[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2013.1.18

第2回印刷革命は何が革命的なのか

 ウォルター・マイケル・ミラー・ジュニアは1923年にフロリダで生まれた。20歳になったばかりのころに第二次世界大戦に出征し、B-25の通信士兼銃手としてイタリア戦線での爆撃に53回も従事した。モンテ・カッシーノの激戦では、ドイツ軍の要衝だったベネディクト派修道院を爆撃する無残な行為を経験し、これはトラウマとなって彼の人生を最後まで苦しめることになった。
 戦争が終わり、ミラーはカトリックに改宗した。修道院爆撃という恐ろしい罪への意識を少しでも癒やしたいという気持ちがあったのだろう。彼は自宅の居間に、ロン・コヴィックの写真も飾っていたという。ミラーよりも20歳あまり年下のコヴィックはベトナム戦争で負傷して下半身不随となり、その後反戦運動に転じた人物だ。トム・クルーズの映画『7月4日に生まれて』のモデルとしても知られている。
 1950年代に入ってミラーは、いくつかの短編小説を雑誌に発表するようになる。そして1959年、最初の長編小説を書き上げた。
『リーボウィッツの賛美歌(A Canticle for Leibowitz)』というタイトルのその小説は、核戦争のあとの世界を描いている。日本では1971年に『黙示録3174年』というタイトルで邦訳が創元推理文庫から刊行された。
 終末的な感覚に彩られたこの作品は、1961年度のヒューゴー賞を受賞した。ネビュラ賞とならんで最も栄誉のあるSFの文学賞である。しかし以降、ミラーは作品を発表することはなかった。後半生は隠者のような生活を送るようになり、妻や4人の子供とも会わず、出版エージェントからの面会依頼も許さなかった。晩年は鬱に苦しみながら『黙示録3174年』の続編の執筆を続け、そして妻が亡くなった直後の1996年、銃で自殺した。72歳だった。続編は未完のままだったが、SF作家テリー・ビッスンの手によって完成され、2000年に刊行されている。
『黙示録3174年』は次のような物語だ。
 戦争を引き起こした科学文明を徹底糾弾する「単純化運動」が起こり、知識人は殺された。知は破壊され、文明は中世以前のレベルにまで後退した。
 戦争前まで電気技師だったアイザック・エドワード・リーボウィッツは単純化運動を逃れ、カトリック教会へと逃げ込んでいた。彼は教皇の命を受け、人類の知を保存する修道院をひそかにユタ州の砂漠に設立する。
「そのメンバーは『搬書僧』とか『暗記僧』とか、割り当てられた仕事の性質によって呼ばれた。搬書僧は南西部の砂漠に本を秘密裡に運搬し、小樽に入れて埋めた。暗記僧は歴史、聖書、文学、科学などの全巻を暗記して搬書僧が不幸にも捉えられ、拷問に付され、小樽のありかを明らかにせざるを得なくなった場合にそなえた。いっぽう、新修道会の他のメンバーたちは本の隠し場から三日ほど歩いたところに水脈を捜し出し、修道院を建てはじめた。かくて、わずかばかりの、人類文化の名残りを、それを滅ぼさんとする人類の名残りから救わんとする計画が進められたのである」
 そしてリーボウィッツ修道院は、1000年以上にわたって文明をまもる小さな砦となった。ある登場人物は、こう述懐するのだ。「十二世紀の間、われわれはまっくらな大洋の中のたった一つの小さな島だった。『大記録』を護るのは甲斐のない仕事じゃが、神聖でもあるはずだとわしらは思う」

