[メディア論] 100年後の「本」 佐々木俊尚 紙の書籍を模倣するだけの電子書籍は、まだ新しいメディアとは言えない。
メディアとしての書物を原理的に問い直し、
新たな「本」の未来像を提起する本格評論。

佐々木俊尚2014.6.27

第10回原宿から「世界」へ

 女性シンガーのきゃりーぱみゅぱみゅに象徴される原宿カワイイ文化。海外でも「Kawaii」と表記され、本来は大人っぽい女性文化が主流のヨーロッパやアメリカでも、そうした成熟した文化を好まない層から強く支持されるようになっている。Kawaiiという字面や語の響きが、観光地のハワイ(Hawaii)と似ているのも親しみやすい理由になっているようだ。
 この原宿カワイイ文化の第一人者として知られるのが、きゃりーのアートディレクターであり、原宿で「カワイイ」を代表するショップ「6%DOKIDOKI」を開いた男性クリエイター、増田セバスチャンである。
 思春期に寺山修司の著書『書を捨てよ、町へ出よう』と出会い、大きく影響を受けた彼は、つねに土地や場所というリアルの空間にこだわり続けている。そのリアルの原点は、驚くべきことに1980年代初頭の「竹の子族」にあった。『ブティック竹の子』というショップで購入した衣装を着ていたことからそう命名された竹の子族は、原宿の歩行者天国(ホコ天)の強烈なアイコンでもあった。中学生だったセバスチャンは毎週のようにホコ天に通い、「あの中に僕も入っていたい」と憧れとともに見物人の列に並んでいたのだという。
 当初は『ブティック竹の子』で購入した衣装を着ていた竹の子族たちも、だんだんと既製品には飽き足らなくなり、他のダンスグループよりも目立つために、自分でさまざまなアクセサリーを衣装に加えたり、さらには生地を購入して衣装そのものでさえも自作するようになる。こうしてオリジナルのファッションが生まれ、これが原宿ファッションのひとつのルーツになっているというのがセバスチャンの見立てだ。
 この後に「イカ天」ブームがやってくる。これは1989年から90年にかけてTBSで放送された深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天国』が火をつけた音楽バンドブームで、原宿のホコ天でも竹の子族に代わってバンド演奏が主流になっていった。しかしこの結果、騒音問題がにわかに浮上し、さらにゴミが増えるなどの事態も生じて、バンドの演奏が規制されるようになっていく。
 そうして竹の子族が去り、バンドが去った後に、騒音を出さないホコ天族として、今度は正真正銘の原宿ファッションがやってきたのだった。セバスチャンが「6%DOKIDOKI」を開いたのもこのころで、1995年のことである。首都圏出身の彼は大阪の専門学校に進み、そこでひきこもりになり、『書を捨てよ、町へ出よう』を読んでリアルの世界に開眼し、東京に戻ってきて演劇活動に没頭していた。店を開いたのは、仲間内に閉塞しがちで、しかも上演期間にしか観客とつながれない演劇と異なり、ショップという場であれば外部につねに開かれている面白さがあると感じたからだった。
 とはいえ当初の「6%DOKIDOKI」は、セバスチャンが好きだった雑貨をただ集めただけで、しかも目立たないマンションの一室にあるという地味さで、いわゆる「隠れ家」的な場だった。しかしファッション好きな人たちはクチコミでこのショップにたどり着き、中には遠く関西からやってくる人たちまでいたという。そうしてこのショップを拠点にして、着飾った人たちが原宿のホコ天に出て行くようになる。「6%DOKIDOKI」で購入した「のれん」を頭に巻いてみたり、虫かごをバッグにしてみたりと、ファッションアイテムではない雑貨をアクセサリーとしてあつかうという不思議な流行が始まり、これがエスカレートして、原宿カワイイ文化へと展開していったのだ。

