[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2013.11.15

第7回永続化する瞬間

 20代のころ、岩壁登攀(ロッククライミング)に熱中していた時期があった。
 今流行っている人工のウォールでのフリークライミングではなく、日本アルプスや谷川岳といった「本番」の岩壁でのアルパインクライミングだ。1980年代初頭、フリークライミングは日本ではまだ黎明期だった。軽く岩肌にぴたりと吸い付く専用シューズと滑り止めのチョーク粉を使い、短パンとTシャツで岩にとりかかる新しいクライミングがようやくアメリカから流入してきていた。それまで人工的な器具を大量に使って登られていたオーバーハングだらけの谷川岳衝立岩正面壁が、池田功という神話的なクライマーによって手足だけでフリークライムされた衝撃は、未熟なクライマーだった私も鮮明に覚えている。専門誌『岩と雪』に掲載された、池田氏が軽装で衝立岩に取りついている写真の鮮烈な印象は、「グリズリー」という恐ろしい新ルート名とともに今も忘れない。
 主流がアルパインからフリーに移行していったこの時期、私は体操選手的な技能を求められるフリークライムは苦手で、どちらかといえばアルパインに傾斜していた。そうして夏も冬も、何度となく谷川岳や北アルプス、南アルプスといった山域に出かけてはクライミングをくり返していた。
 夏の登攀は気持ちいい。
 特に最高なのは、北アルプスの剱岳だ。連峰の北部に位置し、冬には大量の雪が降り積もる剱岳は、夏も巨大な雪渓が沢筋ごとに残り、黒い岩壁と真っ青な空とのあいだにきれいなコントラストを描いている。よく晴れた夏の日、涼しい風が吹き下ろしてくる雪渓を上りつめ、八ツ峰の岩壁に取りつく。それぞれの峰はギザギザと黒い鋭角を描いている。きれいに乾いてフリクション(摩擦)の利く岩肌をぐいぐい登っていると、このまま天上にまで到達できそうな気分になってくるのだ。
 しかし同じ高山の岩壁が、冬になると猛烈に厳しい条件へと変わる。特に天候が悪い時の冬季登攀は過酷だ。
 冬山用の頑丈な登山靴に装着した12本爪のアイゼンは、ギシギシと嫌な音を立てて岩をひっかくだけで、いっこうに安定しない。手がかりとなるホールドには雪が固くこびりつき、手で掘り出してつかんでいると強烈な冷たさにてのひらが強張る。分厚いミトンではどうしても微妙な難所を越えられず、思わずミトンを脱いで薄い手袋で小さな手がかりに身を預けると、手の感覚は薄れ、てのひらを流れる血液が音を立てて凍っていくように感じる。
 そのまま放っておくと凍傷になり、指は白く変色し、やがて青黒くなり壊疽を起こし、最終的には切除しなければならなくなる。だから凍傷にかかる前に、血行を取り戻さないといけない。そのために先輩から教えられた方法は、凍りかけたてのひらを何度も岩肌にぶつけるという荒療治なやりかただった。手で岩を思いきり叩いていると、少しずつ感覚が戻ってくる。そして同時に、足が痺れたときの数倍ぐらいのジーンという痛みが襲ってくる。これは本当につらかった。
 登攀に難渋し、夏なら数時間でクリアできる岩壁も、1日で完登できない。岩壁の途中のテラスに腰をかけたまま一晩を過ごすようなビバークもごく普通だ。私の登攀技術が未熟だったこともあり、難所をどうしても越えられず、涙が出そうになったことも何度となくあった。
 私は当時、「これは過程快感と達成快感の違いということなのだ」と独自の言い回しをつかって考えていた。夏の登攀は過程そのものが楽しめる快感だけれども、冬季登攀は過程はつらい。でも登攀完了したときの達成感はすばらしく、その喜びは達成快感であるという意味だ。

