[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2013.9.13

第6回「体系」の近代から「身体感覚」の未来へ

 書籍や音楽、映画、舞台などのコンテンツは、かつて大きな体系の中に位置づけられていた。だがインターネットはこの「体系」を剥ぎ取り、コンテンツをいったん丸裸にした。そしてネットは新たな属性をコンテンツに植え付けようとしている。その属性とは、「場」、身体感覚、そしてコンテキストだ。
 前回の最後で、ソーシャルメディアはわれわれの言葉を「自分の内面」の省察だけではなく、「人々の集合的無意識」へとつなぐ役割を果たそうとしていると書いた。コンテンツの発信者も受信者も、発せられる音や文字や映像の前に平等であり、全員がひとつの「場」の中に取り込まれていくのだ。そこで参加者を魅了するのは身体感覚であり、参加者をつなぎとめる軸となるのはコンテキストである。
 このことを音楽を題材にして考察してみよう。

 静まりかえった観客たちによっておごそかに聴かれるクラシックの演奏会。こういうスタイルが確立したのは実はそれほど早いことではなく、19世紀なかばになってからのことである。17世紀ごろまでは、音楽の演奏会はとてもうるさかったらしい。普通に酒が飲まれ、タバコが吸われ、中には音楽に飽きてカード遊びをはじめる人までいたらしい。
 音楽史研究で名高いウィリアム・ウェーバーは著書『音楽と中産階級──演奏会の社会史』(城戸朋子訳、法政大学出版局)の中で18世紀末の小説『エヴリーナ』のヒロインのこんな言葉を引いている。

 ほんとに私おどろきましたわ、どなたもだまったままほとんど音楽に耳を傾けていらっしゃらないのですもの。要するに、だれもが感心しているらしいのですけれど、ほとんどだれも聴いていらっしゃらないのよ。


 同書によると、そもそもこの時代の演奏会は演奏を聴くことが目的ではなく、社交(ソーシャル)が目的だった。宮廷、居酒屋、教会、家族、マーケットなどさまざまな社会的な場面とむすびついていて、これらの活動が主で音楽を聴くのは従だったのだ。
 演奏される音楽もごった煮のようで、交響曲から舞踊曲、オペラの抜粋、宗教的な合唱曲、さらには詩の朗読までが混じりあっていたという。
 こういう演奏会は居酒屋で下層階級を相手にひらかれることもあったが、18世紀ごろからは貴族階級や中産階級の上層の人たちが参加するものが中心になった。貴族は音楽家にお金を出してパトロンとなり、音楽家たちが自身で演奏会を企画するようになったからだ。
 渡辺裕の名著『聴衆の誕生──ポスト・モダン時代の音楽文化』(春秋社)はこう書いている。

 それ(社交としての音楽会=引用者注)は人々が互いに相互の関係を取り結び、また維持してゆくための社会的制度の一翼を担うものであった。だから、聴衆の大半はそういう社交的な関係を維持するために義理で切符を買った人々であり、皆が音楽を鑑賞することを唯一の目的として演奏会にやってくる、などということを期待できるはずもなかったのである。一七五五年のバーゼルからの報告にみられる「女は見られるために、そして男は彼女らを見るために演奏会にやってくる」という一文は、あながち誇張でもなかったようである。


 加えて、この時代の演奏会では、過去の作品は取り上げられなかった。過去の作曲家を取り上げるのは非常にまれで、多くの場合、音楽といえば同時代の、現代の音楽だったのだという。同書は「言ってみれば、過去の歌謡曲が通常のヒット・チャートには登場せず、『懐メロ』を集めた企画にしか出てこないようなものである」とわかりやすく説明している。
 だからバッハの音楽も彼が死ぬと忘れ去られ、いまのように「巨匠」として崇められるようなことはなかった。