 ミラーが描いた「暗黒の時代に文明を護る修道院」というイメージは、実際の中世ヨーロッパの修道院の役割をそのまま反映させている。
 5世紀に西ローマ帝国が北方の野蛮なゲルマン人によって滅ぼされると、ギリシャ・ローマの古典文化を継承する文明は途絶えた。この状況の中で、古い写本を保存する場所を作ろうという動きが現れてくる。
 ローマの元老院議員だったカッシオドルスがそうだ。ローマ皇帝が廃位された後、イタリアを支配していた東ゴート族の王に仕えていたカッシオドルスは、みずからの屋敷をヴィヴァリウムと名づけ、古代の偉大な著作を体系的に集め、訓練した修道僧たちにそれらの本を書き写させるという試みに着手した。
 偉大なギリシャ・ローマ文化では、知は書物からではなく、ことばの対話によって生まれると考えられていた。教科書から学ぶのではなく、教師から口承で学ぶのだ。しかしカッシオドルスは修道僧たちに悲痛な面持ちでこう告げている。
「これからの時代には教師から耳で教わるのではなく、目で学ぶことになるだろう。書物を教師代わりにせざるをえなくなるのだ」
 そして彼は、こうも言った。
「おまえたちに託された大義の性質を考えよ。それはキリスト教に奉仕することであり、教会の宝たる書籍を守り、魂を啓蒙することなのだ」
 カッシオドルスのヴィヴァリウムは、長い年月の間に消滅し、いまに姿を遺していない。しかし修道院による書籍の保存という彼の考えは、ヨーロッパ世界に静かに広がった。5世紀以降、約700年間の暗黒の時代をギリシャ・ローマの知が生き延び、後世の文化復興にまで書籍が維持されたのは、これら修道院のおかげだったのである。
 ローマ帝国時代の商業的な本作りは、ほとんど壊滅していた。ローマ時代にはエジプトのパピルスが用紙として使われていた。ナイル川下流のデルタ地域に生えていた背の高い葦の茎を切りひらき、ごく薄く削る。短冊状になったそれらをずらしながら碁盤目に重ね、木槌で軽く叩く。にじみ出てくる葦の樹液が短冊を接着させ、軽く薄く使いやすいシートができあがる。これらを接着剤で長くつなぎ、巻物にしたものがローマ時代の本だった。今の書籍のような冊子(コデックス)が普及するようになったのは、中世になってからのことだ。
 エジプトとの間のパピルスの取引市場は帝国崩壊とともに途絶えてしまい、中世ヨーロッパにおいて書籍をつくるためには別の材料を探さなければならなかった。そこで選ばれたのが羊などの獣皮だったが、これも商業的な産業はすでに衰退していた。このため修道士たちは獣皮を写本の材料に加工する難しい技能を独自に習得し、みずから製造するようになった。いまのような紙が登場するまでの約1000年間、本の材料はヨーロッパにおいては獣皮だったのである。
 獣皮を手に入れると修道士たちは軽石で皮の表面をこすり、残っている獣毛や凹凸を取り除く。それでも質の良い獣皮紙をつくるのは至難の業で、写本僧たちはできの悪い獣皮紙への愚痴や恨みを本の余白に書き残した。
 「この羊皮紙は毛だらけだ」「インクは薄いし、羊皮紙は質が悪いし、文章は難しい」「やっと全部書き終わった。頼むから一杯飲ませてくれ」