 過程はつらいが、最終的な達成が喜びとなるというのは伝統的な競技スポーツでは一般的な考え方である。典型は、たとえば高校野球だ。野球少年たちは甲子園を目指し、厳しい練習を日夜続け、しょっちゅう監督に怒鳴られ、それでもいつか野望を達成できる日のために汗を流し涙をぬぐう。県大会で優勝し、甲子園の土を踏んだとき、過去のつらさはすべて喜びへと変わる。
 野球やサッカーなどの球技はほとんどが「勝者を目指す」ものであり、チームへの忠誠心によって勝利を得ることを目指している。
 それに対してランニングや登山、自転車などのスポーツはどちらかといえば「持続的」だ。もちろんマラソン大会や自転車競技はあるが、こうしたスポーツを愛好する人の感覚は、そうした大会で他者に勝利することよりも、「いまこの状態を維持し続けること」に重きを置いている。「勝負を賭けて勝利を得て達成感覚を喜び合いたい」というよりは、「いまここにある過程そのものをいつまでも楽しみ続けたい」という過程の快感を永遠に得続けることを求めている。
 最近、こうしたスタイルのスポーツ愛好者が増えているように思える。これは実証的な数字はないためあくまでも私の感覚でしかないが、たとえば登山であればピークハンティングではなく、ロングトレイルというスタイルの台頭がそれを如実に示しているように思う。
 日本で登山という遊びが普及してからこれまで、主流はずっと山頂に到達し、たくさんの山に登ることを目指すピークハンティングだった。多くのシニア登山者が好む「百名山」はその典型だ。作家深田久弥が1964年に刊行した山岳随筆の名著『日本百名山』をフォローし、同書に挙げられている名山を次々と登っていき、全峰踏破を目指す。あまりにもブームになっているため、百名山ばかりが混雑し、山小屋が満員になり、登山道が荒れるといった副作用まで起きている。山歩きは途中の過程が楽しいが、その過程よりも自分がいかにたくさんのピークを踏んだのかを競い合う「百名山」登山は、過程快感よりも達成快感を登山に求めた行為といえるだろう。
 しかし最近、登山スタイルに新しい潮流が現れている。それがロングトレイルだ。
 今年春に急逝したバックパッカー加藤則芳氏が日本に持ち込んだロングトレイルは、もともとはアメリカで定着していたアウトドアのスタイルだ。
 アメリカには全長3500キロにもなるアパラチアントレイルなどたくさんのロングトレイルがある。山頂を目指すのではなく、ただひたすら長く歩き続けるためのトレイル(道)だ。登山道を歩くこともあれば、未舗装の林道もあり、田んぼのあぜ道もある。舗装された国道を歩くこともある。そうしたルートをつなぎ合わせて、長大なトレイルを構想していく。だから日本の四国八十八箇所を歩くお遍路道やスペインのサンティアゴ巡礼の道も、ロングトレイルである。

 加藤氏らの尽力で、ここ数年日本にも信越トレイルや八ヶ岳山麓スーパートレイルなど、本格的なロングトレイルが開かれるようになった。たとえば八ヶ岳トレイルは広大な八ヶ岳の山麓をぐるりと1周する約200キロもの長い道で、いっさい八ヶ岳の山頂は通過しない。山麓の林道や山道、舗装道などを伝いながら、横へ横へと移動していくだけなのだ。山頂を目指すのではなく、ただ歩いて行くことだけを楽しむというのがトレイルの醍醐味なのだ。
 ロングトレイルを歩いていると、不思議な感覚に陥る。山頂を目指す普通の登山であれば、自分の目標は明確だ。「山頂まであと3時間か」「あの急登をこえれば稜線にちがいない。あと少しがんばれろう「目の前に見えるピークは偽ピークか山頂か。山頂ならいいのに」。つねに山頂に到達することを考えてしまう。
 しかしロングトレイルには、目標がない。「今日はこのぐらい歩けるかな」というゴールをとりあえず想定はするが、そのゴールは決して明確な目標ではなく、単なる目安にすぎない。歩いていると意識は「自分は永遠にこの道をたどっていく」という漠然とした意識状態へと沈んでいく。どこまでもどこまでも、ただ道が前にあって旅が続いていくのだという感覚。いま歩いているという現状追認だけが意識の上に現れてくるような感覚。
 つまり、「自分がいまある状態を永遠に楽しむ」という感覚。
 これはランニングや自転車などの持続的なスポーツも同様だ。ランニングには「ランナーズハイ」という有名なことばがあり、長く走っているうちにだんだんと気分が高揚し、どこまでも走り続けられるような気持ちになっていく。脳内麻薬と呼ばれる神経伝達物質のエンドルフィンが分泌されるためだという説があるが、まさに麻薬と同じように「いまここにあることの快楽」だけが身体から浮上してくるのだ。
 登攀の世界でアルパインクライミングが退潮し、フリークライミングがブームになったのも、この一瞬の身体動作を楽しみ、リアルタイムの刺激とスリルを受容するというクライマーズハイ的な感覚が広く受け入れられるようになったからだ。スポーツのさまざまな分野で、こうした「いまこの瞬間の喜び」を求める動きが広がっている。
 アメリカのテクノロジー系ジャーナリスト、ダグラス・ラシュコフは今年刊行した『現在の衝撃』(原題『Present Shock』邦訳は未刊行)という本の中でこういうことを書いている。
「スケートボードやスノーボード、ロッククライミング、マウンテンバイクなどのフリースタイルスポーツの流行は、チームの忠誠心と軍隊的な勝利が、自己表現と瞬間のスリルに座を明け渡そうとしていることを象徴している」
 ラシュコフの本のタイトルは、アルビン・トフラーの1970年の名著『未来の衝撃』を本歌取りしている。トフラーの本はもはや日本では絶版になってしまって手に入れにくくなっているが、四十数年後のいま現在をかなり的確に予測していてたいへんに恐ろしい書籍だ。ここで同書の論評を行うのは控えるが、たとえば次の文章を抜き出すだけでも、その先見性がわかる。