 しかし19世紀に入ると、演奏会のあり方は大きく変わる。今のような静かな、演奏をじっくり聴くことを目的にした演奏会のスタイルが一気に普及してきたのだ。
 ウェーバーによると、ロンドンやパリで1826~27年と、45~46年をくらべると、演奏会の数は3~5倍も増えている。たいへんな急増ぶりである。
 彼はその原動力を、中産階級の勃興だと指摘している。19世紀はじめのナポレオン戦争が終わると、西ヨーロッパの経済は順調に成長するようになり、物価も安定した。これが市民革命の主体となって力を持ってきていたブルジョワジーの生活を安定させ、生活水準も上向くようになったのだ。
 こういうブルジョワの家庭では、まず最初に「自宅で音楽を楽しもう」と楽譜と楽器を購入し、家族で音楽を楽しむという気運になって表れた。おりからの産業革命で楽器も楽譜も大量生産できるようになったことも、追い風となった。
 そして少し遅れて、新しい演奏会スタイルが広がってくる。
 起爆剤になったのは「ヴィルトゥオーソ」と呼ばれる音楽家たちだったらしい。ヴィルトゥオーソは超人的な技と華麗な演奏で聴衆を魅了した一群の音楽家たちのことで、たとえばフランツ・リストなんかがそうだ。イケメンなうえに超絶技巧で知られたリストは、今で言うアイドルのような存在だった。女性ファンが失神したなんていう話も残っているほどだ。
 それまでの音楽家が貴族をパトロンにしないと食っていけなかったのに対して、マスを相手に勝負できたヴィルトゥオーソたちは出演料だけで生計を立て、有名どころともなれば大儲けできるようになった。
 そしてこのアイドル的ヴィルトゥオーソの出現が、音楽をハイカルチャー(高踏文化)とポピュラーカルチャー(通俗文化)に二分することになった。
 リストをアイドル視して失神するような一般のエンタメ目的の聴衆はヴィルトオーソに流れた。しかし一方でまじめに音楽を聴きたい、素人とは一緒にいたくないと思うようなマニアックで学識のある聴衆も増えて、そういうハイカルチャーの好きなマニアックな聴衆向けの演奏会も増え、商業ベースに乗るようになった。
 再び『聴衆の誕生』から引用する。

 もとより数の上では「真面目派」は「娯楽派」にかなわなかった。そこで彼らが前面におしたてたのが "sollen(当為)"の論理で固めた倫理的見地からの批判であった。つまり、音楽が商業主義に毒されてヴィルトゥオーソのような悪趣味なものに走るのはいかがなものであろうか、音楽というものは本来優れた古典的作品をじっくり聴くべきものなのではなかろうか、という批判である。


 19世紀なかばにはヴィルトゥオーソ熱が冷め、そのころからはハイカルチャー層が力を持つようになって、彼らの論調が音楽業界の中心をなすようになる。これによって、古い音楽家の楽曲が多く演奏されるようになった。ウェーバーによると、ウィーン楽友協会の演奏会で取り上げられた作品のうち、存命中の作曲家の「現代の作品」は1815年からの10シーズンでは77パーセントだったのが、1838年には53パーセント、そして1849年にはわずか18パーセントまでに急減してしまったという。

 このハイカルチャーの文脈の中で、三つのことが起きた。
 まず第一に、以前のような社交(ソーシャル)中心の演奏会も排除されるようになったこと。作品をじっくり楽しむことこそが演奏会の本質で、それ以外は余計なものだと考えられたのだ。つまりは他の観客の存在は抜きにして、観客ひとりひとりが演奏そのものと相対するようになったのである。
 第二に、もう亡くなった巨匠が偶像化されるようになったこと。『聴衆の誕生』で渡辺裕は、大衆化したアイドルだったヴィルトゥオーソの代わりに「巨匠」という音楽家が偶像化されたのではないかと推測している。この本で紹介されているベートーヴェンのさまざまな肖像画はたいへんおもしろい。「過酷な運命に立ち向かった意志の人」という偶像になったベートーヴェンは、ギリシャ神話の像のように彫刻されたり、キリストになぞらえた絵が描かれたりするようになったのだ。
 第三に、音楽を感性的な刺激として受容するのではなく、体系的な教養として受けとめることが求められるようになったこと。体系の誕生である。
 こういう体系的なコンテンツ消費というスタイルは、20世紀に入るとクラシック音楽のみならずポピュラー音楽の世界でも一般的になっていく。ヴィルトゥオーソ的なアイドルの音楽を熱狂的かつ身体的に消費する聴衆がいる一方で、少しマニアックな音楽ファンは多くの場合、ポップスやロック、ジャズであっても音楽を体系的に聴いていた。音楽を聴くというのは、音楽の歴史を学ぶ「お勉強」でもあったのだ。ロックやジャズをただ聴くのではなく、ロック史やモダンジャズ史に精通し、いま聴いている楽曲がその通史の中でどういう位置づけにあるのかを語れるような聴き方が「いけてる」と思われていたのだ。
 音楽の体系を知るためには、大量の楽曲を網羅的に聴いておかなければならない。しかしレコードやCDの時代にはパッケージされたアルバムは価格が高かった。今のように自由に好きな楽曲を選択的に聴けるYouTubeやSoundCloudのようなネットメディアももちろん存在しなかった。
 だからたとえばモダンジャズの世界では、「ブルーノートのアルバムをたくさん持っている」という所有そのものが希少価値になっていた。過去のアルバムをたくさん所有し、たくさん聴いたことがあるという履歴こそが、プロの音楽評論家の優位性のひとつにもなっていたのである。