 修道院は、長い暗黒の時代における知の灯台のような役割を果たした。
 しかし修道院だけにギリシャ・ローマの文明が遺されていたわけではない。ローマ帝国が東西に分裂した後、西ローマは蛮族に滅ぼされた。東ローマはヴィザンティン帝国となって15世紀まで生き延びたが、首都コンスタンティノープルは古代の文化をほとんど伝えなかった。そういう中で、古代に大規模な図書館を持っていたエジプトのアレクサンドリアだけは中世に入っても数多くの学者を維持し、古代の文献も良い状態で保存していた。そして7世紀にイスラム帝国に占領され支配下に置かれるようになると、イスラム科学文明の発祥の地としての役割を果たすようになる。イスラムの学者たちは膨大な書籍の中から、プラトンとアリストテレスに基点をもつ古代ギリシャの知識の宝庫を発見し、これらはアラビア語に翻訳され、比較研究されるようになった。
 イスラム学者たちは、ギリシャの幾何学やインドのゼロの数学などを統合し、現代数学の基礎を築いた。また医学についても、血液循環のメカニズムや心臓などの器官の役割も理解するようになり、いまの近代医学とほぼ同じ人体の理解に達していた。当時はほかのどの地域にもなかったすぐれた病院が、イスラム帝国の首都バグダッドに100か所も建設されていたという。
 しかしこうしたすぐれたイスラムの学問は、その後のヨーロッパの近代科学の域には到達しなかった。科学的な研究手法が確立しなかったからだ。なぜならまず仮説を立て、実験をして仮説をたしかめ、その繰り返しで知識を増やしていくというアプローチが構築されなかったからだ。イスラム学者にとっては、科学はあくまでも思索をめぐらすことによってのみ生み出されるものだったのである。
 中世の暗黒を突破しようとする運動は、これだけでなく何度となくくり返された。
 ヨーロッパでは三度の復興運動があった。
 最初の復興は、「カロリング朝ルネサンス」と呼ばれている。8世紀から9世紀にかけて旧西ローマ帝国にできあがったカロリング朝というフランク王国の王朝が、古典ラテン語を復活させ、古代の書籍の研究に力を入れた時代である。
 また12世紀には、イスラム学者たちによって研究されていたプラトンやアリストテレスがヨーロッパに逆輸入された。長くイスラムの支配下にあったイベリア半島がキリスト教勢力に取り戻され、これがきっかけとなってイスラムのさまざまな研究成果がキリスト教世界に流れ込んできたのである。これは「12世紀ルネサンス」と呼ばれている。
 しかしこの二度の復興は、長続きはしなかった。7世紀のイスラム科学揺らん期も含めて、いずれも単なる運動として終わり、近代科学への道をひらくところにまでは進まなかったのだ。
 最終的に中世の暗黒を終わらせる突破口となったのは、14世紀以降に始まったイタリアのルネサンスだ。東ローマ帝国滅亡とともにイタリアに逃れてきたギリシャ人の学者たちと多くの古典文献が研究を活発化させ、ギリシャ・ローマの復興運動が大きく盛りあがった。

 たしかにこの復興運動が、その後のヨーロッパ近代文明にいたる連続的な変化の最初の一里塚となったのは事実だ。しかしルネサンスそのものが、ヨーロッパ近代文明を生み出したのかどうかについては今も議論が分かれている。
 ではなぜ、14世紀のルネサンスは近代文明への発火点となることができたのだろうか?
 それは印刷である。
 印刷が、ルネサンスそのものを引き起こしたのではない。ルネサンスの最初期の重要人物ペトラルカが古典の収集や著述を始めたのは、14世紀半ば。グーテンベルクが活版印刷を発明する1世紀近くも前だ。しかしルネサンスによって再発見された古代の知を、さらに前へと進めるために活版印刷はきわめて重要な役割を果たしたのだ。
 ルネサンスによって再発見された文献は、そのままでは単なる写本にすぎなかった。写本は言ってみれば、アーカイブされたデッドストックである。工芸品としては無類の美しさをもつけれども、コピーをつくるのは非常にたいへんで、焼失や水没などで数少ないコピーがすべて失われてしまう危険も大きい。コピーが少ないためだれもが読めるわけではなく、このため文献の知は多くの人には共有されなかった。この写本の閉鎖性は、文献が修道院からホコリをはたいて引っ張り出され、ルネサンスの盛り上がりの中で知識人の間に共有されるようになっても、本質的には変化していなかった。
 しかし15世紀以降に印刷が普及してきて、さまざまな文献が印刷されて流通するようになると、本の本質は大きく変わる。文献のみならず、さまざまな地図や年代記などが整理され、データが改訂され、資料整理のための統一的な体系ができあがるようになる。それまでは学者ひとりひとりの直感で「この文献とこの文献は書き方が違うな」「字体がちょっと違うように思う」「年代はこっちが先かな」と漠然ととらえられていたのが、より理性的に分析されるようになる。
 また、それ以前には「古典の復活」といってもごく限定的な文献に限られていたのが、印刷によってさまざまな古代の遺産をすべて復活させ、文書としてオープンにしていこうという展開へとつながっていく。
 さらにそこから、美術史という学問も生まれてくる。人間の手による写本であれば保存されなかった私的な手紙や素描、論文といったさまざまな資料を、印刷することによって大量に流通させることが可能になり、同時に印刷のコピーによってそれらを長期にわたって保存することができるようになったからだ。美術史の最初の本として知られているのはヴァザーリというイタリアの画家が16世紀に著した『画人伝』で、彼は美術家たちのインタビューや手紙、実地調査などに基づいて体系的な美術の調査研究を行った。
 つまりは印刷によって、知の全体を俯瞰的に見通せるような理性的な目を持つことができるようになったということなのだ。
 さらに印刷された本は、学者と職人の間に橋を架けることを可能にした。中世にいたるまで、学者はただひたすら思索をめぐらす人であり、実践は伴っていなかった。一方で職人はただひたすら実践のみの肉体労働者であり、自分たちの行っていることの価値を体系づけるような思考は持っていなかったのだ。
 中世には、職人たちの仕事を帰納的に学問の側からとらえることは誰もしておらず、学者の考えたことを演繹的に実践して確かめる人も誰もいなかった。
 しかし印刷された本が出回ったことによって、この二つが結ばれた。職人は気軽に本を手に取ることができるようになり、彼らの仕事のやり方を書いた技術書が出回り、学者は技術書から実践を学ぶことができるようになり、さらに学術論文を発表して多くの人に読んでもらうこともできるようになったのだ。

