンテンツはその目的地に至るための道程のひとつとなる。
 文化=コンテキストを構成するのは、コンテンツだけではない。人間そのものも文化の構成要素であり、人と人の関係も構成要素であり、そこで人々が集まって語ったライブ的な場も構成要素である。さらには都市の建築物や風景、使われる機器、ガジェットといったものも構成要素である。それらの総体として、文化=コンテキストが成立するのだ。
  2007年ごろ、「ケータイ小説」がブームになったことがあった。
 フィーチャーフォンの掲示板で書き手と読者がコミュニケーションし、そこから徐々に編まれていくケータイ小説というコンテンツでは、読者の側は小説に「参加」している意識を持った。書き手の側も読者の参加が、小説執筆の大きなモチベーションとなった。
 この仕組みは、多くの若い女性たちの集合的無意識をすくい上げ、それを小説という表現メディアに文字として固定化させることだとわたしは考え、それを当時『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー21、2010年)という本で書いたことがある。

 本来、文学というのは、ひとりの孤高の作家がみずからの内面と向き合い、みずから作り上げた世界観と哲学を世間に問うという行為だった。だがケータイ小説は、書き手の側も、読み手の側も、自分たちがひとつの「空間」を共有していると信じ、その「空間」に寄り添うかたちで小説をコラボレーションによって完成させていく。文学が卓越した個人による営為であるのに対し、ケータイ小説は人々の集合知をメディア化したものだという論旨だ。
 このようにとらえれば、ケータイ小説の文体が陳腐で下手くそで、ステレオタイプ的だと当時から批判されていたことの背景にあるものが見えてくる。なぜなら陳腐でステレオタイプなものこそが、若い読者にとっては「リアル」であるからだ。
 援助交際や思わぬ妊娠は文学の世界では陳腐な舞台装置だが、ケータイ小説においてはこれらの言葉が、小説の空間とリアルの空間をつなぐブリッジのような役割を果たしていたのだ。もし作者がこのリアルな空間から外れ、自分固有の世界観に入り込んでいこうとすれば、読者の側は方向修正しようとする。ケータイ小説の優秀な書き手は読者のそうした感覚を敏感に受け入れ、みずから軌道修正を行っていく。
 つまりケータイ小説作家は文学を追い求める孤高の個人ではなく、実はソーシャルメディアに近いアーキテクチャー的な構造を持ったメディアだったといえる。
 これはまさしく、コンテンツの上位としての文化=コンテキストを示している。ケータイ小説というどちらかといえば陳腐な内容のコンテンツそのものに単体として意味があるのではなく、「地方の若い女性たち」という文化=コンテキストをつなぐためのツールとしてコンテンツが活用されているということなのだ。
 とすれば、この先は思考実験でしかないけれども、このような集合的な無意識がダイレクトに接続されれば、そこではコンテンツを介さない文化=コンテキストという概念も成立してくるかもしれない。実際、いまの情報通信テクノロジーはそういう方向を目指している。

 たとえばアップルのアイフォーンなどに搭載されているモバイルOS「iOS」は、2013年の「7」バージョンからアイコンのデザインを大きく変えて「フラットデザイン」と呼ばれる形式に変更された。
 以前のiOSのデザインは、スキューモーフィズムと呼ばれる、実際にあるものを模したものだった。たとえばカレンダーアプリであれば日めくりカレンダーを模し、ノートアプリなら紙のノートを模し、写真アプリならひまわりの写真。
 このスキューモーフィズムは、ドン・ノーマンという認知科学者が提唱したシグニファイアーという概念に近い考え方を持っている。シグニファイアーは、人間の直感にしたがって自然に操作できるようなデザインのことをいう。たとえばドアに取っ手をつけないことによって、「このドアは押して開けるしかないのだな」と直感的に理解できる。昔のトースターは、パンを入れる溝と焼き具合を決めるダイヤルしかなく、「ここにパンを入れてダイヤルを回して焼くのだな」と直感的に理解できる。最近のオーブンレンジは直感的にどう操作すればいいのかわかりにくく、パンを普通に焼く操作さえ難解で、シグニファイアーがうまく駆動していないというように言える。
 シグニファイアーは、人間の身体感覚が変化すれば、それに連動して同じように変化する。たとえば「電話をかける」アイコンはあいかわらず黒電話時代の受話器の形をしたスキューモーフィズムを採用していることが多い(これはなんとアップルのいまのiOSでもそうだ)。
 しかし黒電話をしらない、電話と言えばスマートフォンぐらいしか触ったことのないような若い世代には、この受話器のスキューモーフィズムは意味を持たない。だったらシグニファイアーとしては、もっと別の形をした抽象的なアイコンでも構わないということになる。
 そこでiOSは7から、写真やゲームセンターなどのアイコンにはまったく具体的なイメージのない図柄を採用するなど、全体に抽象度を上げている。いままでアップルの製品を使ったことのない人だと何を指したアイコンなのかわからない可能性はあるが、しかし一方でアップルの世界には熱烈なユーザーが多く、そうした人たちを取り込みながら完全に独立した「アップル圏」のようなものを形成しているという面もある。だとすればそのアップル圏の中だけで理解され、アップルのテクノロジーがユーザーの身体と合体し、生身の身体を抽象化するというひとつ上のシグニファイアーへと向かおうという方向性はあり得るだろう。そこでは現実を模したスキューモーフィズムは必要なくなり、シグニファイアーの意味あいが変化してくるということなのだ。