 しかし2010年代の今となっては、そういう聴き方をする人はかなり少数派となった。
 1970年代からアンビエントミュージックを実践してきたミュージシャン、ブライアン・イーノは、ネットメディア『Time Out』シドニー版のインタビューでこう語っている(翻訳は同メディアの日本語版より引用)。
 「もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった」
 「私の娘たちはそれぞれ 50,000枚のアルバムを持っている。ドゥーワップから始まった全てのポップミュージック期のアルバムだ。それでも、彼女たちは何が現在のもので何が昔のものなのかよく知らないんだ。例えば、数日前の夜、彼女たちがプログレッシブ・ロックか何かを聞いていて、私が『おや、これが出たときは皆すごくつまらないといっていたことを思い出したよ』と言うと、彼女は『え?じゃあこれって古いの?』と言ったんだ(笑)。彼女やあの世代の多くの人にとっては、すべてが現在に属していて、"リバイバル"というのは同じ意味ではないんだ」
 プログレッシブ・ロックは60年代末から70年代に流行した、クラシックやジャズとロックを融合させる試みを行った音楽ジャンルである。ピンクフロイドやキングクリムゾン、イエスなどが代表格だ。今もその流れを汲む音楽は細々とあるが、かつてのような大衆的な人気はない。とはいえ全盛期の「プログレ」はいま聞き直しても刺激的な演奏が多く、それがイーノの娘たちの耳に訴えたのだろう。そして歴史が消滅し、体系的な音楽聴取が行われなくなった現代のリスナーである彼女たちには、古臭いプログレも面白い音楽として耳に入ってきたのだった。
 いまや楽曲は所有さえされない。レコードやCDなどのパッケージからインターネットのデジタル配信に移り、それでもiTunes時代にはまだ所有の概念があった。しかしインターネットの音楽は所有から、聴き放題のラジオモデルへと徐々に移行しようとしている。スウェーデン発のSpotifyや、ラジオを再発明してビッグデータのテクノロジによるレコメンド(お勧め)を強力に推進しているPandoraなどの定額配信音楽サービスが、iTunesのような所有型のサービスを脅かしてきているのだ。

 私は2010年に上梓した『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァー21)という本で、「音楽はアンビエント化していく」と書いた。
 アンビエントは奇しくも、先のインタビューのブライアン・イーノが提示した概念でもある。彼の考えたのは、空港や映画館などのさまざまな場所のコンテキストに沿って、そのコンテキスト(リスナーの置かれている状況)と一体になって機能する音楽だ。
 イーノの考えたアンビエントミュージックは、航空会社のさまざまな場内放送でときおり中断されることを前提に、飛行機のエンジン音やラウンジに集まった人々のざわめき、カートを引く金属音などと共存し、それらの音と一体となった音楽の空間を作り出すことを狙った。
 このイーノのコンセプトと同じように、いま進んでいるのは楽曲を歴史的な体系の中に位置づけて聴くのではなく、いま現在のコンテキストと融合して楽曲が聴かれるというスタイルである。
 歴史の中の位置づけから、いままさにある現在の中の位置づけへ。
 体系から、コンテキストへ。
 という二つの変化が重なって進んでいるところに、いまの音楽の状況がある。
 かつての音楽が、歴史と体系につねに紐付けられていたように、いまの音楽はいままさにある現在のコンテキストからは切り離されない。現在のコンテキストという場に呑み込まれ、その場の持つメディア空間と一体化しようとしているのである。
 こういう流れは、すでに20世紀に始まっていた。先の『聴衆の誕生』で、不世出のピアニスト、グレン・グールドが1966年にすでに体系の崩壊を予言していたと指摘している。

 聴き手が自分の思うままにテンポやピッチを調整しながら、たとえばワルターの演奏した呈示部とクレンペラーの演奏した展開部とを接合してベートーヴェンの《第五》を鑑賞することのできる時代、そんな時代が近いうちやってくるだろうと彼(=グールド)は言うのである。そしてそのあかつきには演奏会というシステムはもはや存在しないであろう、と。


