[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2014.1.24

第8回変貌する情報流通

 50歳代になってから随筆家として知られるようになった須賀敦子は、1950年代なかばにイタリアにわたり、イタリア人男性と結婚し、60年代をミラノで暮らした。心に沁みるような彼女の連作随筆集に『コルシア書店の仲間たち』がある。カトリック左派の文化サロンだったコルシア・デイ・セルヴィ書店にかかわった人たちを描いた作品だ。
 イタリアでは第二次世界大戦に敗戦した後、日本でもそうであったように共産主義の運動が勃興した。カトリック教会の中でも、左派思想とキリスト教を融合させ、貧しい人々との連帯や支援をうったえる司祭、神学生たちが現れた。その中心人物の一角であり、戦中にファシズム抵抗運動の同志だったダヴィデ・マリア・トゥロルドとカミッロ・デ・ピアツという二人の司祭。彼らがミラノの教会の物置を改造して開いたのが、コルシア書店である。
 この「書店」では書籍の販売だけでなく、本の出版やトークイベント、会議、ボランティア活動などがおこなわれた。教会の枠におさまらずに「聖」と「俗」の垣根をとりはらい、さまざまな人たちが参加して言葉を交わせる場所として設計されたのだ。
 政治の季節だった1960年代に、コルシア書店は新しい神学の拠点として、そしてその運動にかかわった人々の「共同体」として機能していた。須賀敦子はこう書いている。

 夕方六時をすぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニャの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。兵役の最中に、出張の名目で軍服のままさぼって、片すみで文学書に読みふけっていたニーノ。両親にはまだ内緒だよ、といって恋人と待ちあわせていた高校生のパスクアーレ。そんな人たちが、家に帰るまでのみじかい時間、新刊書や社会情勢について、てんで勝手な議論をしていた。ダヴィデがいる日もあり、カミッロだけの日もある。ファンファーニが、ネンニがと、政治談義に花が咲く。共産党員がキリスト教民主党のコチコチをこっぴどくやっつける。だれかが仲裁にはいる。書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。


 一般的な「書店」、すなわち書籍を店頭で販売している小売店は、近代的な書籍流通システムの中では小売のみを担う部分的なパーツにすぎない。だがコルシア書店が考えたのは、そうした歯車としての店舗ではなく、本というものが人間性を支える重要な要素であるということを捉えなおし、書籍もふくめた人間の知の世界を書店というひとつの「場」によって再構築しようという試みだった。
 歴史的には、書店はもともとそういうものだったとも言える。日本でも明治初年ごろまでは、書店は本を刊行する出版社であるのと同時に、販売する小売店でもあった。もちろん自社刊行の本だけでなく、他社の本も扱っていた。いまのような取次は存在していなかったから、本を刊行している書店同士の直接の取引によって、本は書店と書店のあいだを流通していた。またこの時代の書店では、新刊書だけでなく古書も扱っていた。つまり現在の業態でいうと、新刊書店・古書店・取次・出版社の役目をすべて、「書店」が担っていたのである。
 これが水平分離していったのは、言うまでもなく市場が巨大化してきたからだ。明治時代も後半に入ると卸と小売が分離し、卸を専業とする取次業者が登場してくることになる。これを「せどり屋」といった。せどりというと今では古書店の安売り本を仕入れ、それを他の古書店に転売して稼ぐミニビジネスを指しているが、当時は新刊本の仲介業者のことだったのである。