 中世までは大学で教育を受けた高等な医師はすべて内科医で、外科医は単なる職人として奴隷のように見くだされていた。「理髪外科医」と呼ばれ、整髪や洗顔、手術、抜歯まで身体にかかわることなら何でもこなす職人だったのである。一方で上流階級の内科医たちは、手を使って行う医療行為は下賤な仕事だと考えていたのだった。14世紀のパリ大学の学則には「すべての入学者は外科処置には手を染めないこと」と書かれていたという。
 内科医たちは治療の腕もなく、薬の知識もなく、ただひたすら文献を読んでその内容を学ぶことだけが仕事だった。医学の世界でも、職人と学者は途方もなく乖離していたのだった。
 16世紀のフランスに、アンブロアズ・パレという外科医が現れる。田舎の小さな村に生まれ、初等教育を受けただけでパリの外科医の徒弟となり、救貧院のような施設で外科の修業を積んだ。そして彼は、その時代の権威ある医学書に書かれていた銃創治療の方法に初めて異を唱えた。
 ローマ教皇の侍医だったジョヴァンニ・ダ・ヴィーゴという内科医が1514年に書いた『外科実地』という本には、銃創の治療は熱した油で解毒しなければならない、と記されていた。銃の火薬には毒があり、そのためには熱油で消毒する必要があるというのがその理由だった。
 ところがパレは戦争に従軍した際、熱油の治療があまりにもひどい痛みをともなうのに疑問を感じ、化膿どめの薬だけを塗る治療を試みてみる。その結果は非常に良好で、傷病兵たちは激しい痛みもなく、炎症も腫れもなかった。それに対して従来の熱油治療を受けた兵士たちは熱を出し、激痛に見舞われ、傷口が腫れ上がっていた。
 彼は自分の仮説が正しかったのを知って喜び、その後何度となく実験を繰り返し、治療法に自信を持つようになる。パレはその後多くの医学書を出版し、その知を他の外科医たちと共有するようになる。1564年に刊行した本では、それまで手足切断後の止血のため、切断部に焼けた鉄を押し当てる治療が行われていたのを否定し、血管を糸で縛って血を止める結さつ法を提案した。
 これに対してパリ大学の医学部長が「古来おおいに推奨されて認められてきた方法を否定し、根拠も判断もなく新規な方法を教示している」と非難した。しかしパレはこれに対してひるむことなく、文献を漁って反撃した。古代から中世、そして同時代にいたるまでの文献を紹介し、先人たちが実は結さつ法を奨励していることを指摘したのだった。
 パレの時代には学術書をフランス語で訳した本がすでに多数出回っていた。これこそがパレの反論を成立させる原動力となったのだ。
 先にイスラム科学は、科学的な研究手法に達しなかったと書いた。まず仮説を立て、実験をして仮説をたしかめ、その繰り返しで知識を増やしていくというアプローチが構築されなかった。しかし16世紀のパレの時代には、印刷物流による知のオープン化の力を思いきり使うことで、この科学的な研究手法を実際に駆動させることが可能になっていたのである。
 これこそが印刷の力だった。
 過去の膨大な知を整理して並べ、それらを体系化する。これはすなわち、本連載の第1回で書いた「知の構造化」にほかならない。さらにそうやって構造化された知は、印刷物流によってオープンになり、多くの人の手で共有されていく。この15世紀から16世紀にかけて起きた「構造化」と「オープン化」という二つの流れは、まさに21世紀になってインターネットが引き起こした流れと見事に重なっている。