 この不思議で過激なファッションに目をつけたのが、イタリアの大手アパレル企業ベネトンだった。
 ユニークな広告キャンペーンでも知られるベネトンは、1999年に原宿カワイイファッションの若者たちを取りあげた。ベネトン広告のアートディレクターとして鳴らしたオリビエーロ・トスカーニは親日家としても知られていて、原宿の新しいファッションの潮流にいち早く気づいていたのだ。トスカーニは広告制作にあたって、5日間で総計200人もの若者たちを撮影したという。キャンペーンではこのうち80人の写真が使われた。
 しかし先端的な文化をあつかってきたトスカーニにも、原宿カワイイ文化はかなり不思議なものと映ったようだ。彼はこのキャンペーンの取材時に朝日新聞の取材を受け、インタビュー記事が1998年10月3日に掲載されている。

 原宿の若者たちは世界一おしゃれで清潔、暴力とも無縁で、まるで天使のように見えた。
 一人ひとりにインタビューしたが、だれも政治や社会について語らなかった。「日本の現実を無意識に拒絶する彼らは、実は悲劇の天使なのではないか」と思えてきた。
 欧州の高級ブランドと古着をさりげなく着こなした少女は「未来よりも大昔の方がいい。サルになって、この世の生まれた時まで戻りたい」と語った。
 世界で最も経済的に成功した企業戦士の子供たちは、現実感と目的を失って想像の世界に遊ぶ、こぎれいな天使だった。
 「貧困や暴力にも増して、我々が今後直面する悲劇の前触れなのではないだろうか?」
(『オリビエーロ・トスカーニさん 原宿に悲劇の前触れ(地球の肖像)』より)

 現実感と目的を失って想像の世界に遊ぶ、こぎれいな天使──。このことばをトスカーニが言ったのか、それとも朝日新聞の記者が代弁してつづったのかはわからないが、しかしこのような「いまここしかない」という時間感覚は、この1990年代末のころから現在のきゃりーぱみゅぱみゅにまで連綿と続いている原宿カワイイ文化の時代精神である。
 きゃりーぱみゅぱみゅは、東日本大震災後の暗い風景の中で一大ブームとなった。原発が事故を起こし、節電が求められる中で、街はどこも暗くなった。この時、セバスチャンはアメリカのニュース局CNNから取材を受けている。「このような終末的な状況の中で、これから先日本の文化はどうなっていくのでしょう?」と質問され、彼は答えた。
「日本は終わりません。原宿を見ていてください」
 震災が起きて、地殻変動期が始まるとまで言われ、原発の放射線の恐怖に首都圏の人々は怯えた。こういう閉塞した空気の中から現れたのが、きゃりーぱみゅぱみゅだった。彼女のミュージシャンとしてのメジャーデビューは震災の年、2011年5月のことである。
 きゃりーはメジャーデビュー前から、動画共有サービスであるユーチューブの力を使ってみずからの姿を世界中に一気に拡散していく。そしてこれが「震災や原発事故があったけど、原宿は元気に楽しそうにやっているじゃないか」という日本からのメッセージとなり、「震災後でも元気な原宿」というアイコンになっていったのだった。
 振り返れば21世紀の幕開けには、ウルフルズが坂本九の曲をカバーした『明日があるさ』が大ヒットした。その10年後にはもはや「明日はないかもしれない、だからこそいま現在を楽しもう。自分の好きなことをやろう」という感覚が強く共有されるようになったのである。この10年間の時代精神の変化、そして震災以前と以後での空気感の変化は、とても大きなものがあった。これは本連載でも、第7回で「起承転結の物語が衰え、『いまこの瞬間』の永続性に物語は向かっている」と指摘したとおりのことである。