 このようにテクノロジーは身体と連携していくことによって、身体の受ける感覚も変質させていく。「リアルな身体感覚」とか「アナログな肌合い」みたいなことばを私たちはテクノロジーへの批判として使うが、しかしテクノロジーによって変質させられた身体感覚や肌合いは、もはやテクノロジーが乏しかった原始時代や古代の人類のものとは大きく異なってしまっているのだ。農業や印刷、内燃機関、電気、水道などさまざまなテクノロジーはこの数千年間のあいだに、人間の身体感覚を著しく変えた。そういう変化は、情報通信テクノロジーが急進的に進化している今も同じように続いている。
 人と人のコミュニケーションは、音声やテキストを介して行われてきた。しかしLINEのスタンプにも見られるように、コミュニケーションを媒介するメディアはテキストから非言語の世界へと移っていこうとしているように見える。グーグルグラスやアップルウォッチのような身体と連携するウェアラブル機器が普及していけば、その方向はさらに強まっていくだろう。
 旅行先の景色やレストランで出された料理、散歩中に見かけたものなどをスマートフォンで撮影し、フェイスブックに投稿するというような行為は、いまやだれもがやっている。これについて先述の尾原和啓氏は『ITビジネスの原理』でこう指摘している。

 ケータイやスマホで写真を撮るときには、どうしても「よいしょ」とカメラを構えることになります。30センチなり50センチの距離がそう感じさせるのです。そして、シャッターを押す瞬間も「はい、撮るよ、こっち向いて」でパチリですから、被写体の表情も不自然なものになってしまうんです。だけどGoogleグラスでは、被写体にも写真を撮られていることを意識させないで撮影することができる。そうすれば表情もすごく自然になるし、その写真を見る人にも自然なものが伝わるのです。これはコンテクストを伝えるときには、圧倒的に大事なことです。

 いまのフェイスブックの投稿は自分の生活を自慢するような「構えたところ」があるが、グーグルグラスのようなウェアラブルに撮影機器が変われば、そういう「構えたところ」は自然と消滅していくのだと尾原氏は説く。そうして彼はこう結論づけている。
 「ほんとうにナチュラルなものを自然に送るといったような、ハイコンテクストなコミュニケーションを加速するのが、ウェアラブルであり、ギガビット・インターネットなんです」
 ギガビット・インターネットというのは、超大容量の高速な通信のことだ。これが普及すれば、高精細な動画をいくらでも送受信できるようになる。
 このように人間の自然な感情や共鳴、そしてウェアラブルなどの機器を使って、人と人のあいだを自由に流れていく。そういう世界が、いまの情報通信ネットワークが目指しているものである。その最終的な世界では、文化=コンテキストでさえもコンテンツや機器、風景などを媒介せず、インターネットの回路を通じて人と人の間でダイレクトに共有されるような事態も起こりうるかもしれない。
 アマゾンで電子書籍リーダーのキンドルを開発したジェイソン・マーコスキーは、著書『本は死なない』(講談社、浅川佳秀訳、2014年)で「読書用フェイスブック」という概念を提示している。

 これは言うなれば、「究極的には、世界にはたった一冊の本しか存在しなくなる」という考え方だ。電子書籍も紙の本も、あらゆる本がリンクでつながり、世界中のすべての本が巨大な一冊を構成する一要素となる。ジャンルの区別もなく、複雑に絡み合うハイパーリンクですべての本がつながるのである。
 あらゆる本を包含する巨大な一冊の本。それが私の考える読書用フェイスブックだ。ある本を読みながら、リンクを辿ることで自然な流れで別の本に移ることができる。参考文献のリンクのほか、作者が影響を受けた本や、嗜好が似ているほかの読者がコメントを残している本へのリンクなどが考えられる。リンクを行きつ戻りつしながら読書を進めることができる。本をソーシャル・ネットワークでつなぐと言ってもいい。

 これはまさに、いまウェブのメディアの世界で進行している状況が、本の世界にも浸透し、本をウェブがすべて呑み込んでいくという未来である。そしてその時、この巨大なウェブは人々そのものをも呑み込み、世界を覆い尽くしていくだろう。その巨大なウェブのネットワークこそが文化=コンテキストであり、人間の知そのものでもある。そういう未来像を、情報通信テクノロジーは目指しているのだ。
 その先では、最終的に本という存在は解体され、文化=コンテキストや人間そのものと融合し、集合的無意識の一部として駆動するようになるのかもしれない。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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