 そして間違えてはならないのは、この印刷革命が引き起こされたのは、本が羊皮紙から植物繊維の紙に変わったからではないということだ。印刷革命の原動力は、本が写本というデッドストックのアーカイブから、印刷物流というきわめて流通しやすいフローのメディアへと変化したことによるものである。

 メディアを構造化させて可視化するアプローチとして、コンテンツ・コンテナ・コンベヤという3層モデルの考え方がある。コンテンツは内容であり、コンテナはコンテンツを配信する仕組み、そしてコンベヤはコンテンツを運ぶ媒体だ。たとえば新聞で言えば、

コンテンツ=新聞記事
コンテナ =新聞販売店経由の物流
コンベヤ =紙

 ということになる。またテレビであれば、以下のようになる。

コンテンツ=番組
コンテナ =CMを付与することによる無料放送
コンベヤ =電波

 そして紙の書籍はこうだ。

コンテンツ=文学やノンフィクションなど本の中身
コンテナ =印刷物流
コンベヤ =紙

 しかしこれは中世ヨーロッパの写本時代にはこうだった。

コンテンツ=本の中身
コンテナ =本を人の手で書き写す写本
コンベヤ =羊皮紙

 では古代ローマではどうだったろうか?

コンテンツ=本の中身
コンテナ =本を人の手で書き写す写本
コンベヤ =パピルス

 中世ヨーロッパと古代ローマで異なるのは、表現媒体であるコンベヤだけである。本の中身がとりあえず不変であると仮定すれば、写本というコンテナシステムは変化していない。そしてこれは印刷物流以前の時代には、どの地域でもすべて共通している。古代メソポタミアの粘土板だろうが、中国の割った竹を編んだ竹簡だろうが、写本であることには変化はないのだ。

コンテンツ=本の中身
コンテナ =本を人の手で書き写す写本
コンベヤ =粘土板、パピルス、竹簡、羊皮紙

 つまりコンベヤは時代と場所によってどんどん変化していくものであり、書籍の構造を考える上では決定的な最重要要素ではないということだ。最重要要素はコンベヤではなく、コンテナである。本のコンテナは、書物という存在が考え出されて以来数千年にわたって、長く写本だった。それが15世紀の印刷の発明とその後の物流の普及によって、一度だけ切り替わった。そのたった一度のコンテナ変化は、きわめて重大な変化を知の世界に引き起こした。それは今回、ここまで縷々と書いてきた通りである。
 振り返れば、この印刷物流というコンテナは16世紀以降の約400年にわたって唯一のコンテナとして機能してきた。このコンテナが人類全体の知に及ぼした影響は計り知れないだろう。そしてこのコンテナは、実は人類史上で二度目の変更の時期を迎えようとしている。それが電子書籍だ。