 時間軸を少し戻そう。21世紀に入って原宿カワイイ文化は、ベネトンの広告キャンペーンによる伝播力も借りるかたちで、海外に出て行く。しかしその中心の場になったのは広告ではなく、ソーシャルメディアだった。ベネトン広告が引き金となり、その後はソーシャルメディアという場に移行して交流が広がっていくことになるのである。
 当初はマイスペースというサービスである。2014年のいまはあまり使われなくなっているが、2000年代のある時期までは音楽が流通するSNSとして多くの人々を惹きつけていた。
 セバスチャンの「6%DOKIDOKI」がショップのページをマイスペース上に開設すると、世界中からメッセージがやってくるようになった。
「そのファッションはどこで買えるの?」
「あなたのお店の商品は外国では売ってないの?」
 英語やフランス語、ドイツ語などさまざまな言語でメッセージが送られてくる。そしてSNSの際だった特徴として、そのメッセージを送ってきた本人のプロフィールや写真を、すぐに見ることができる。驚いたことに彼女たちのファッションは、まさに原宿カワイイ文化そのものだった。セバスチャンは驚愕し、いつの間にか世界中に原宿文化が広がっていることをここで初めて認知したのだった。
 そんなあるとき、フランスの若い女性がセバスチャンにメッセージを送ってきた。
「わたしは「6%DOKIDOKI」のファッションがほしくてたまらない。わたしの国に来て、皆さんの前でファッションを披露してもらえませんか」
 そう求められても、当時のセバスチャンのショップには海外展開するような金銭的余裕もなかった。「無理です」と返信すると、さらにメッセージが来る。
「じゃあセバスチャン、あなたが自分で「6%DOKIDOKI」の商品を持って来てくれればいいじゃないですか。そうしたら、わたしが友達を集めて全部買いあげます。それを旅費にしてください」
「そう簡単に言うけど、泊まるところだって必要だし、僕は英語もフランス語もしゃべれない。どうすればいいと思う?」
「じゃあわたしの友達が教会の神父さんをやっているから、教会に泊まってください」
「いやいや、さすがに教会で寝泊まりできないよ。僕はキリスト教徒じゃないし」
「わかりました。友達が大学の寮に泊まっていて、その寮に空きがあります。そこに寝てくれれば大丈夫です」
 そこまで詰められると、もはやセバスチャンにも断りようがない。そこで彼は意を決して、「6%DOKIDOKI」の商品をバッグに詰め込み、フランスへと渡ったのだった。
 これが原宿カワイイ文化のワークショップの始まりとなった。

 SNSの中心は2009年ごろになるとマイスペースからフェイスブックへと移行していく。セバスチャンはフェイスブックで参加者を集め、渡航先の土地で一緒にファッションをコーディネートするワークショップを開き、そして最後には皆でその街のいちばんのメインストリートを原宿ファッションで装って練り歩く。ストリートファッションショーである。
 たいへん興味深いことに、そうしたファッションショーは全世界一律にはならなかった。フランスではフランスの、ドイツではドイツのカラーが出てくる。その国、その地域ごとに存在する独自の文化があり、その文化と原宿カワイイがミックスすることによって、地域の文化とも違う、かといって原宿カワイイと決してイコールということではない、新たなカラーを帯びたファッションが現れてくるのだった。
 さらに言い換えれば、2014年のいま存在する原宿カワイイは、こうした文化のミクスチャーによって生み出されてきたものであって、決してセバスチャンやもともと原宿にいた日本人の若者たちだけが作ってきたものではない。全世界のカワイイ文化のミクスチャーの結実によって、日々生起しながら展開され続けているものなのだ。
 さらに突き詰めれば、このようにして原宿カワイイが世界に伝播していった背景には、ジャパンアニメの隆盛があったようだと、セバスチャンは分析している。すでに欧米では日本のマンガやアニメが先に入っており、日本の若者文化が受け入れられる素地があった。
 とはいえ、アニメやマンガはすべての人に受け入れられるわけではない。特に「萌え系」と呼ばれるような文化の場合、欧米ではかなり特定の層にしか受け入れられていない。しかしそうしたアニメやマンガが欧米のメディアに流入していったことで、画像や映像が多くの人の目につきやすくなったということはある。そのコンテンツの中でキャラクターが原宿カワイイ的なファッションを身にまとったり、ラーメンを美味しそうに食べていたりすると、萌え系コンテンツそのものは受容しない人であっても、「日本のラーメンを食べてみたい」「あの可愛らしいファッションをしてみたい」と感じるようになる。つまりコンテンツそのものではなく、コンテンツのなかに副次的に含まれているライフスタイルや風景に注目が移行していくということが起きるのだ。
 そしてこの原宿的ファッションへのリスペクトの言葉として、「カワイイ」ということばが広まっていった。アニメなどの日本のテレビ番組の映像を見ると、日本語は理解できないけれども、登場人物がなにかを褒めるときに「○○カワイイ」というような表現をしている。「なるほど、褒める時はカワイイといえばいいのか」と、カワイイという単語が世界に広まっていったのではないか──セバスチャンはそう考えている。