 なぜ市場が巨大化したのか。それは雑誌の市場が大きくなったからである。部数が少なく種類が多く、いわゆる「少量多品種」である書籍にくらべ、雑誌は同一の号が定期的に大量流通する。さらに当初は書店の買い切りだったのを、実業之日本社が女性誌「婦人世界」を1909年、「売れ残りは返品自由です」と打ち出して20万部を売り切った。この成功に業界は気をよくして、いまと同じ委託制度へと移行していく。これによって市場はさらに拡大し、大正の終わりには『キング』(講談社)のように100万部を超える巨大雑誌も現れた。こうした雑誌の巨大流通システムに書籍の流通も融合されていき、現在のような書籍流通システムが完成していったのである。
 しかし現在、雑誌はインターネットメディアに押されて著しく部数を減らしている。このまま衰退が進めば、雑誌と書籍が一体となった日本の書籍流通システムはいずれ機能しなくなってくるだろう。
 今後、書籍の流通はどう変化していくのか。
 それを読み解くためには書籍のみならず、映像や音楽、ニュース報道なども含めた今後のコンテンツ流通システムの可能性を考察しなければならない。
 現在の書籍流通システムは、ひとすじの川のように形成されている。この川の上流には書き手と編集者がいて、企画を決定する出版社がある。そこから原稿が印刷会社に流れ、製本会社に流れ、紙の書籍パッケージとして完成すると取次に流れ、最終的な川下の小売店である書店に流れ、そして読者に流れ着く。

 これは書籍だけでなく、すべてのコンテンツビジネスに当てはまる。テレビという川、新聞という川、レコード会社という川があったのだ。
 しかし今後は、このような川ではなく、ある種の層の積み重ねとしてコンテンツビジネスは成立するようになる。ITの用語で言えば、チャネルからレイヤーに変化するのだ。
 ひとつの例として、テレビの話を挙げてみよう。テレビの将来像として、「スマートTV」ということが言われている。
 これは単にインターネットとテレビが合体するというだけではない。サムスンやグーグルなどが作っているスマートTV受像機を見ると、画面上にアプリのアイコンが並んでいる。要するにスマートフォンと同じで、アプリをクリックして番組を起動するというようなインタフェイスになっているのだ。「CNNマネー」というアプリをクリックすれば、CNNの金融情報に関するテレビ番組が流れ始める。「FOX」をクリックすれば、FOXのニュース番組が観られる。チャネルを切り替えてテレビを見るのではなく、アプリを起動して見る方法に変わっている。
 つまりは「アプリケーション化したテレビ」という方向に変わってきているということだ。これはいったい何を意味するのだろうか?

 従来のテレビビジネスは、パッケージングされたテレビだった。番組を制作してテレビCMを付与し、それを編成のタイムスケジュールにはめ込み、まとめて放送することにより無料で視聴者に提供するという「川」のようなモデルだったのだ。この川の最下流であるテレビ受像機は、チャンネルを変える以外にできることはたいしてなかった。
 しかしスマートTVでは、このパッケージが破壊され、水平に分離したレイヤービジネスになると考えられている。配信プラットフォームという層(レイヤー)があり、その上に決済レイヤー、広告レイヤー、番組コンテンツレイヤーなどが積み重なっている構造へと変わるのだ。
 スマートフォンで考えてみれば、この構造変化はよくわかる。たとえばアンドロイド携帯の場合、OSレイヤーはグーグルがつくり、その上で動く音楽や動画、アプリのストアの決済レイヤーもグーグルが担っている。通信レイヤーはNTTドコモなどの通信キャリアが持ち、また機器レイヤーはサムスンやソニーなどのメーカーだ。アプリや音楽、動画などのコンテンツのレイヤーはソフト開発会社や映画会社、音楽会社がとる。
 iPhoneはもう少しシンプルで、機器とOS、決済はすべてアップルが握っている。他社が参入できるのは、コンテンツと通信のレイヤーだけだ。