コンテンツ=本の中身
コンテナ =デジタル配信
コンベヤ =iPadやKindleリーダー

 おそらく多くの人は、電子書籍の定義をiPadやKindleリーダーなどの「液晶画面、電子ペーパー画面で読む本」と捉えているだろう。それは決して間違いではないが、しかし100%の正解ともいえない。たとえばエスプレッソ・ブック・マシンという高速印刷製本機がある。すでに米国では50台以上が書店や大学生協、図書館などに設置され、英国やオーストラリア、カナダ、オランダなどにも展開している。日本でも三省堂書店神保町本店に導入されている。
 これはインターネットにつながった印刷製本機だ。付属しているモニタとキーボードを使ってGoogleブックスを検索し、求める本のタイトルを選択すれば、その場で印刷製本される。小型軽量だが、簡易印刷ではない。本文ページはレーザープリンタによるモノクロ印刷だが、表紙はカラー印刷が可能で、できあがりは新書程度の見栄えはある。画面でクリックしてから、ダウンロードと印刷製本までおおむね5分程度で完成する。
 このエスプレッソ・ブック・マシンはその場で注文に応じて印刷する「プリントオンデマンド」と呼ばれる機器の一種だが、従来の同種製品に比べて圧倒的に小さく安価になったのが特徴だ。従来のプリントオンデマンド機は印刷会社への設置が念頭に置かれて、全長が20メートルほどもあり、数千万円もの価格帯だった。これに対してエスプレッソ・ブック・マシンはオフィスにある大型コピー機を2台並べた程度の大きさで、書店の店頭にも十分に収まる。価格も1000万円程度だ。
 このようなプリントオンデマンドによって製作された本は、従来の紙の本とは異なる。なぜならコンテナが印刷物流ではなく、デジタル配信だからだ。先ほどの三層モデルで説明すれば、次のようになる。

コンテンツ=本の中身
コンテナ =デジタル配信
コンベヤ =紙

 エスプレッソ・ブック・マシンは、インターネットを使って縦横に本が検索でき、しかもその場ですぐに入手できるという点において、デジタル配信というパワフルなコンテナを充分に享受できる。その意味でこの本は、見た目は紙の本だけれども、電子本的な性格を強く帯びている。
 そもそも先にも書いたように表現媒体であるコンベヤは時代と場所によってどんどん移り変わる。いまの電子本はiPadやKindleリーダーで読まれているが、この分野のテクノロジーの進化は非常に速い。数年後にはくるくると丸められるカラーの電子ペーパーが登場するだろう。さらにその先にはホログラフィのように空中に文字を浮かべる技術や、メガネに文字を映し出すような技術も次々と登場してくる。おそらく100年後には、現代の誰も予想できないような斬新なコンベヤを使ってわれわれは本を読んでいるにちがいない。
 しかしその時代においても、おそらくコンテナは変わっていない。印刷物流はいずれ写本と同じように役目を終え、すべてはデジタル配信という新たなコンテナへと移行している。そしてこの新たなコンテナの寿命は、印刷物流と同じぐらいには長続きしているはずだ。かりにテレパシーのような超現実的な技術が登場したとしても、それらがビットに変換されて配信されるという形態を変えない限り、デジタル配信の外側には出て行かない。
 そして今始まったばかりのこのデジタル配信という新たなコンテナが、いったい人類の知にたいしてどのような影響をもたらし、どのような変化を突きつけるのか。それをこれから考えていかなければならない。

 参考文献

『黙示録3174年』(ウォルター・M・ミラー・ジュニア/吉田誠一訳)創元推理文庫、1971年
William H. Roberson Walter M. Miller, Jr. : A Reference Guide to His Fiction and His Life, Mcfarland & Co Inc Pub, 2011
『印刷革命』(E.L.アイゼンステイン/別宮貞徳訳)みすず書房、1987年
『一六世紀文化革命』1、2(山本義隆)みすず書房、2007年
『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(スティーブン・グリーンブラット/河野純治訳)柏書房、2012年
『イスラームから見た「世界史」』(タミム・アンサーリー/小沢千重子訳)紀伊國屋書店、2011年
『知はいかにして「再発明」されたか―アレクサンドリア図書館からインターネットまで』(イアン・F・マクニーリー+ライザ・ウルヴァートン/冨永星訳)日経BP、2010年

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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