 かつて日本において「カッコいい」と見なされる若者文化は、つねに上から下へと、上流から下流へと流れるものだった。ロックやポップスなどの音楽は欧米から東京へと伝わった。ファッションもそうである。そして欧米から東京に流れ着いた文化は、若干変質しながら、さらに雑誌やテレビによって地方へと伝播していった。高い場所から低きに流れ着いていくというように思われていたのである。
 これは戦後の日本社会において一貫していたパラダイムだったといっていい。若者文化のみならず、ハイカルチャーでさえも欧米への憧れの色が非常に濃かった。欧米のクラシック音楽やファインアートが最上のものであり、日本の伝統文化でさえも欧米という上流で見いだされてこそ、価値があると認定された。
 つねに欧米は上流であり、日本は下流であるという感覚は、思想家の内田樹も『日本辺境論』という著書で指摘している。日本はつねにみずからを辺境の存在ととらえ、江戸時代以前においては中国を、明治期以降は欧米を中心と考え、その中心を目指して学び、追いつこうと努力することが日本的な世界観だったというものである。
 しかしこうした世界観は、21世紀に入るころから急速に衰えた。これはたとえば「クラシック音楽を聴いていることが、まっとうな大人の資格である」というような教養主義の崩壊という面からとらえることも可能だが、いっぽうでインターネットによって文化のミクスチャーや流通が非常に容易になった結果、「中心の存在しない世界」に変わってきたという構造的な変化も大きく後押ししていると私は考えている。
 この時代においては、すべてがサブカルチャーであり、すべてがメインカルチャーである。メインとサブという定義は存在せず、それぞれのカルチャーが独自に存在し、それぞれがぶつかりあってさまざまなミクスチャーが生じ、さらに新たな文化を生みだしている。中心はないけれども、さまざまな円があちこちに存在し、それぞれがぶつかりあっていく、分子運動のようなことになっているのだ。

 私は自著『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)で、中世のグローバリゼーションが生みだした新たな文化について言及したことがある。古代までは中国を中心とする東の文明と、地中海やオリエントの西の文明は分離しており、ほとんど行き来がなかった。東西を結ぶユーラシア大陸中心部が砂漠や高山、さらには山賊だらけの街道で隔てられ、通行が難しかったことが原因だ。ところが12世紀から13世紀にかけてモンゴル帝国がユーラシア大陸を統一し、東西の行き来を容易にした。街道に警察組織を置いて強盗が出没しないように見張り、道路の整備も行い、さらに関税を撤廃して貿易を活性化させたのである。
 この結果、東西のあいだでさまざまな文化のミクスチャーが起きた。
 その代表例としてよく知られているのは、日本では染付という名称で知られている「青花」という磁器だ。中国にはもともと白磁という白くきれいな磁器があるが、この白磁に絵を描くという文化は中国では生まれなかった。一方で中東にはイスラムブルーと呼ばれる鮮やかな青い染料があるが、これを陶磁器の顔料として使うという文化はなかった。ところがこの白磁とイスラムブルーがモンゴル帝国の開いた東西回廊によってついに出会い、白磁にイスラムブルーで絵を描く青花が生まれたのである。
 グローバリゼーションによる文化の衝突は、つねにミクスチャーによってまったく新しい文化を生んでいく。そういうダイナミズムを内包しているのである。原宿カワイイ文化はいままさに、中世の青花と同じようなミクスチャーによって新しい世界文化を生み出しつつあるのだ。
 ここには上流も下流もなければ、中心と辺境もない。すべてが平等であり、しかしすべてが同質化はしていかない。ダイナミックでありなおかつフラットであるという、文化生成の新しい場を生みだしているのである。