 変化が加速化し、その影響が、社会のすみずみにまでゆきわたるにつれて、これから先どのような必要が起こってくるかますますわからなくなる。変化が避けられないことはよくわかるが、これから先どのような需要が出てくるかよくわからないので、われわれは、変化を想定せず、しっかりと固定的に作られた物に多額の金をつぎこむことにちゅうちょするのだ。固定された形式や機能にしばりつけられることを避け、短期の目的のためのものをつくるか、逆にその製品そのものをいろいろな目的に使用できるようにつくることになる。われわれは、技術を利用して“スマートにたちまわって”いるのだ。 (『未来の衝撃』徳山二郎訳、中公文庫、1982年)


 これは社会が流動化し、流動性だけが唯一の真実であるような2010年代の現実と、それによって製品がスマート化・サービス化していっている状況をかなり見事に予測しているように思える。同書が書かれたのは、まだ「スマートな」製品など影も形もなかった1960年代末だったことを思えば、驚異的だ。
 ただ『未来の衝撃』が描いているのは、単なる未来予測ではない。そのような未来がやってくるときに、われわれ人間が「早くやってきすぎている未来社会」に適合できていないのではないかというそのインパクトを描くことが目的の本なのだ。本書が書かれた60年代末でさえ、すでに世界の速度は異様に速かった。このため社会のシステムはいたるところで機能障害をおこし、適応のための淘汰が起きてしまっている。このような適応不良の原因は、未来が早く来すぎてしまっている衝撃によるものだというのが本旨なのである。

 そしてこの本をフォローするラシュコフの『現在の衝撃』は、60年代末にトフラーが書いた「未来」が、2010年代のいますでに来てしまっているのだということを指摘している。この社会では、起承転結や、みなで団結して勝利を目指すという右肩上がり的な物語が衰退し、「今」というこの瞬間の永続性だけを求める物語が台頭してきているということを、先に挙げたようなスポーツの変遷やテレビドラマ、ビデオゲーム、文学などを題材にして説明している。
 たとえば日本でも人気を博したハリウッド製作の人気ドラマ『LOST』について、ラシュコフは「このドラマシリーズは物語を描くことよりも、登場人物たちの存在する世界の全体像、その構造を描くことに力が注がれている」と指摘している。
 『LOST』は2004年から米国で放送されたドラマで、飛行機事故で南の島に不時着した乗客たちの群像劇だ。救助隊はやってこず、そのかわりに島では怪奇現象のようなことが次々と起こる。この島は特別な力を持った場所で、島の周囲には時間の壁のようなものがあり、時空間を移動できるということがわかってくる。謎は謎を呼び、時には解明され、時にはさらに謎がふくれ上がる。途中から時間は分岐し、島に残る登場人物たちとは別に、救助され故郷で英雄となった登場人物たちの物語が語られるようになる。
 やがて登場人物たちは、直線的な時間が存在しない島に自分たちがいることに気づかされる。シーズンが進むにしたがって、時間と運命が複雑な順列になっていく。
 ドラマの放送は延々7年間にもわたり、シーズン6まで製作された。しかし敷かれていった膨大な数の伏線は、すべてが明快に解明されたわけではない。「島はなんのために存在するのか」という根本的な謎は、結局最後まで語られない。
 謎を謎のまま放置し、解明を視聴者に求めるあり方は、日本で1990年代に一大ブームとなったアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』や村上春樹文学とも共通しているように見える。
 こうした作品に共通するのは、「あれが起きたから、この結果になった」というような時系列に沿った因果関係で描かれていないように思えることだ。これをラシュコフは因果関係とは異なる、「世界につじつまがある、道理にかなっているという『瞬間』によってその答はもたらされている」と説明している。つまり時系列の物語ではなく、今というこの一瞬の持続性と、その一瞬のあいだに見えている世界の意味の解明ということに重きを置いているということだ。
 『現在の衝撃』には、小説『ホワイト・ティース』を書いた1975年生まれの女性作家、ゼイディー・スミスのこんなことばが紹介されている。
 「誰かがなにかについてどう感じたのかというようなことを伝えるのは、もはや書き手の仕事ではなくなった。いまの書き手の仕事は、世界がどう動いているのかを伝えることだ」
 そしてラシュコフは、こうした傾向はドン・デリーロやジョナサン・レザム、デヴィッド・フォスター・ウォレスといったポストモダン文学の作家たちに共通したものだと指摘する。登場人物の物語ではなく、世界の意味を解き明かすというような問題解決こそが主題なのだ。
 『LOST』やドン・デリーロの『ホワイトノイズ』、レザムの『クロニックシティ』、そして村上春樹文学や『エヴァンゲリオン』などの作品群は、いずれも世界のシステムを描いている。ある種のコンピュータのOSのようなものだ。OSの上で動くアプリがつくる起承転結の物語を描くのではなく、OSそのものを描く。OSの上で踊っている人たちは、自分たちが環境管理的に支配されているがゆえに、自分たちの基盤であるOSがどのようなルールで運用され、どのような意志を持っているのかがまったくわからない。そこで彼らは世界の奥底へと降りていき、世界がどう作動しているのかという原理を探求し、学ばねばならない。
 やがて従来型の起承転結の物語は各方面で衰退していき、『LOST』のように世界解明のパズルをかき集める物語に代替されていくのかもしれない。人はもはや直線的で内骨格的な物語を信じることはできず、そのかわりにこの混乱し、同時並行的な世界を説明してくれる「外骨格」のようなものを求めているのかもしれない。