 この「層」のレイヤーモデルは、「川」のチャネルモデルと大きく異なる。チャネルの世界では、たとえば音楽会社であればミュージシャンとスタジオ、レコード会社はそれぞれ人的につながっている。出版社と編集者、書き手、取次、書店も人的なネットワークを構成している。
 しかしレイヤーモデルはオープンであり、人的なつながりは必要としない。オープンなストアが提供されれば、そこでコンテンツ制作者たちは勝手に映像や音楽、アプリを制作して販売する。
 これまでのチャネルとしてのテレビは、決済も広告も配信も番組制作も、すべてひとつの会社がやっていた。民放局が番組を制作し、広告も付与し、クライアントへの広告料請求を発生させ、番組を電波で送出していた。垂直統合されていたということだ。
 しかしスマートTVでは、配信する基盤はグーグルやアップルが奪ってしまう可能性がある。OSとストアの決済をこれらネット企業が取ってしまうとどうなるか。コンテンツは相変わらず従来のテレビ局が制作することになるだろう。しかし日本の場合は、実はほとんどの番組を下請けの制作会社がつくっている。これらの企業が垂直統合から解き放たれれば、グーグルやアップルのストア・決済レイヤーの上で自由に番組を制作して販売することになるかもしれない。
 機器レイヤーはメーカーが今後も担うだろう。アップルはいずれ独自のテレビ受像機を出すと噂されており、もしアップルがこの市場を寡占するようなことになれば、このレイヤーもアップルにとられる可能性がある。

 広告のレイヤーはどうなるのか。これまではテレビ局がCMの枠を電通や博報堂に卸していたが、もし基盤がネット企業に移れば、広告レイヤーを他のプレイヤーが奪う可能性も出てくる。
 ソーシャルというレイヤーもある。番組コンテンツなどの情報をどう告知し、どう人々の間で流通させるのかというレイヤーだ。
 これまでテレビの情報はテレビの中だけで完結していた。番組宣伝はテレビ番組の中で行われていたのだ。しかし最近は、ツイッターやフェイスブックなどのSNSで番組情報が拡散することが増えてきている。NHKの『あまちゃん』、TBSの『半沢直樹』といったドラマのブームは、ソーシャルメディアによって増幅されている。日本の標準的な視聴率調査会社であるビデオリサーチは、2014年6月から「ツイッターTV指標」という新しい指標を導入することを決めている。番組ごとに題名や出演者、セリフなどの関連語を抽出して、ツイッターでの投稿数や投稿者数などを集計するというものだ。こうした指標が導入されれば、視聴率へのSNSの影響が可視化され、SNSからの影響をテレビは無視できなくなる。
 そしてフェイスブックやツイッター、LINEといった大規模なSNSは、テレビ業界の外側で動いている。つまりソーシャルレイヤーは、現時点でもすでにテレビの垂直統合から解き放たれ、独立して駆動しているということなのだ。

 チャネルという垂直統合の解体と、レイヤー化への移行が劇的に進み、レイヤーを旧業界の外の企業が奪うというようなことが起きてくると、旧業界のプレイヤーは窮地に立たされることになる。テレビの世界でこの構造変化が劇的に進めば、最終的にテレビ局にはなにひとつ残されない可能性だってある。
 これが今後、さまざまなコンテンツビジネスの世界で起きてくる恐るべき事態である。
 書籍が今後、電子への道を進むとすれば、これと同じことは間違いなく起きる。
 電子書籍のレイヤーモデルはシンプルで、書き手、企画編集、オーサリングとディストリビューション、ストア、ソーシャルという5つのレイヤーしかない。電子書籍データを担うオーサリングとストアに配信するディストリビューションレイヤー、そして情報流通・マーケティングのためのソーシャルレイヤーは、従来の出版社にノウハウは乏しく、ウェブ制作会社や新しく勃興してきている電書専門企業に奪われていくだろう。ストアのレイヤーを日本の出版社は結束して取ろうと画策してきたが、キンドルストア日本語版が2012年秋にスタートして以降、雌雄は明らかに決している。おそらく今後もキンドルを軸に電子書籍市場は展開していくことになるだろう。
 出版社はこれまでと同じように企画編集だけを担えば、生き残れるかもしれない。しかし紙の本が衰退著しい中で立ち行かなくなる中小出版社が増え、こうしたところから流出する書籍編集の人材が、今後は電子出版の新興企業に流れていく可能性は高い。実際、2000年代半ばから始まった雑誌の衰退局面では、多くの雑誌編集者がウェブメディアに流入するという事態を招いている。
 書籍の世界はこのようにしてレイヤーモデルへと呑み込まれていく。垂直統合は次々に崩壊し、レイヤーを奪えたもの、あるいはコンテンツを製作することに徹したモジュールしか生き残れない。これは大きなコンテンツの構造転換である。