 体系的な真面目な聴き方をしなくなると、それまではあまり注目されていなかった演奏家のちょっとした表情や音の響き方といった副次的な部分が聴く側の意識に入ってくるようになる。つまり音楽のさまざまな要素の中で、歴史=体系に位置づけられる要素ではなく、現在=コンテキストに位置づけられる要素が浮上してくるということなのだ。
 これはニコニコ動画を考えればわかりやすい。動画を作る側は、15分の動画であればその15分全体を通して視聴してもらい、その全体の体系の中で感動してもらうことを狙う。しかしニコニコ動画では、たとえば感動的な動画の中にちょっとした面白い要素が偶然含まれていたりすると(シーンの中に余計なものが映っていたり、単なる偶然映った通行人がヘンな人物だったり)、そこに注目が集まり、画面を流れるコメントもそのことへの言及ばかりになる。体系的な面白さではなく、いままさに現在のコンテキストに沿った瞬間の面白さに注目が集まってしまうのだ。
 付随的な要素というのは、その場だけで消費される刹那的な面白さだけとはかぎらない。読者と書き手の共感だったり、その楽曲にからむ何かのキャラクターであったり、あるいはその場でアドホックに生み出される何かの盛り上がりであったり、さまざまなコンテキストによって生み出されていく。

 体系=歴史の枠組みの中で、ひとつの作品を楽しむという聴取体験は消滅していく。そうではなく、局所的ないままさに現在の中に位置づけられる体験の集積によって、音楽は成立していくのだ。そういう未来がいま拓かれつつある。
 このようなリアルタイム性というのは、ある種の宗教体験に似ているかもしれない。
 社会学者の濱野智史が昨年上梓した『前田敦子はキリストを超えた──〈宗教〉としてのAKB48』(ちくま新書)という本がある。タイトルがキリスト教を冒涜しているとか大げさすぎるなどと、かなり非難された書籍だが、内容はきわめて興味深い。アイドルグループのAKB48には、宗教的なコミュニケーションシステムがあると濱野は指摘しているのだ。
 同書によると、AKB48とファンの関係には「近接性」と「偶然性」という二つの特徴があるという。
 近接性というのは、握手会に代表されるように「会いに行けるアイドル」をコンセプトとしているということだ。現代社会では人は他者とのつながりを外され、貨幣の交換という関係だけにおとしめられて疎外されている。しかしAKB48は、そこに消費されるアイドルとしての単なる貨幣交換だけでなく、持続的な信頼関係が起きているという。

 それは見ようによっては、本当の人間と人間の関係性(たとえば「本当の恋愛」)からの「疎外」にしか見えないだろう。つまり、恋愛なら恋愛で、AKBのようなものにハマらず普通の恋愛をすればいいのに、AKBなどというものに「騙された」結果としてわざわざお金を払って関係性をつくっている。それは貧しい。AKBを知らぬ者であれば、誰もがそう思うだろう。

 しかしそれは違うのだ。AKBでなければ生まれない、つながりが、絆が、関係性が、あるのだ。劇場や握手会や総選挙といった場で、日々、AKBのメンバーとファンの間では、無数の小さな関係性が生み出され続けている。たとえば数秒から数時間にすぎない関係性だとしても、それでも、顔と顔の向き合った、顔の見える、ある程度持続的な信頼関係がそこでは生まれている。


 いままさに現在というリアルタイムの時間における、身体的接触。これはたしかに宗教体験の原始の姿である「天啓」に近いものであるとはいえるかもしれない。
 中間共同体が喪失されていく日本社会において、「非モテ」といった言葉に象徴されるようにいまや恋愛でさえもが機能不全に陥っている。そういう状況の中で、かつてのアイドルのような手の届かない偶像としてではなく、接近しうる「関係性」そのものを商品とするアイドルとして、AKB48が出現してきた。貨幣の交換によって商品が売買される資本主義と、本来は無償の交換であるはずの恋愛的な関係性が、ここでは不思議なかたちで混合されている。
 同書はAKB48とファンの関係の二つ目の特徴として、「偶然性」を挙げている。AKB48のどのメンバーを応援するのかということについては、偶然性がいたずらをするという。つまり劇場で偶然、目線があってしまったメンバーにはまってしまうということがあるようなのだ。

 (AKBは)リスクに晒された時代をどう生きるべきかについての示唆は与えてくれる。むき出しの「偶然性」に身を晒すとはどういうことか。それは劇場におけるBINGOのような偶然性に身をゆだねて、推しメンに導かれて、「誰かのために」生きることだ。それは未来を予測したり、過去を振り返るといった、普通の人間であれば当たり前にもっている「時間」の感覚を無化することである。ただ目の前にある「いま・ここ」を全力で生きるということ。これである。