 スポーツの話に戻せば、野球や冬山登攀のような達成感覚的なスポーツは「このつらい現在を乗りきれば、いつかは楽しい楽園がやってくる」という希望に拠っていた。言ってみれば、今日よりも明日がよくなるだろうという期待に基づいた考え方だったといえる。しかし私が今年上梓した『レイヤー化する世界』で書いたように、そうした産業革命以降の期待は21世紀に入って終焉を迎えつつあり、もはやすべてがフラット化し、明日を信じないという時間感覚の世界へと社会は突入していこうとしている。
 そういう世界で生きていくため、明日を信じるのではなく、「今」の意味を解明し、「今」の意味を問い、その上で「今」を楽しみたいという方向へとわれわれの無意識は舵を切ろうとしているのかもしれない。いまこの瞬間の世界が、X軸とY軸で形成され、そこに時間がZ軸として加わっていると仮定すれば、これまでの物語はZ軸によって語られてきた。しかし今や物語は、X軸とY軸の中で語られようとしている。
 先行きの見えない社会の中で、将来を考えるとつらく厳しい気持ちに立たされる。しかしそこで不安を抱いて考え込んでいても仕方ない。とりあえず今を楽しみ、その中でひょっとしたら自分が今ここにいることの意味が見えてくるかもしれない。そういう心持ちが人々の中に芽生えてきているのだ。
 アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスに、『八岐の園』という小説がある。イギリス国内を逃走するドイツの中国人スパイ愈存は、アッシュグローブの街の近くにあるスティーヴン・アルバート博士の家にたどり着く。愈存の先祖だった雲南省の知事崔奔は、『紅楼夢』よりも登場人物の多い小説を書き、しかしその小説は意味がよく通じず、誰が読んでも迷路の正しい道筋を見いだすことができなかった。アルバート博士は、謎めいた崔奔の作品の研究者だったのだ。
 崔奔は厳密な意味での無限の迷路をつくろうとしていた。そしてこう書かれた手紙を遺していた。「余はさまざまな未来――すべての未来にあらず――に対し、余の八岐の園をゆだねる」(『伝奇集』鼓直訳、岩波文庫、1993年。以下同じ)
 この手紙の断片を見せて、アルバート博士はスパイに言う。「この手紙を発見する前は、一冊の本がどうして無限であり得るのか、疑問に思っていました。循環する、円環的な本いがいのあり方を思いつかなかったのです。最後のページが最初のページと同一で、限りなく継続する可能性を持った本です。わたしはまた、『千夜一夜物語』のちょうど真ん中にある、あの夜のことを思いだしました。シェヘラザード姫は『千夜一夜物語』の話を文字通りくり返し、その話をした夜にふたたび戻るという、そしてこれが無限に続くという危険なはめに落ちいったのです」