 これはコンテンツなどの産業構造の変化だけでなく、もう少し大きな枠組みで言えば、人間社会のありかたそのものをも変えていく可能性を秘めている。
 他者とのコミュニケーションを例に考えてみよう。
 最近はネットのコミュニケーションもレイヤー構造に呑み込まれようとしている。
 従来のコミュニケーションは、たとえば会社であれば次のようなものだった。企業の中で誰かと誰かがコミュニケーションをとることを考えてみる。メールをしたが返事が来ない。そのときにどうするか。インスタントメッセンジャーでも連絡してみる。携帯電話に電話してみる。固定電話にかけてみる。ファクスを送ってみる。そのたびにメール、メッセンジャー、携帯電話、固定電話、ファクスとチャネルを切り替えていかなければならなかった。つまり従来は、チャネルによって人と人とがコミュニケーションしている時代だったといえる。しかしこうしたチャネルの交信は、メールの返事がなければ携帯電話の番号を調べなければならないし、チャネルを切り替えるたび、常にそこにスイッチングコストが発生していたという問題もあった。
 ところがここに最近、クラウド化したプラットフォームが浸透してきている。典型例をひとつ挙げれば、フェイスブックのメッセンジャーがそうだ。
 フェイスブックでの交信は、そもそもメールアドレスを調べる必要もない。SNSの特徴として、取引先でも同僚でも友人でも、すべて顔写真などのアイコンとして表示されており、そのアイコンの中から連絡先を選ぶだけで連絡がとれるということがある。
 とりあえずメールモードでメッセージを送り、もしデスクの前に相手が座っていて数秒で返事が来れば、その瞬間にメッセンジャーはチャットモードに切り替わり、会話するように交信することができる。メールでのやり取りとリアルタイムのチャットのやりとりをシームレスに切り替えられる仕組みになっているからだ。グーグルのSNS「グーグルプラス」であれば、動画チャットに切り替える機能まで用意されている。文章で交信していて、話がややこしくなったら「喋りませんか」と求めてテレビ電話でのやりとりを始めることができるのだ。
 ここでは完全にメールとメッセージと電話とテレビ電話が統合されており、しかも相手はSNSのアカウントとして存在しているので、探す手間は極度に省ける。
 SNSという基盤の上で、さまざまな交信を切り替えるというレイヤー型の新しいコミュニケーションが生まれてきているのだ。
 これは人と人との間に、フェイスブックのような基盤がひとつあればそれですべての連絡が取れてしまうということでもある。