 さらに、この文化生成は自律分散的である。
 コンピュータプログラミングの世界に、「伽藍とバザール」という言葉がある。伽藍というのは寺院の大きな建物のことで、バザールは市場のことだ。以前はコンピュータプログラミングによるソフトウェア開発というのは、巨大企業が請け負い、緻密に全体の設計図を作り、スケジュールに従って粛々と組み立てていくというやり方が採られた。これは今でも大企業のアプローチとしては存在している。まるで寺院の建物を造るような壮大な方法である。
 しかしこのような伽藍方式は、途中のどこかでだれかが失敗したり遅延したりすると、がらがらと全体が崩れ落ちてしまう可能性がある。あまりにも隙間なく設計図が組み立てられているため、柔軟性に乏しいのだ。
 いっぽうで20世紀の終わりに近づいて普及してきたオープンソースという手法がある。これはプログラムのコードを開放してしまい、多くのプログラマーが参加し、よってたかって好きなところだけを作って全体を組み上げてしまおうという考え方である。一見、アナーキーで乱雑なように見えるが、実はこのほうが柔軟性が高く、堅牢で安全だということは過去のさまざまなプロジェクトの成果として確かめられている。

 原宿カワイイ文化の生成のありようも、このバザール的構造に似ているところがある。欧米やさまざまな土地で原宿カワイイを支えている若者たちは、セバスチャンに言わせればこのようなものだという。
「彼らにとっては、原宿の文化はわたしたちが知っているもの、わたしたちが作ってきたもの、わたしたちの仲間、そういう感覚」
 だから彼らは自律的に原宿文化をサポートしようとする。増田セバスチャンは2014年に「“Colorful Rebellion”–Seventh nightmare–」という初の個展をニューヨークで開いたが、このときもニューヨークの若者たちが勝手に応援しにやってきた。セバスチャンが「チョコレートが好きだ」と個展会場で発言すると、突如として何百枚も持ちこんでくる若者が現れ、さらには「あなたの好きそうなキャンディーショップがあるから、これから連れて行こうと思う」と会場から誘い出された。個展は権威ある美術雑誌や評論家には当初は注目されなかったが、若者たちがフェイスブックでせっせとソーシャル共有し、この結果、草の根のブームとなって徐々に盛りあがっていくという現象が起きた。
「わたしたちがこの個展を支えているんだという熱意があり、そういう子たちによって時代は動いていくんだと感じた」とセバスチャンは個展後に語っている。
 もはや緻密な計画に基づいて遂行されるプロジェクトや、大手広告企業のマーケティングによって展開されるキャンペーンよりも、フェイスブックやツイッターでソーシャル共有される気軽なプロジェクトの方が支持されるというような現象は、ニューヨークだけでなく東京も含めてさまざまな都市で起きている。
 つまりは文化の生成が、バザールモデルに変わってきているということだ。「チョコレートを数百枚も持っていく」という参加のありかた自体が、それもまたコンテンツのひとつへと変化し、当初のコンテンツの外殻に新たなコンテンツが次々付着していくかたちで、コンテンツが成長し、さらには二次コンテンツを生成し、無限に転がっていく。
 文化は、絶え間なく生成されていくのだ。これこそが、今の時代の新しいコンテンツ生成の全体像である。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

略歴
1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
毎日新聞社、アスキーを経て、2003年よりフリージャーナリストに。
現在、総務省情報通信白書編集委員、総務省情報通信審議会新事業創出戦略委員会委員。
主な著書に、『2011年新聞・テレビ消滅』(文春新書、2009年)、『仕事するのにオフィスはいらない ノマドワーキングのすすめ』(光文社新書、2009年)、『マスコミは、もはや政治を語れない』(講談社、2010年)、『電子書籍の衝撃』(ディスカヴァートェウンティワン、2010年)、『キュレーションの時代』(ちくま新書、2011年)、『「当事者」の時代』(光文社新書、2012年)など。

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