 そしてこの「近接性」と「偶然性」を入り口にして、ただひとりの少女を無償で「推す」という行為こそが、宗教的であるのだと濱野は説いている。「神が失われたこの社会において、端的に生きる意味を『近接性』と『偶然性』のもとで与えてくれるのだ」
 原始宗教における神との出会いは、本来は合理的ではない。つねに非合理であり、偶然だ。だからこそ歴史=体系の視点からではなく、いままさに現在=コンテキストという枠組みの中に位置づけることの方が容易であるといえる。
 つまりは「いま神とつながっているのだ」という直感的な身体感覚があるからこそ、神を信じるようになるということだ。この「その場」というコンテキストの持つ、偶然性と必然性。それは宗教的な空間の生成であるのにもかかわらず、それをAKB48が資本主義と混合させているのはたいへん興味深い。
 この偶然性と必然性は、神の意志として規範的に実現しているのではなく、総選挙や握手会、握手券つきCDなどによって巧妙に設計された環境管理型のアーキテクチャとして機能している。つまりこれはプラットフォームということなのだ。
 このようにAKB48的なものは、テクノロジのプラットフォームの上で、リアルタイムのコンテキストによって、身体感覚的に相互接続されるという特徴を持っている。
 これは伝統宗教的というよりは、どちらかというと原始宗教的であり、カルト宗教的である。

 オウム真理教がテロ事件を引き起こして社会を震撼させたのは、1990年代だった。当時オウム教団は、その教義のチープさが指摘された。仏教をベースにしているが、インドのヨガやキリスト教の終末論、ゾロアスター教などさまざまな宗教の要素をごった煮のようにぶち込み、そこにロボットアニメなどのイメージを振りかけた荒唐無稽なものだ。
 実のところオウムの修業では、教義より徹底的な身体感覚の方が重んじられた。修業して超能力者になれば、だれもが空中浮遊が可能で、それによって解脱できると説いたのである。
 「『だれでも修行すれば超能力者になれ、生の濃密なリアリティを体験できる!』。こうした主張を何のてらいもなく堂々と主張できる既成教団はけだし稀有ではないでしょうか。神秘主義と体験主義の強調と若者の積極的参与。これが可能になったのは、オウム真理教の特質が現代の"若者たちの宗教"であること、そして他面それ以外のものではないことを物語っているとも言えましょう。ある大学院生は、蓮華座を組んで呼吸法を実践したら、とたんに身体が飛ぶのを感覚し、オウムの技法の力に驚いたと告白しています」(「Q&Aオウム真理教~曹洞宗の立場から」、曹洞宗現代教学研究センター編)
 しかしこうした身体感覚偏重は、容易にオカルトになる。バブルの夢をまだ引きずっていた1990年代に、安定していたけれど将来の不透明な生活の中で空虚感を覚えていた若者たちは「超人願望」的な幻想を求めて超現実的なオカルトにはまった。オウム真理教が急成長したのにはそういう背景があった。
 作家高村薫に『太陽を曳く馬』という長編小説がある。体系を学び、その上で座禅を組んできた正統的な禅僧たちの前に、元オウム真理教信者だった末永という若者が現れ、その座禅のみごとさで禅僧たちを圧倒してしまう。僧のひとりが語る。

 それはもう岩のような、壁のような、兀々(ごつごつ)たる坐禅でした。かつては上体が揺れたり、頭が振り子のようになることも多かった末永君の坐禅ですが、三月ごろから、両手の印契の組み方を除けば、私たちもできないような仏坐になっていたのです。これは、いま初めてお話しすることですけれども。それこそ岡崎がわざわざ私に見てみろと告げてゆき、ほかの雲水たちも思わず覗かずにはいられなかった、そんな見事な坐相を、あの日末永君はつくっていたのです。


 体系か、身体感覚か。後者は、結果的にオウム真理教のような破壊的カルト宗教を生み出してしまった。だからこの議論はいまの日本社会では棚上げになり、封印されてしまっている。身体感覚とカルトを切り離す抜本的な手段が見つかっていないからだ。
 しかし現代思想的な文脈に沿っていえば、規範としての体系から社会は離脱しつつあり、テクノロジーを活用したグローバルプラットフォームが生み出す場の中で、身体感覚によって「近接性」や「偶然性」を経由し、社会と接続するというような構図がコンテンツの世界では生まれつつある。これは身体感覚と直結するものでありながら、同時に環境管理的でもある。そしてその接触は、つねに刹那的でもある。
 体系は、規範型である。そして身体感覚はつねに体系から逸脱していく。音楽の世界では、体系から自由になることで、従来の音楽鑑賞の枠組みから逸脱していく可能性を生み出したのだ。このリアルタイム性と逸脱が今後、書籍や動画、舞台などの他のコンテンツ分野にも波及していくのかどうか。それがメディアの未来を考える上での重要なテーマとなってきている。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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