 そしてこのようにコミュニケーションがグローバルプラットフォームを基盤にしていくようになると、企業の内と外の境界線という概念はコミュニケーションレベルで衰えてくる。イントラネットで社内連絡を取り合うことと、企業外のだれかと連絡を取ることとが同じになってしまうからだ。
 この10年、グローバリゼーションが進行する中で、企業はさまざまな社内プロセスを外部にアウトソースするということを行ってきた。
 たとえば顕著なところで言えば、顧客向けのサポートセンターは外部に切り出されている。アメリカでの英語のサポートがインドやフィリピンで行われ、日本語のサポートが中国で行われているというのはもはや珍しいことではない。また工場の外部化もあり、アップルなどは自社では工場をいっさい持っていない。
 さらには営業も外部化され、経理や総務も外部化されるという動きもある。最終的にこの動きを突き詰めれば、企業に残るのは経営判断とコアな技術やデザインぐらいになってしまうだろう。その時に「企業」の定義とはいったい何を意味するようになるのか?
 いまアメリカでも日本でも、小さなベンチャー企業が数多く設立され、その業界の中で人材が流動し、人やお金を融通しあうというような状況に変わってきている。その中には設立まもない企業にお金を投げ込む個人投資家もいれば、離陸まもないであろう企業を見つけるベンチャーキャピタルもあり、シリコンバレーや東京の業界全体がひとつの会社のようになっていく。ひとつの地域そのものが、企業のような構造を持つ方向へと変わっていくのだ。
 企業単体ではアウトソース化が進んで人員の規模が小さくなっていくが、地域全体で見れば、そこで働く人は増えていく。内部が外部化し、外部は内部化する。そういう相互作用によって、企業の外殻というものにあまり意味がなくなっていくということになる。

 これと同じ構造が、今後はコンテンツビジネスでも起きてくる。
 これまでは出版社やテレビ局、レコード会社が、それぞれの読者や視聴者に向けてチャネル経由でコンテンツを配信していた。しかし今後は、フェイスブックやアップル、グーグル、LINEのような巨大な場を経由して、そこでコンテンツが配信され、コンテンツにかかわる情報も共有されるように変わっていく。
 この構造に対応していかないと、コンテンツの情報自体が人々のもとに届かない。
 さらには、もはや情報流通は国内で閉じる必要さえなくなっていく。グローバルプラットフォームの世界において、情報はグローバルに流れていくからだ。
 ナイジェリアのミュージシャンは今までナイジェリアのCD市場にしか対応できなかったが、iTunesの登場によって、日本からでもごく普通にナイジェリアの楽曲が買えるようになった。国内市場では数百枚しか売れなかった楽曲も、世界に流通することで数千枚、数万枚を販売することが可能になったのだ。グローバルプラットフォームによって、情報はローカルであるのと同時にグローバルになっている。国内にファンが少数しかいなくても、世界中に存在するピンポイントの潜在的ファンを集めることができれば、絶対数は自動的に大きくなる。つまりはグローバルなロングテールモデルの可能性である。

 日本語の壁はあるが、たとえばマンガはグローバル化しやすい。もともと神話的な物語構造を持っているケースが多く、グローバルに文化流通がしやすい上に、文字数が少なく翻訳の手間があまりかからないからだ。ただし今の日本のマンガは縦書きで右から左にめくっていくものなので、吹き出しの形状とめくりの方向を変えなければならないというハードルはあるが、解決不能ではない。
 では小説やノンフィクションはどうか。現在のところ英語圏などに向けて翻訳されている書籍コンテンツはきわめて少ない。しかし日本語など各国語の本を、クラウドソーシングによって相互に翻訳しようという「バイマブックス」のような試みも、日本のベンチャー企業から現れてきている。従来の英語のベストセラーはアドバンスが高価で版権をとるのが難しいケースも多かったが、あまり売れていない英語書籍を、日英の両方のことばに堪能な海外居住者などの力によって日本語に翻訳してしまおうというサービスだ。出版社が目を付けないような書籍を安価に翻訳し、コストをかけずに電子書籍で販売することで、ハードルを下げてしまおうという考え方である。これは日本語の書籍を著者の了解を得て英語やフランス語に翻訳し、海外の電子書籍ストアで販売するという逆方向もあり得る。得られた収益は、著者と翻訳者と運営企業でレベニューシェアし、初期コストは発生させない。
 このバイマブックスが成功するかどうかは未知だが、今後もこうしたクラウドソーシングと電子書籍、グローバルプラットフォームを連携させていくようなサービスは次々と登場してくるだろう。これは日本語という島宇宙の外殻を突き破り、書籍というコンテンツをさらにグローバルにレイヤー化していく可能性を秘めていると言える。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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