 ニュートンやショーペンハウアーとことなり、あなたのご先祖は均一で絶対的な時間というものを信じていなかった。時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する編目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、交錯する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。われわれはその大部分に存在することがない。ある時間にあなたは存在し、わたしは存在しない。べつの時間ではわたしが存在し、あなたは存在しない。また、べつの時間には二人ともに存在する。好意的な偶然が与えてくれたこの時間に、あなたはわが家を尋ねてこられた。べつの時間では、あなたは庭園を横切ろうとして、わたしの死体を見つけられた。さらにべつの時間では、こんなことをしゃべっているわたしは、ひとつの誤謬であり、一個の幻なのです。


 この宇宙は単一の宇宙(ユニバース)ではなく、無限の選択肢が常にある無数の多宇宙(マルチバース)であるというのは、現代物理学でも検討されている理論だ。アメリカの物理学者ミチオ・カクの著書『パラレルワールド――11次元の宇宙から超空間へ』(斉藤隆央訳、NHK出版、2006年)には、物理学者の間で語られているというこんな小咄が紹介されている。あるロシアの物理学者がラスヴェガスに連れてこられ、賭博のテーブルに向かうと持ち金を一気に全部賭けてしまう。「そんなギャンブルのやり方は数学と確率の法則に反してる」と言われて、彼はこう答える。「もちろんそうだけど、量子論的な宇宙のひとつじゃ大金持ちになるんだよ!」
 たしかに無数に枝分かれしていくマルチバースでは、どこかの並行世界では巨万の富を手に入れているかもしれない。現代物理学の観点からは、時間とはそもそも一本の線ではなく、ボルヘスの小説で描かれるような無限に選択されていく可能性のひとつにすぎないということだ。マルチバース理論が広く社会に受け入れられるような時代が遠い将来にやってくれば、その時に人々の時間意識は大きく変わり、「いまこの瞬間」の意味がさらに強く求められるようになるかもしれない。

 社会学者見田宗介が真木悠介名義で発表した『時間の比較社会学』(岩波書店同時代ライブラリー、1997年)では、近代社会が時間を無限の直線として考えているのに対し、原始社会では時間は生と死、夜と昼といった二つのあいだを反復するだけの時間だったと説明している。そして古代ギリシャでは時間は反復ではなく円環に閉じていると捉えられるようになり、一方ユダヤ社会では、一神教の神が創造し、いずれ終末を迎えるという区分された直線として見られるようになった。ヨーロッパ近代社会はこのユダヤの時間感覚から神による創造と終末という概念を取り除き、時間を無限の直線として認識するようになったということだ。
 起承転結の物語が衰え、「いまこの瞬間」の永続性と構造の解明に物語が向かっているとすれば、われわれの時間感覚は反復や円環の古い世界へと回帰しようとしているのかもしれない。
 そして、その時間感覚をテクノロジーが支えていく。
 ビッグデータ研究の世界的権威とされるビクター・マイヤー=ショーンベルガーが著した『ビッグデータの正体――情報の産業革命が世界のすべてを変える』(斎藤栄一郎訳、講談社、2013年)は、ビッグデータ技術が引き起こす三つの大変化のひとつとして、「因果関係から相関関係へ」というパラダイムシフトを挙げている。
 われわれは因果関係の中で生きている。「これが起きたのは、このような理由があったからだ」という時系列に沿った関係性が世界の構造だと考えている。
 しかしマイヤー=ショーンベルガーは書く。「重要なのは『理由』ではなく『結論』である。データ同士の間に何らかの相関関係が見つかれば新たなひらめきが生まれるのだ。相関関係は、正確な『理由』を教えてくれないが、ある現象が見られるという『事実』に気付かせてくれる。基本的にはそれで十分なのだ」
 たとえば膨大な電子カルテのビッグデータから「オレンジジュースとアスピリンの組み合わせでガンが治る」ということが言えるのであれば、その理由が医学的にはまったく説明できなくても、それで十分だということになる。因果関係が証明されなくても、相関関係がちゃんとわかっていればそれ以上は必要ないということなのだ。
 因果関係という時系列のZ軸によって世界を説明するのではなく、相関関係という「いまこの瞬間」のX軸Y軸の関係性のなかでのみ、世界は説明されてしまうということだ。
 近代科学からジャーナリズムにいたるまで、これまでの人間社会はすべて因果関係によって形成されてきた。それが否定されるということは、従来の世界観の全否定に等しい激震となりうる。しかしわれわれはそういうテクノロジー社会に今や生きているということなのだ。
 だから次のパラダイムが支配する世界で、物語はさらに大きく変容していくことになるだろう。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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